言葉の縁に名残が"いる"

五限目が終わった頃に、名字から朝の慌ただしさの謝罪と意外と家が近いことを話すメッセージがきた。お礼何がいいか考えておいてと、尻尾を振る柴犬のスタンプが時間差で送られてきて、それがなんとなく彼女の雰囲気に似ていて帰り道で噴き出して笑いそうになった。
――朝、不意に通知音につられて見た画面には及川徹の名前があった。最初の段落だけ表示されていた文面が目に飛び込んできて、慌てて目を逸らした。人のメッセージを覗き見る趣味はない。それでも、及川のメッセージが頭から離れなかったのは事実だった。


『いい加減、既読無視するの止めて――』


及川のいとこだという名字は、初めて会った日にありがとうと顔を綻ばせていた。けれど、今にして思えばあれは、どこか泣きそうな顔をしていたようにも思えた。
二人の間に何があったのかなんて詮索するのも野暮だと思う。そもそもそんな仲でもない。
信号待ちの間に無意味にSNSやらサイトやらを往復させる指が、新規メールを告げるポップに触れた。それは来週のスポーツ心理学の休校を報せていて、代わりに出された課題を目で追ってから、携帯をしまって横断歩道を渡る。
課題内容は『挫折とその受容までの過程』というレポートで、提出はその次の授業までだ。それまでは彼女には会えないのかと、不意に頭の隅で沸いた言葉に立ち止まる。
狭い歩道のすぐ脇を、車が走り去って行く。蝉の声は、そういえば最近は蜩の声に変っていた。

翌日の土曜、日曜を跨いで月曜日。二限終わりに昼ご飯を何にしようかと、食堂の入り口に飾られている食品サンプルの前に立っていれば唐突に声をかけられた。


「スガさん、今日はー」
「名字、おーっす」
「うわ運動部っぽい挨拶出た」


振り返れば、黒のスキニーに白いパーカーを着た名字が立っていて、今日の朝は肌寒かったななんて彼女の服装を見て思い出した。昼にもなれば暑いのか、袖をまくっている。


「そうかあ?」
「そうだよ、あ、今日の日替わり定食揚げ出し豆腐ある。スガさん何にするの?」
「どうすっかな、まあ並びながら考えんべ」


昼食時ということもあって、券売機の前には食券を購入する列を作り始めている。二人でその最後尾に並んでいると、彼女は「お礼、何がいい?」と見上げてきた。
何がいいかと言われると正直そこまで大それたこともしていないので悩む。かといって気にするなとはもう言えないので、前に一歩ずつ進みながら考えていれば、そういえば共通のものが有ったなと思い出した。


「今日、明日、明後日だったらいつ暇?」
「んー明日だったら三限で終わりだよ」
「俺も三限までだし、明日、飯食いに行きがてら課題やんべ。あの授業休校になったし」


横に並んだ券売機に隣り合って小銭を投入して日替わり定食のボタンを押せば、隣で短い声が上がった。


「驚いて押し間違えた」


隣にあった豚の生姜焼き定食を押したようだ。
カウンターの方へ歩きながら交換するかと言うと、嬉しそうな顔をしたので日向みたいだなと内心思いながら、それからこの間の柴犬のスタンプを思い出してとうとう堪えきれずにやはり噴き出して笑った。



***

火曜日の三限終わりに、名字から今終わったと連絡が入った。菅原も丁度終わったところだったので、本館のロビーで待ち合わせをすることになった。
荷物を詰めて、少しだけ小走りに教室を出る。本館の四階の廊下は教育学部生しかおらず、彼女の棟は本館の隣にある。視線を窓の外にある看護学科棟の入り口に向ければ、ミントグリーンのだぼっとしたパーカーを着た彼女が見えた。珍しく髪を高く結っていて、重そうなバックを両手で抱えて歩いている。犬っぽいんだよなあ、なんて考えながら、階段を降りた。
ロビーには名字のほうが僅差で先についていて、教科書の所為か角ばったバックを肩に提げて手を振っている。


「四階の窓から丁度歩いてるのが見えたよ」
「え、じゃあ躓いたの見た?」
「ん、言わなければ知らなかったかな」


墓穴を掘ったらしい。彼女はうわと顔を歪めて、唇を尖らせていた。


「見てたら窓から大笑いしてただろーなー」
「セッターって性格わるいんだ」


歩き出した名字の声は、及川を映している。彼が平時どんな性格であったか想像がついて、なんとなく釈然としない。まあ、今の発言は自覚があったので否定はしないが。
前を行く彼女の隣に並んで見下ろせば、むくれた顔をしていた。


「…この間から思ってたんだけど」


名字ってあのスタンプに似てるよな。
そう言えば、彼女にカバンを後ろに思い切り引っ張られた。

早めの夕食のような遅めの昼食のような微妙な時間ではあったけれど、意外と辛いものも大丈夫だという言葉を信じて中華料理屋に行くことにした。菅原が食べたいものを、といった彼女はその選択肢はそういえばなかったなと言いながらも、中華は好きだと笑った。「激辛とか食べたらスガさんめっちゃ顔赤くなりそうだよね」と期待した眼差しを向けられたので、一時期澤村や東峰と激辛の店探しをしていたことを思い出す。食べるのは専ら菅原ではあったけれど、そんなふうにいわれたことはなかったなと思いつつもどうだろうなと返しておいた。


「……清々しい顔して食べてるな…!」
「スガだけに?」
「っ! そういうタイプだったの!」


麻婆豆腐をいざ目の前にして食べ始めた名字の顔のほうが真っ赤だった。心なしか涙目にも近いようだが、旨いと辛いを交互に話していて無理をしているような具合ではなさそうだ。
彼女の期待には沿えなかったが、そんな冗談を言えばじわじわとツボに入ったのか、蓮華を置いて肩を震わせながら忍んで笑い始めた。


「っ待って、すごい、不意打ち過ぎて、ふふ、!」


ひとしきり静かに笑いを耐えてから、目尻に浮かんだ涙を人差し指で掬って彼女は姿勢を正す。ただ、菅原を視界に入れるたびに思い出し笑いをぶり返しそうになるようで、笑いのツボはどうやら浅いらしい。


「はー、だめだもう顔見れない」
「笑い過ぎだろォ」
「だって、徹が爽やか君なんて呼んでたからそういう風な頭になっちゃうじゃん」


無意識に出た名前だったのか、彼女は一瞬豆腐を掬う手を止める。


「そういえば、この間カップ焼きそばかなんかで滅茶苦茶辛いの出てたよね。あれも食べたの?」


何事もなかったかのように再び赤い挽肉を口に頬張る彼女に、それ高校の時の話だべと笑う。気づいたところで、菅原には到底関わり得ない二人の話になるのだ。
こめかみに僅かに滲んだ汗を拭う。
彼女の頬の赤さは、まだ引きそうになかった。

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