不器用馬鹿の恋だった

岩泉一が及川徹と出会った頃には彼の隣には名字名前がいた。泣き虫でよく及川の後ろをついて歩いていた彼女がバレーに触れたきっかけは、恐らく及川がしていたから、だと思う。自発的な興味を持って始めたわけではなかったからなのか、小学校の体育館でやっていたバレー教室の見学に数回行ったきり、名前はボールに触れることさえしなくなった。その頃からだろうか、彼女が岩泉を見やるときの視線が、少し気になった。気になる、というのは思春期特有の自意識過剰を多分に含んだそういった類のものではなく、どちらかといえば隙を見せれば後ろから刺されでもしそうな、そういったものの方だ。だからといって名前と岩泉との関係性が険悪になることはなく、そのまま学校区分に従って同じ北川第一中学校に進学した。
一、二年生まではよかった。及川の清々しいまでの自信――言わずもがなその顔面とバレーに対して――に群れる女子に名前も岩泉も辟易されながら眺めていた。及川が二年の頃に初めてできた彼女という存在に、てっきり名前は消沈もするかと思いきや、むしろこれで及川の告白窓口にならなくて済むと笑いもしていた。最初こそ無理をして笑っていたのではないかと思いもしたが、そういうわけではないようだった。ならば、あの頃から感じている時折背中を刺される視線は何だったのだろうか。バレーをやらないと決めた名前に直接聞いたわけではないにしろ、理由の一環に及川の存在があったというのなら、必然的にバレーを続けている及川の隣に並ぶ岩泉に対して嫉妬じみたものを訴えられているのだと思っていた。そういう視線を寄越すくらいには、及川のことが好きなのだと思い込んでいたのだ。
一人目の彼女と別れて、二人目、三人目と数が増えていった頃、帰り道は岩泉と名前の二人きりになることが多かった。だから、不意に聞いてしまったのだ。


『…お前、いいのかよ』
『なにが?』
『及川に決まってるだろ』


岩泉にとって彼女はただの幼馴染にしかなりえず、及川と名前の隙間に流れる空気の変容を少しは感じ取っているつもりだったのだ。何せ、二年に上がって同じように名前の周りをうろつく男子を最初に威嚇し始めたのは及川だったのだ。だからこそ彼の行動の意味が分からなかった。笑っている彼女も分からなかった。
名前は眼を瞬かせて、小首を傾げる。


『彼女とっかえひっかえしてるクズさをどう叱ればいいかってこと?』
『異論はねえけどそこじゃねえ』
『……私、徹の彼女になりたいなんて思ったことないよ?』


――訝しむように眉根を寄せながらそう言った名前の言葉に、ずっと、違和感を覚えていた。
中学三年に上がり、新しく入部してきた一年の影山飛雄に及川が目に見えて苛立ち始めていたのが分かった。名前も及川のそういった機微を悟ってはいたようだが、バレーという領分に、彼女は口を出したことは一切なかった。
及川について回っていた影山と名前が及川の繋がりで廊下でよく話しているのを、見たことがある。隣に立っていた彼はいつものような清々しさを顔面に張り付けながらも、面白くはないという空気感を隠すことはなかった。それが影山に対してなのか名前に対してなのか、その時は測りかねていた。背後から迫る天才セッターと眼前に塞がる因縁の牛若に挟まれて、ぐずぐずに沈んでいっていたのを知っていたからだ。
――それが、弾けた瞬間。耐えかねて及川の額を頭突いた日。あの日から、名前は及川から距離をとった。及川と二人きりになるような時間を避けるようになった。


『…なんか最近、名前に避けられてる気がする』
『知るか。お前がクソみてえなことしてるからだろ』
『ええ! 俺の方がいっつも振られてるのに!?』


部活が長引いたせいで二人で並んで帰る日は、たいてい名前の名前が出る。唇を尖らせる及川は、部活が休みの日には必ず彼女と帰宅をしながらも、それ以外の日は名前との三人で帰るようになった。休み時間には名前の教室まで用もないというのに遊びに行った。最後の試合を見に来た名前の許にも一番に駆け寄った。受験勉強を始めた彼女が青葉城西ではない別の学校の資料を持っていたことで漸く知った名前の進学先に目に見えて落胆していたし、だからといってお互いが進路に口を出すような性格ではないからかその飛び火は岩泉にかかっていた。


『岩ちゃん知ってた?』
『あー、悩んでたのは知ってた』
『何それ、俺だけ除け者って二人ともひどくない?』


不定期で塾に通っていた名前がいない及川の部屋はひどく広く見えた。


『お前がクソみてえなことしてるからだろ』


いつだかに吐いた言葉を、手元の二次関数を見ながらに同じように言えば、彼は押し黙った。


『…三人で同じ高校とか、絶対楽しいじゃんか』


不貞腐れたような一言に、思わず「はあ?」と存外に大きな声が響いた。


『お前、彼奴のことどう思ってんだ』
『は? どうって…いとこでしょ』


いきおい手元にあった数学の教科書で及川の頭を叩いた岩泉に悪意はない。角が、と頭を抑え込んでうずくまった及川に、今世紀最大の溜息をついた。

それから別々の高校に入学をして名前とは部活も相まって会うことも難しくはなったが、公式戦の二階席には名前の姿があった。及川が当時付き合っていた何人目だかの彼女もいたのにもかかわらず、大抵試合が終われば名前に会いに行っていた。こういう時でしか会えないからとこぼす及川の聞き飽きた科白で、恐らく何度も振られているのだと思う。部活が休みの日に名前に用事があればしつこく相手を聞きにかかり、挙句にそれが男であれば電話をかける始末のこの男の姿を過保護ないとこという枠に入り切るわけがないだろうとはもう気づいていた。気づいたところで、この及川徹は名前への認識を改めない。松川と花巻が名前ちゃん大好きだなと揶揄うたびに、同意を示す癖に一向に付き合う彼女は名前ではない別の人だ。しかもその雰囲気が大概名前に馬鹿みたいに似ている。――岩泉にとって、二人は平たく言えば大切だと評するのが正当な幼馴染だった。これは、お節介というものだ。名前がそこらの変な男に引っかからないように見守るくらいはしてやるかと、そういう心持だった。
それが、高校三年の夏頃。いつかは名前に正直になれる日も来るかと思っていた或る日。及川はアルゼンチンに行くと言い出した。


『名前には言ったのか?』
『……まだ』


彼は決めたことに迷っているわけではない。そういう男ではないことくらい、知っている。
名前が進学先の高校を及川に伝えていなかったように、彼もまた、その時の名前と同じことをしているのだろう。早く言えよ、という最大限のアドバイスを彼が実行したのは出立の二日前だった。
空港のロビーに一向に現れない名前に、それもそうだろうなと及川の自業自得を納得する声も上がったことは否定しない。


『ま、こうなるだろうなとは思ってたけどよ』


苦笑いを顔面に張り付けた及川は、腕時計を掲げて「もう行くよ」と腰に手を置いてくたりと笑った。


『…名前のこと、よろしく』


とんと拳が右肩を叩いて、そうして背中を向けて去っていった。
飛行機が離陸していくのを横目に見ながら、空港のロビーを出て行く。自動ドアを抜けたすぐそばのロータリーの長椅子に名前の姿があった。
はじめ、と震えた声に、溜息を飲み込む。及川は、いつ帰ってくるか分からない。それでも最後に会わないことを選んだ彼女の顔にはいっぱいの後悔と呼ぶべき涙を浮かべていて、背中を思い切り叩いた。


『後悔垂れた顔してんじゃねーぞ』


このまま、すれ違ってはほしくはない。それは幼馴染としての願いだ。
あれから半年。半年ぶりにやっと返信来たんだけど、と及川からのメッセージに、あの日に飲み込んだ溜息が漸く吐き出されたような気がした。よかったなと短く返した返信。それから数日後に、今度は名前から、及川から一向に返信が来ないというメッセージが入った。相変わらずこいつらは何をしているんだかと思いながらも、笑った。
馬鹿みたいに不器用だった二人がもうあの頃のような関係性を望んでなかったとしても、そうなれなかったとしても、笑っているほうがずっといい。
それまでは、岩泉が見守っていることが一番いいのだと近すぎた距離からそう思っている。

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