金曜、土曜と発熱と緩解を繰り返して目が覚めたら日曜のお昼だった。
テーブルに置いてあったペットボトルの蓋を開けることさえ億劫ではあるけれど、喉のじくじくとした痛みには耐えられそうにもない。仕方がなく布団から這い出るようにテーブルまでいくと、その脇に小さなチョコレートが一粒置いてあることに気づいた。そういえば、昨日の夕方ごろに岩泉がお見舞いをしに来てくれていたなあと曖昧な記憶を掘り起こす。
汗でべたつく身体も気持ちが悪く、すべてが激しく面倒ではあったけれどもう一度布団にもぐる気分にもなれずに風呂場に足を運んだ。
温かいシャワーを頭からかぶりながら、長く見ていた夢の残滓を辿っていた。
風呂場から出た頃、シーツに埋もれた携帯の振動音が耳に入る。辿り着くよりも先に着信は切られてしまったようで、履歴を見返すとそこには"菅原孝支"の文字が並んでいた。
岩泉以外のメッセージを二日ぶりかに確認すると、菅原のまだ見ていないメッセージが数件、入っていた。その下には、あの日の通話で終わっている"及川徹"がいる。
菅原の名前をタップすれば、いつもの授業があった日に「ごめん」の一言。つい先ほどに、「岩泉に聞いて、体調大丈夫か?」と「何か欲しいのある?」と気遣う文面があった。
ずび、と鼻をすする。目頭の奥で何かがずっと溜まっているような気持ち悪さにくしゃみをしたが、なくなってはくれそうにない。
――菅原のどこも、悪くないだろう。何も、何一つも、謝るべき悪いことなどない。
ただ、及川とはもう以前のような関係性に戻れないのではないのだろうかとそんな空虚に気づいてしまっただけだ。及川に向けていたものが、向けてほしかったものが何だったのかわからなかった。家族にも親友にもなれなくて恋人にもなりたいわけではなかったのに、それでも及川徹の隣にいたかった。それが、なんなのかが分からなかった。好きや嫌いだとそんなものに分別されるような感情ではなかったというのに、だというのなら、この胸を空く隙間はなんだというのだろう。この隙間が苦しい。及川に向けられた言語化された以前のものとは違う目を、分かったとごめんで飲み下せるほど名前は大人にもなり切れない。割り切れない。
分からない。ただ、三月から進むことさえできなかった時間が、寧ろ彼のおかげで動き出そうとしている。それだけは正しくて、ごめんだなんて、言わないでほしかった。
胸が、ツキツキと痛む。菅原に、及川と名前の間にあるものをそんなふうに区別などしてほしくなかった。好きだとか嫌いだとか、菅原の口から、聞きたくなかったのだ。及川と向き合うたびに彼がいつもいた。いつもいつも、立ち竦んでいた名前の弱い背中をなんてことのないように叩いていったのは他でもない菅原だったのに。
着信履歴の画面から折り返しすることもできないで、また、濡れた髪をぶら提げて部屋の真ん中に立っている。
(全部、ぐちゃぐちゃだ)
高校ジャージに袖を通して、訳も分からずに溢れて零れる涙をそのままにチョコレートを一つ口に入れた。
頭がぐわんぐわんと揺れていて、真昼の日差しに部屋は明るくて、外から聞こえる笑い声が羨ましくて、それがなんだか遠い昔を思い出してまた無性に涙があふれてきた。
「っ…ひ、…っう、」
口の中のやけに甘ったるい味に、昨日の岩泉を思い出した。
『…はじめ、前に、言ってたよね』
『何をだよ』
『徹がいろんな子と付き合ってて、お前はそれでいいのかって』
テーブルに置かれた牛乳プリンをちびちびと食べながら、目の前で弁当をつまんでいた岩泉は懐かしいような目をしていた。
『徹と付き合ってたら、もっとちゃんと、向き合えてたのかな』
バレーを羨ましがることも、世界の違いも、二人の隙間に目を背けることもしないで。アルゼンチンで一人戦うことを選んだ及川に、半年間も置いていくこともせずに。
しっとりした唐揚げを噛みこんだ彼は、はあ、と何を言っているんだかとでも言いたげに顔をしかめた。
『んなの知るか。どうせあいつはバレーで頭がいっぱいだし、お前は鈍いし、別に付き合おうが別れてよーが、どこもなんも変わんねーべ』
そうなのだろうか。昨日は返す言葉を探すことに精一杯で、朝よりは平熱に近い温度を示す体温計を確認した岩泉はそのまま体育館に出かけに行った。
岩泉は、及川の味方でも、名前の味方でもない。そんな彼が変わらないというのなら、確かに、変わらなかったのかもしれない。
変わらず、及川とは向き合いそびれていたのかもしれない。バレーをする彼と同じ世界に立つことなどできないのだと不貞腐れていたのかもしれない。――及川のいとこで二人の幼馴染であったあの関係性に変わりはないのかもしれない。
誰かの笑い声が聞こえる。それらに交じる、携帯の着信音。通話ボタンを押せば、なんだかひどく久し振りな声を聞いた。
『あ、名字…?』
「…っ、…スガ、ざん」
『……、泣いてる?』
ごめん。名字、ごめん。
脇を走る車の音に掻き消えそうな声に、また目尻が熱くなった。
「スガさんが、いてくれなかったら、わたし、ずっと、きっと、向き合えなかった」
彼がごめんと、そう言うことだけは間違っていると分かる。
「だから、そんなふうに、言わないで」
カタンと、玄関先で響いた物音。
菅原は長いような沈黙の後に、うん、と苦い声音でそう呟いた。