隙間で紐解く鮮やかな糸

「――名字、」


菅原の声を遮る着信音が響く。それは名字の手の内にあった携帯からで、画面を傾けるとそこに"及川徹"という表示が見えた。
ぜんまいの切れた人形のように、熱ぼったい指先は微動だにしなかった。
もしもこの場に彼女しかいなかったら、着信に応じない選択をとるのだろう。これでは及川の連絡を無視していたあの頃と同じだ。それはもうだめだ。あんなにも柔らかく誰かの会話に潜む二人が、これ以上捩れたままでは――他でもない菅原が、嫌だった。これは恐らくそうさせた原因の一つを作った自分への相当なエゴなのだと思う。それでも、もういい。
名字の手から、携帯をかすめ取った。何かを挟む間もなく、通話開始のボタンをタップする。


「スガさ――」
『あ、名前! 熱出たって聞いたけど大丈夫!?』


鉄筋の壁に反響するほどの大きな声の後ろで、誰かの歌う異国の声が流れている。


『聞いてる? ていうか生きてる? まさかまたあんなちっこいプリンで飯にしてない?』
「……と、おる」


ぱたぱたと、頬を伝って床に水滴が落ちていく。


「…いま、深夜じゃないの…?」
『え、まあ、そうだけど、朝か夜って多分寝てるでしょ』


身体の水分の全部を絞り出すような涙はまだ涸れない。
名字が手の甲で瞼を擦ろうとしてしまうから、その手を柔く取った。不思議そうな目でこちらを見上げてくる名字に笑って、その耳に携帯を押し当てる。


「…だいじょーぶ……だから、心配、もう、しなくていいよ」
『は? 何言ってんの』
「だって、徹の、私、何にも、なれない、のに」
『――はあ? 名前ってそんなバカだったっけ? 熱のせい?』


及川の盛大な溜息に、菅原も名字も肩を震わせた。
――とんだ勘違いをしていた。どんな一言であったとしても、二人の何も、これから先だって変容させることなど出来ないのかもしれない。いや、出来ないのだ。


『確かに俺、名前のこと好きだって言ったし今も好きだけど、別にそれに応えられなかったからって、それでお前と俺が幼馴染でもいとこでもなくて今までの全部なくなるとか思ったわけ?』
「…っ!」


及川徹が羨ましい。隣にはいないというのに、涸れ果てそうにもない涙をいとも容易くぬぐい去っていく。


『…思ったわけだ。連絡しなかったのは、流石の及川さんも頑張れってフラれた手前そんなすぐに切り替えできるよーな男じゃないし、あと単純にルームメイトに誘われたりいろいろあったんですー』
「…うん」
『どっかの誰かさんの半年間に比べたら、かわいい二日間じゃない?』
「…、うん」


詰まる息が、零れていく。彼女の喉の奥で堰き止められていた呼吸が通る、そんな音がする。二人の隙間で絡み合っていた糸が解けて緩んでいく。
生きてるみたいだし、良かった。そう言った及川は、「何かあったら岩ちゃんパシりなよ」と残して、あったかくしなよ、お休みと笑って通話を切った。
――ドアの向こうで、子供の走り回る足音が聞こえる。車の走行音。葉が掠れ合う音。昼間の温かな陽気が、キッチンにまで差し込む。
ぽすりと力尽きたように、名字の頭が菅原の肩口に寄りかかった。


「…ありがとお」


この頭の中を割ったら低俗な我儘で溢れている。何せ及川徹への羨望と憧憬に塗れていたのだから。けれどやはりそんなものは少しだって名字は知らなくていい。こんな格好もつかない、巡り巡って及川に救われているこの心境なんて。
ジャージ越しにも分かるほどの熱を孕んだ身体を抱きかかえた。腕の中で困惑する声が上がるも、お邪魔しますとだけ一言断ってテーブルを越えた奥のベッドにぽすりと沈めこむ。ぱちぱちと瞬きを繰り返す彼女の頭にまでばさりと布団をかぶせて、床の上に腰を下ろした。


「俺も言いたいことがあるんだけど、名字が治ったら言いたい。だからさ、早く元気になってくれ」


ひょこりと布団から顔を出した名字は、泣き疲れたのか重そうな目を細めた。


「…もう、帰っちゃう?」


反則だなあなんて呟いたところで、彼女にはこれもまた伝わることもないのだろう。


「ちゃんといるから、早く寝なさい」
「はい」


子供のようなやり取りに少し笑う。それから汗ばんだ額にはりつく前髪を思わずさらってしまったけれど、当の名字は羊を数えるような間もなく瞼を閉じた。
天井のダウンライトをぼんやりと眺めて、時折寝苦しそうな呼吸を聞いて、玄関に置きっぱなしのプリンを思い出した。
足音さえも憚れるような気がして静かに廊下を戻る。買い物袋と落ちたプリンを拾って、冷蔵庫を開けるとそこには同じパッケージのカップが二つ並んでいた。なんとなく、そのカップの上に菅原が買ってきたものを重ねる。
右手にあった冷却シートを袋から一枚抜き取って、ぱたりと静かにドアを閉めた。
透明なシールをはがして、名字の前髪をかき上げる。
どうか、幸せな夢をみているといい。そうして目が覚めたら、彼女に伝えるべき言葉を沢山重ねよう。不慣れでも、柔らかな音を手繰り寄せながら。

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