いつもの席に彼女の姿はなかった。
他の座席にも姿は見当たらず、これは相当に先週の言葉が痛手だったのではないだろうかと心の中で頭を抱えた。いや、単純に体調不良かもしれない。この授業以外は、会おうと思って声をかけなければ、以前の食堂のような余程偶然でない限り会うこともない。十月のこの季節の変わり目は、慣れていたと思っていても寒暖差に身体が追い付かなくなる。そうなのかもしれない――そうでは、ないのかもしれない。
参考書とルーズリーフを開いて頬杖を突いた。来週の土曜は仙台市体育館で準決勝戦が行われる。岩泉と名字は一緒に行くようなので、そこで会うことになるだろう。そうしたら、なんといえばいいだろうか。ごめんと謝ることは正しいことなのかもわからない。彼女の思考の一端を踏み荒らしてしまった自覚はある。無遠慮に入り込んだ挙句あんな――寂しいと自覚したあの日のような、顔をさせてしまった。
はあ、と盛大に吐いてしまった溜息に、通りかかった同じ学科の友人に「スガ、彼女にフラれたべ」なんて笑われた。
「そんなんじゃねーよ」
「いつもの子いないし、溜息でかいし、それで違うって他に何があんだよ」
前の座席に腰を下ろした彼は他人事のように楽しそうだった。
花巻にも及川に負けるなと言われた。及川と名字の似合いように、彼女と及川との関係性に、ずっと靴の小石が取れないでいる。
及川のことが好きだったのかなんて聞いておいて、これではまるで――。
ボールペンが、挟んでいた指先から転げ落ちた。
――烏野の人。そう呟いた彼女の一言から、始まった。及川のいとこなのだと笑う彼女はその及川との間に差異を感じていた。連絡先を交換して、飲み会から逃げられなくなった彼女を連れだして、無神経なことをいってごめんと謝られて、そうして現れた岩泉とバレーがまた繋がった。寂しがり屋だったんだねと不明瞭な感情に名前を付けて、お互いが抱えていた苦さと向き合った。澤村を呼んで放り投げたバレーボールの先で、名字の背中に及川の姿がちらついた。彼のフォームを真似る彼女の指先に、二人の隙間を見たような気がして、それが少し"羨ましく"思えた。青葉城西のメンバーとバレーをするたびに、及川が何処かに存在している。アルゼンチンにいるはずなのに、いつも確かに、此処にいる。
――及川と名字のそんな関係性が羨ましかったのだろうか。幼馴染なんていうそういうものを? ありがとう、スガさん。へたりと顔を緩めて笑うその眦の先にいた及川を?
「スガ? どうした?」
及川のことが好きなのかという答えは、そんなふうに考えたこともなかったという驚いた本音。それに、安堵した自分もいた。彼女は少なくとも、周りが思うようなものを及川に自覚的に向けていたわけではなかった。その事実に、安堵したのだ。
――他人の機微に、鈍くはないと思っていた。バレーにそういうところは直結してきて、だからこそ調子を上げる術も現状に合わせる術も考えてトスを上げていた。
名字が上げたトスはちぐはぐで、それでも、眩しかった。体育館の照明にかぶさるボールは真っ直ぐに、他でもない菅原に上げられていて、そこに及川を真似る仕草があったとしても、向けられている視線の先には菅原とボールだけだ。
ナイスキー。辿々しい掛け声。恐らくそれは、及川には掛けられなかった声なのだろう。
携帯で出席を取る傍ら、名字にメッセージを飛ばした。
***
正午を告げるチャイムが鳴る。町内放送から流れる聞き慣れた電子音に、布団に包まっていた頭を出した。外はどんよりと曇っていて、くしゃみをひとつする。
『名前のこと、好きだった』
及川から告げられた言葉が、何度も何度も頭の中を反芻する。
――今も好きだ。珍しくどこも茶化していない声音に、言葉が詰まった。
来る者拒まず去る者追わずといった彼の遍歴とその感情は矛盾していないだろうか。曖昧に問うてしまった言葉に、彼はバツの悪い声音で言った。
『名前に少しでもそういうふうに見てほしかったんだと思う』
アルゼンチンにいて、いつ帰るかも、どう生活していくかも分からない今のまま名前と付き合いたいとは思ってない。
朝の日課のランニングの足を止めてまで、彼は腹に溜めていた言葉を吐き出すように口早にそう続けた。
十数年来の付き合いで初めて口にされた幼馴染としてではない想いに、ただ呼吸の音ばかりを零していた名前を及川は笑った。
『…もっと早く、気付いてればよかったな』
笑いながら、そうごちた独白になんと返せばよかったのか。――チーム練習が始まるからと切られかけた電話に、夜の部屋に響くほどの声を上げた。
『わ、たし…っ私、徹のこと、好きとか嫌いとか、そんなふうに思ったことなくて…でも、ずっと隣にいたかった、こんなふうに離れるのは寂しかった…けど、そっちでたくさん、たくさんバレーをして頑張ってる徹のことを聞くのは、すごい、嬉しいっ』
正しい返答なんて本当は何処にもなくて、ただ黙って涙をこぼすより、どうしてと腹を立ててしまうより、そんなことよりもっと言うべき答えがあったのだろう。あの三月にも。
『ずっと、応援してる』
うん、とこぼした言葉を最後に、通話が切れた。
それから、髪を乾かすことも忘れて目尻から溢れる涙を拭っていた。髪に巻き付けていたすっかり濡れそぼったタオルで目尻をこすりつけて、小さい頃からの彼の背中を思い出してはまた泣いていた。
この涙がなんなのか分からないまま、気付いたらベッドの脇で寝てしまっていた。あまりの寒さにふっと目が覚めたのは午前四時頃で、それから布団に入り込んでまた沈むように眠った。
不規則な睡眠の所為か、呆然とする頭で昨日の夜のことを思い出した。朝方にいつも入っていた及川からのメッセージはなかった。それに少しだけほっとしたのは、返す言葉も見つからなかったからだ。応援しているよなんて、アルゼンチンでたった一人努力を続けている及川に向けるには貧弱な言葉だっただろう。もう既に努力の限りを尽くそうとしている及川に、これ以上の努力を続けろと責めてしまったような気もする。そんなことはないのだろうけれど、誰よりも頑張っていることを知っているはずなのに、追い詰めてしまってはいないだろうか。彼の好意に報いることもできないというのに、そういうことを考えてしまう自分の保身にも、嫌気がさした。
うつらうつらと瞬きの合間に短い夢を見て、一時間か二時間か、時間が経った頃に携帯がメッセージを報せるために震えたけれどなんだかもう動く気力もなかった。