ただただ靄を払いたかった

唐突に家を尋ねるのも気味が悪いかと、先に電話をかけてはみたものの彼女は出なかった。もしかしたらまだ寝ているのかもしれない。もうすぐ正午も過ぎる頃で、アパートの駐車場にあるポールに寄りかかりながら時間を潰していた。十分近く経った頃だろうか、もう一度電話をかけてみれば、飛び込んできたのは嗚咽交じりの声だった。
急いで玄関前まで駆け上ってから、恐らくそれが体調によるものだけのせいではないのかもしれないと感じた。
――電話口で聞こえた涙声の理由が、分からなかった。


「……なんで、泣いてる、か聞いても?」


それが菅原のせいだと言われることも怖くて、声が情けなく吃る。
ぐずぐずになった鼻を噛む音が、携帯からも、背中越しのドアの向こうからも聞こえた。ドアの正面の手すりに腕を預けながら、電話の向こう側の声が音を紡ぐのを待つ。


『…アルゼンチンに行くの、ずっと知らなかったの。夏には決めてたのに、出立の二日前に、言われて、家族だと、思ってたのにって、それで、喧嘩別れして』


――寂しかったんじゃないか。そう言ったのは、及川と名字がまるで世界線の違う人のような口ぶりをしていたからだ。同じバレーのプレイヤーとしても及川のセンスは他者を寄せ付けないものがあって、ああいう人が世界に花開いていくべきなのだろうと思わせるような選手だった。そういうところを彼女は別世界だと感じていると、そこにいた岩泉と及川との間には馴染めないからだと、そう思っていた。そこに降って湧いたアルゼンチンに行くという出来事が拍車をかけていたのだと。


『スガさんに、好きだったのかって言われて、ずっと考えてた…私、徹の何になりたかったんだろって。家族でも、親友でも、彼女でも、違うの、ただ、隣に、同じ目線で、いたかった…っ』


そしたら、好きだったって言われた。
涙で声はしわがれていて、不鮮明な言葉でも必死に整理をしようと吐き出している。
彼女は、彼女の寂しさは、及川徹との噛み合わなかった隙間なのかもしれない。
決定的な差異を、作ってしまったのだ。菅原のたったあの一言で、恐らく、及川と名字が積み上げてきた透明な足場を、突き崩してしまったのだ。
言葉が何も出なかった。青葉城西の誰も彼もが穏やかに思っていた二人の隙間はもう戻れなくなってしまったのかもしれない。彼女の及川への疑問を確定付けさせてしまったのは紛れもない菅原で、そんなつもりなど微塵もなかったというのに。――いや、本当は、ずっと靴の中の小石に靄を抱えていた。その小石の、靄の正体は、彼女の向こう側に立つ及川徹だった。
なんの言葉もこぼさなくなった菅原の無音を埋めるように、名字はもはや過呼吸交じりの呼吸を続けていた。
ブラウンのドアの向こうに、名字がいる。彼女は一向に涸れない涙と段々と覚束なくなる舌で、言葉を探している。


『…っ…もー、分かんない、頭痛いし、ぼっとするし、全然、徹の言いたいこと分かんないし、スガさんはそういうこと言うし、』
「…ごめ…いや、うん…」


電話口の嗚咽。部屋の中で何かがくずおれる音がして、一瞬のタイムラグで電話口からも硬い何かにぶつかる音がした。
痛、と小さくこぼれた音に大丈夫かとかけても、名字は堰を切ったように止まらない声を漏らすばかりだった。


『…名字、俺、今名字の家の前にいて、嫌じゃなければ、会いたい』


鼻の啜る音さえ消えて、一瞬の静寂。それから、ぺたりと素足が床を滑る。
カシャン、と鍵の回る音がして、そっとドアが開かれた。携帯の通話ボタンを切って、ポケットにしまい込む。どんな顔をしてどんな言葉をかけていいのかも考えていなかったせいで、恐らく顔面いっぱいに曖昧な笑みを浮かべているのだろうなとは気がついていた。
ドアの隙間から覗かせた名字の顔は酷い顔をしていて、ただ熱で赤らんだ頬に涙を浮かべた瞳が震えているのに場違いな心臓が跳ねた。


「…ひでー顔」
「……なんで、」
「岩泉から、お見舞いの権利もらった」


なにそれ、と僅かばかり表情を崩した名字は、ドアを大きく開けるとどうぞとしわがれた声を落とした。
手前にあるキッチンの先にある扉は全開で、先程まで寝ていた形跡を残すベッドが見えた。玄関から一歩も動く気配のない菅原を振り返り見上げると、唐突に床にしゃがみこんだ。


「名字、!」
「…ごめん、ぜんぜん、頭回ってなくて」


――彼女と及川の隙間にあったもの。それが、羨ましかった。彼女の傍にはいないというのに、いつだって隣に立ってみせる及川の影に羨望の眼差しを向けていた自分自身に気づいた。


「無神経なこと言った。ごめん」
「…謝んないでってば…スガさんに言われたから、ちゃんと、向きあおって、思ったの」
「…うん、だから、それはもう、ごめんて言わない」


彼女と同じ目線になれるよう膝を折りたたんで、目の前に買い物袋を置いた。中から岩泉に言われた牛乳プリンを取り出して、名字の手首を掴んで返した掌の上に乗せる。


「及川とか、岩泉とか、そういうの、名字が大事にしてたもの、だったと思うから」


彼女の大切なものを乱雑に踏み荒らしたことへの謝罪だ。その先の結果を、彼女は菅原のせいだとは言わないのだろう。それは、もう分かった。
名字は携帯を握ったままの反対の手で菅原の指先ごと握りこむと、俯きながらか細い声を吐いた。


「……スガさんに、言われたのが、なんか、いやで」
「うん」
「徹とか、はじめとか、を、そういうふうに思ってるって、思われてたのが、いやで、…ごめんなさい、うまく、言えないけど」


じわじわと瞳の縁からまた溢れそうになる涙も、やけに熱い手首も、濡れた髪も、それが張り付く項も。
全部に目が行く。きっと、この邪な心臓を彼女は一生だって知らないままかもしれない。
それでも、彼女の落としていく言葉の一端に菅原がいるというのなら、その理由を問い質すこともなく自惚れてもいいのかもしれない。

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