僕たちの春が埋もれている

高校生だった頃、休みの日に行われていた公式戦は殆ど見に行った。青葉城西の応援団から少しばかり離れた場所で、冷たいプラスティックの座面に腰かけながらルールも大して分からないバレーを見ていた。応援団と名前の間には大抵どこかの高校の女の子たちがひしめいていて、試合が始まる前に声を揃えて「及川先輩がんばってー!」なんていう黄色い声が飛び交っているのを聞いていた。青葉城西は、どんなに背の高く、強肩で、レシーブ力のあるチームにも負けなかった。たった一校、白鳥沢にだけは負け続けていた。
毎回、及川は試合を終えると必ず二階席まで律義にやってきて、女の子の視線を掻い潜って嬉しそうに笑って名前と呼ぶ。見に来てくれてありがとうと笑う顔は中学の頃よりも端正になっていて、返す言葉をいつも失っていた。相変わらずバレーの日々みたいだねと当たり障りない会話をして、それから当時付き合っていたという――それもいつも変わる――彼女の許に行ってくると別れては、次の試合まで会わなかった。

――高校三年生の、あの十月。二階席にいた女の子たちの一体誰が、及川の彼女だったのだろう。
来週の土曜のことだけど、と岩泉から入ったメッセージを眺めながら、ふいにそんなことを考える。
中学の頃から、及川の隣には可愛らしい女の子が並んでいた。数か月単位で代わる代わるしていく彼女たちに、岩泉がまるでしびれを切らしたかのような口調で「お前はそれでいいのか」と言われた言葉を未だに覚えている。良いも何も、及川徹の彼女になりたいわけではなかった。岩泉と及川の隙間にあったものを羨んではいたけれど、本当の家族でも親友でもない及川徹との間にあったものは好きや嫌いという、そんなものではなかったのだ。――そんなものでは、なかったはずだ。


『及川のこと、好きだった?』


先週の授業前に菅原から前触れもなく吐き出された言葉はあの頃の岩泉に問われた言葉と同じだった。そんなふうに考えたこともなかった。及川と付き合っていた彼女たちを羨んだことはない。――いや、遠く離れていていく及川とまるで同じ世界線に立てているような気もして、立てていないのは名前だけだったのかもしれないと落胆したことはあった。それでも、彼女たちのようになりたいとは矢張り思わなかった。
お風呂上がりの濡れた髪をタオルに挟み込んだままベッドに背を凭れていれば、不意に電話が鳴った。


「…もしもし」
『――なんか元気なくない? どうしたの』


こちらの用事などお構いなしに不意打ちにかかってくる及川の電話に、心の整理がつかないまま応答してしまった。よもや声だけで覚られるとは思わず、乾いた笑いだけが落ちた。彼のこういう鋭いところは昔からだった。
何でもないよと言ったところでもう無意味なことはわかりきっている。それでも、そんなことないよ、と首を緩く振って否定すると、及川は少しだけ押し黙った。


「……」


明日は菅原と会う授業がある。この一週間、ずっと答えが出せなかった。
――名字名前は、及川徹にとっての何になりたかったのだろう。家族のようにもなれなかった。岩泉には勝てないと分かっていた。彼女になりたいわけではなかった。それでも、及川の隣にはいたかった。境界線の差異を寂しがった。同じ目線で同じものを見ていたかった。


「……徹はさ、」


空気が喉を抜けていく。声に成り損なった呼吸に、電話口から「なに、?」と戸惑う音がした。
タオルに染みた水が首元を濡らしていく。前髪から、ぱたりと水滴が腿に落ちた。
――朝を告げる鳥のさえずりも、路上を走り去る車の音も、誰彼の陽気な声も、暗い夜に沈むこの部屋との圧倒的な違いに、世界の違いを押し付けられている気がする。
視界の隅に、バレーボールが映り込んだ。同じコートだべ、と笑った菅原の声が弾ける。


「――そういえばさあ、付き合ってた彼女は?」


俯いていた顔を上げる。蛍光灯の眩しさに目を細めた。


『…もう、とっくに別れたよ』
「そうなんだ…いつ?」
『……今まで興味なかったくせに』
「なんとなく。秘密なの?」
『…インハイ終わった頃』


インターハイ予選があったのは六月頃で、彼がアルゼンチンに行くことを決めたのは夏頃だったと言っていた。


「…その子には、アルゼンチンのこと言ってたの?」


だんだんと無言の間隔が伸びていて、我ながら面倒なことばかり聞いているなとも思う。聞きたかったことは、こんなことではないことくらい――。


『言ったよ。それもあって尚更、別れたけど』
「…そ、か」
『――…ねえ、なんでこんなこと聞くの』


十月の部屋の空気は寒々しくて、息も白くなっていく気がした。


「…私、」


息を吸う。あの頃吐き出せなかった想いがある。もう今更、そんなものが正しい言葉だったなんて思いもしていないけれど。それでも、そうだ。まだ、前に進めていない。あの三月の段ボールの山の何処かに、未だに押し込めたままなのだ。


「――寂しかった。徹が言ってくれなかったことも、アルゼンチンに行くことも、全部、寂しかったよ」


たった一言、それだけが言えていれば彼の最後に飛行機に乗り立っていく背中ぐらいは見送れただろうか。
たらればの話など、したところで意義もない。それでも、もう半日前を漂っていたメッセージが捩れていかないように、あの三月に埋もれてなどいかないように。


「――あの日、なんて言おうとしたの?」


徹の背後で、笑い声が弾けた。トール、と不慣れな単語を綴るような声に、及川はそちらに何かしらを告げた後にごめんと小さく息を吐いた。


『……俺は、名前のこと家族みたいだなんて思ってない』


想像していた言葉に声が漏れてしまいそうになって、きつく下唇を噛み締める。


『俺にとって名前は、岩ちゃんと同じ幼馴染だと思ってた。でも、アルゼンチンのこと、名前にはすぐに言えなかった。もっとうまく、名前には全部言えるようになるまでって思ってた。向こうでの生活とかそういうの含めて、漠然とした話じゃなくて、名前には、そういうのちゃんと話せるまではって、思ってたら、だんだん言えなくなった』


明瞭な未来の話がしたかったのだという。ただそれだけが、あの頃は捩れていた。


『――名前のこと、好きだったから』

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