あんまりにも認識の外側からやってきた言葉は、咀嚼をするだけでひどく時間がかかった。人は驚くとこうも言葉が脳内で混線するものなのだと初めて知った。
本当に不意に口をついて出てしまったようで、ごめん、と忘れて、を交互に何度も織り交ぜた。そうして絶えず動き続ける瞳から視線を落として、名前はぱちぱちと数度瞬きを繰り返す。
「――そんなふうに、考えたこと、なかった」
及川徹は生まれた頃から近くにいて、今までずっと隣にいた幼馴染で、それ以上でも、それ以外でもなかった。
家族のようで、家族にはなれない。親友にもなれない。ただの幼馴染で、いとこで。その隙間には、そんな風にカテゴライズされる感情があっただろうか。
彼の座面に置かれた手は忙しなく閉じたり開いたりを繰り返していて、まとまらない頭で呆然とそれを眺めていた。菅原の言葉が絡まり合う思考の合間で反芻されるたびに、ちくりと心臓ではないその裏側が痛んだ気がした。
ややもすると講師が壇上に上がり、いつもと変わらぬ授業が始まった。それを言い訳に押し黙り続けた言葉の続きは、果たして何であっただろうか。大して頭にも入らなかったせいでルーズリーフは一面も埋まっておらず、チャイムと同時にトートバックにしまい込んだ。じゃあまた、と手を振った先で、変なこと聞いてごめん、と最後に漏らした言葉にはうまく笑えていたと思う。
バックに滑り込ませていた携帯が振動する。画面は、見るまでもなく彼なのだろうなと思った。
***
あの烏合の衆とも評された烏野高校でセッターをしていたからには、それなりに空気や表情を読むこと自体を不得意とはしていなかった。試合中あるいは部活以外であっても、言葉が相手にとってどんな効果をもたらすかは頭の隅で考えてはいて、だからこそ、授業前にこぼしてしまったものがとんでもない失言だったことなど分かり切っていた。大体、そんなものを聞いてどうしようと思ったのだろう。好奇心でそういったものを掻きまわしてしまうことはよくないことだと思う。及川は、そういうことが好きそうな性格ではあったけれど。
――初等教育において社会科を学ぶ意義とは、と題された今日出された課題を前に、頬杖をつく。一向に進まない文字列に、最早片手分を越える溜息が漏れた。
簡易なデスクの脇に転がるボールを手に取り、背を深く凭れながら頭上に向かって跳ね上げる。指の腹から押し出されていく感触。遠くから聞こえる体育館の床を蹴る音。
――及川を真似る指先。柔らかく笑う眦。コートを忙しなく動く目の冴える青。頭上でまとめた髪が解れる。赤くなった腕を持ち上げて弾ける、感嘆とも安堵とも一笑ともとれない声。
「…はあ」
松川と花巻が、彼女の名前を出したからだ。高校時代の及川や岩泉の隣に並ぶ彼女の話を聞いたから、それがあまりに想像に容易く、だというのにあの浅いようで深いような溝が気になった。見知った顔の知らない話というものは何となく気になるものだろう。それだけだった。ならば、尚更にその関係性を聞く必要などどこにもなかっただろうに。名字のいう幼馴染でいとこだと、たったそれだけでよかったじゃないか。
言いようのない靄がある。それを晴らそうと言語化させて思考するも、心象は曇っていくばかりだった。
土曜日の夜。コートを張りながらしていた話は、大概が再来週に迫った春高代表決定戦のことだった。現三年の後輩たちは二年間を共にしてきたチームメイトで、思い入れも深い。
今年も烏野、青葉城西ともに勝ち上がっていて、更には安定の白鳥沢もおり、去年と似た舞台は出来上がっていた。
渡たちも最後か、とハンドルを回しながら呟いた松川に、動画撮って送ってやるかと花巻が笑った。送り先は言わずもがな、及川だろう。
「菅原も行くんだろ?」
「おー、行く行く」
岩泉は、と花巻が首を後ろに捻ってボールの詰まったカゴを転がしていた彼に声をかければ、カゴから手を離して腰に置くと何でもない顔をして言った。
「悪い、名前が行くっつうから彼奴と行くわ」
「お前らほんとうざい父親だな」
今に始まったことではないのだろうことは、分かっていた。以前にもそういうことが多々あるのだと言っていた話を覚えていて、今回もそういう流れだったのかもしれない。
――靴の中に、小さな砂利が入ったままの感覚だ。小さくて固い小石が、歩くたびに足の裏を刺していく。
「よし、アップ始めんぞー」
その日のトスは、丁寧に上げているはずだというのに今ひとつ正確性に欠けていて、まるで肩から先の腕がまるごと自分のものではないものに、神経が全く別のものに成り代わってしまったように、思えた。