直前まで見ていた夢の名残に起こされた。熱が出ているときは大抵夢見は良くないものばかりだというのに、覚えていないことが物悲しいような、そんな夢を見ていた。誰かに起こされた気がしたのだけれど、もう誰だかも覚えていない。ただ、柔らかな眦とは対照的な快活な笑い声を聞いたような気もする。
薄ぼんやりと開けた瞼の先も、同じような暗さで、目を開けていないのではないだろうかと瞼を触そうと持ち上げると動く影を見た。自分の手に驚いて、それから、外がどっぷり暗くなっていることを知った。
緩慢な動作で起き上がると、布団の上にぺとりと白い何かが落ちる。拾い上げればそれは役目を終えて乾いた冷却シートで、ゆっくりと隣を見下ろせば夜でも映える白い髪が布団に埋もれていた。
(…あ、帰らないでって、言ったんだった)
散漫な思考回路で随分と菅原には物を言ってしまったような、いや、言った記憶があって、段々と申し訳なさに血の気が引いていくようだった。というか十月に上着一枚では寒かっただろうに、腹にかけていたブランケットを抜き取って肩にかけても、彼は起きる気配はなさそうだ。
――彼がいなかったら。及川とは未だに連絡の一つもしていないかもしれない。岩泉がもしかしたら間を取り持ってくれていたかも分からないが、あの日聞きそびれた一言を聞こうとはしなかっただろうとも思う。聞かないで、それでもずっと徹にとっての何になるのかという靄を抱えながら過ごしていたのかもしれない。
ん、と寝相に合わせて揺れた白い髪にそっと触れてみる。
初めて彼を見たとき、左目の下の泣き黒子を歪ませて、静かに笑う人なのだろうなと思った。色素の薄い髪も肌も、薄幸の佳人のような儚さを想像させた。それが、話せば話すほどにそんなものとは程遠い快活な人で、よく笑う人で、かと思えば一人寂しさに耐えていて。それでも彼の方が先に、そんなものから抜けだしていた。腹積もりが決まっていないのは名前で、手を引いてくれる人だった。
ぎしりとベッドのスプリングが軋みを上げて、菅原の瞼が夢から覚める準備をする。少しの間を開けた後、長い睫毛が上下して、擡げていた頭を起こした。
「…やべ、寝てた…」
「おはよ」
気付いていなかったのか、菅原は肩を跳ね上げて驚くと瞠った目を名前に向けた。
「っびっくりした…人の寝顔見てるとか悪趣味だろォ」
「睫毛長くてびっくりした」
「めっちゃ見てるし…寝たらマシになった?」
こくりと頷けば、テーブルにあったペットボトルの蓋を開けて渡される。水分補給、大事だべ。転寝してしまった気恥ずかしさか、少しだけ唇を尖らせていてそれがまた可笑しくて笑えば余計に顔が歪んでいった。
「牛乳プリン、冷蔵庫にあったけど食う?」
「…スガさんが、買ってきてくれたの、食べたい」
部屋の明かりをつけようと立ち上がった菅原の背中が一瞬動きを止めた。ぱちりとスイッチを押して、何事もなかったようにテーブルの上の袋を漁って端からたまご蒸しパン、おかゆパウチ、プラスティックのスプーンを並べる。冷蔵庫に牛乳プリンとゼリーがあります、と笑った顔につられて、そういえばよく知ってるねと小首を傾げた。
「岩泉がそれしか食わねえって言ってた」
「…そういうわけじゃ、ないんだけど…前に、徹が買ってきて美味しかったから、それからなんとなく熱が出たときに食べるものっていうか」
思い出すほど、名前の隣には及川がいる。"変わらない距離"で、ずっといる。
「…蒸しパン、半分こしよ」
「――名字、多分きっと、それでよかったんじゃねーのかな」
床に胡坐を掻く菅原は、蒸しパンの袋をぽすりと名前の両手に収めた。
「家族とか親友とか、彼女とか、そういうラベリングなんか最初っから何処にも要らなくて、及川のいとこで幼馴染で隣にいたいって、それでいいんだよ」
やっぱ、世界なんか違くなかったな。
ぱちんと、耳元でシャボン玉のような何かが弾けた音がした。
――及川が好きだったのか。そう言った彼の言葉が頭の中で反芻するたびに、靄が濃くなっていた。それが何なのかがよく分からなかったけれど明確にそれを感じていて、及川との隙間を手繰ることで精一杯で気付くことができなかった。
熱が出たら、これからはこれ買ってくるよ。
そんな話をしたのは今からずっと前の、小学生くらいの話だ。岩泉と及川が二人だけの世界を作り上げていた頃で、あの頃の名前にとって小さなこのプリンが及川と名前との繋がりのようにも思えてしまっていたのだ。
「…私、スガさんが好きなんだ」
世界は違くなくて、及川のいとこで、二人の幼馴染で、今までもこれからもそれは変わらないままあり続けてもいいものだった。バレーがなくても、牛乳プリン一つなくても、その繋がりは消えることもなければ証明する必要もカテゴライズする意味もないものだった。
全部、彼が肯定してくれたものだ。及川と名前の間で固く絡んだ結び目を解いて正しく手繰り寄せてくれたのは、間違いなく菅原だった。
だから、嫌だったのだ。彼に寄せていたものを、及川との隙間に挿げ替えられてしまったようで。
「っ…あー…俺が先に言おうと思ってたんだけどなァ」
くたりと首を曲げて下を向いた彼の言葉に、瞬きを繰り返す。
気まずげに咳払いを一つこぼして、菅原は顔を上げた。
「俺も、好きだ。俺は名字との間にちゃんと彼氏っていうのが欲しい」
名前が及川とも岩泉ともバレーとも繋がりそびれた隙間にあった透明な糸は、きっとこの日の彼のために、垂れていたのかもしれない。