十月の春の行方を見失う

『――俺の気持ちが分かったか!』


開口一番に弾けた及川の声は少しも変わっておらず、ただどこか緊張していたかのように上ずっていた。
既読無視とか性格悪すぎ。どんだけメンタルごりごりに潰せば気が済むわけ。
電話口で止まらない言葉の群れに、ごめんと言いながらも唇は歪んでいた。
――彼の声に安心を覚えた。アルゼンチンに行ってまでバレーを追いかけている及川はどこも違う人ではないよと教えてくれた菅原の声に似ていて、いや、どちらが似ていたかはわからないけれど、ただ、やはり彼はどこまでいっても"及川徹"であることに違いはなかったのだ。
バレー、やったんだ。その前に送っていた腕の写真を見たそうで、彼は声を落としながらそう言った。


『楽しかった。バレー、楽しかったよ』


ずっと、避けてきた。バレーというものはあの及川との間にあった境界線を、彼と岩泉にあって名前にはないものを、明瞭にしてしまうものだった。――そうではなかった。及川とも、同じコートに、同じ目線に、立ってみればよかったのだ。そんなことでよかったのだ。


『…だから言ってただろ、楽しいよって』
『うん。徹とも、ちゃんとやればよかった』
『何それ、俺まだ死んでないんだけど』


帰ったら一緒にやるから。
その声は期限のない約束に強張っていた。


『……徹、私、見送り行けなくてごめん』
『――うん』
『…っ頑張って』


言いたいことはまだまだ喉の奥で燻ってはいたけれど、どうにもまだ吐き出すには時間がかかりそうで、絞り出したようなそのたった一言に彼は笑った。もしかしたら腹も抱えていたのかもしれない。
電話の向こう側で異国の声が混じる。
頑張る。そう言って、通話は切れた。

それから、時折電話をした。日本語が恋しいと冗談めいた言葉を笑い飛ばすには切実で、早朝のランニングに合わせてかけてきているのか、向こうは朝でこちらは夜の時間が大概だった。
今日も今日とて、厚手のカーディガンを羽織りながら夜に沈むベランダに出る。


『――それでさ、これ見てよ!』


ノイズ交じりの声は嬉々としていて、カメラモードになった及川の携帯が彼の足元を映し出した。それから画面は何かを探すように目まぐるしく回転して一度晴れ渡る空を向いた後、一本の木を捉えた。
はっきりと濃いピンクの花が細い枝にちらちらと芽吹いている、名前も知らない植物が映り込む。雰囲気は桜にも似ていた。
及川はその花を映しながら言葉を続ける。


『十月で春ってやばくない? なんかほんと、地球の裏側って感じ』
『日本語使わなさ過ぎて語彙力低くない? 大丈夫?』
『ちょ、ひどい! じゃあどんだけレポすればいいのさ!』


スペイン語って難しいんだよ。
彼はぶつくさと文句を言いながら、それからいくつかの会話をして通話を切った。
メッセージアプリに戻った画面を見つめる。
――出立する前に喧嘩をしたあの日、彼が言いかけた言葉をまだ、聞くことができないでいた。



見慣れた大学のロビーに溢れ返る学生の姿は、大分秋めいていた。丈の長いカーディガンを揺らしながらその隙間を縫い、本館の階段を上る。大講義室の開けっ放しのドアを抜けて、壇上に向かって下がっていく階段を数段降りて、右側の席に着いた。
一コマ前の授業の関係なのか、名前より先にあの色素の薄い髪を見ることはなかった。


「おーす」
「あ、おはよースガさん」


もはや定位置となった二つ隣の席に彼、菅原は腰を下ろして、カバンからルーズリーフを取り出した。


「どうだった? クラブのほう」


前回の資料を整理しながら、彼は楽しかったよと笑った。青城のメンバーがいて、と零す言葉のどれもが、聞き慣れた声音をしていた。
烏野高校バレー部のセッターとしてコートを駆け回っていた菅原の周りに、気心の知れた仲間の姿がないことは寂しいことだと言っていた。そう自覚させられることを避けていたのだとも。
――あの日、大学生になった澤村とネットを挟んだ向こう側にいた菅原のセットアップが、ふとした瞬間に何度も頭を過ぎる。しなやかに伸びた白く長い腕、高く緩やかな弧を描いて落ちる軌道の真下で跳ね上がり、丁寧に澤村の手元に置いていくボール。
高校生の頃はどうなふうだったのだろうと、烏野とのたった三試合しかないプレーを思い出そうとしてみたけれど、及川と岩泉の背中ばかりが浮かんだ。


「――そういえば、もう再来週だね」
「?」
「春高の宮城代表決定戦」


ぴたりと動きが止まる。彼は「もうそんな時期かあ」とぼやいてから、目を伏せた。
最初の頃に見せたような否定的な面差しはない。寂しさと懐かしさを滲ませる瞳を細めながら、菅原は笑った。


「――インターハイは実習あっていけなかったんだよなァ」
「あの坊主の子とリベロの子は、今年最後?」
「ああ田中と西谷? うん、彼奴らももう今年で最後だ。ていうかよく覚えてんなー」
「試合中リベロの子と一緒にずっとテンション高いなって印象が。ほかの子は一年だって言ってたから」


青葉城西は綽綽としたチームだったので、烏野のあの独特の高いテンションがやけに印象深かったのだ。
――去年の十月二十七日。高校バレーを終えた翌日。
白鳥沢戦を及川と岩泉との三人で観戦しながら、どんな話をしていたかはもう思い出せない。ただ、どっちも負けろと試合が始まる前はそう言っていたのにも関わらず、笛が鳴るなり鋭くなった目つきだけは、今も覚えている。
あのチビちゃんが、飛雄が、爽やか君が――。ファイナルセットまで食らいついていく黒のユニフォームを眇められた瞳が追いかける。


「――名字って」


――その隣で見ていたものは、果たしてあのコートで繰り広げられるバレーだったのだろうか。


「及川のこと、好きだった?」

BACK INDEX