課題をやるには六時も過ぎて遅かったので、このまま家路につこうかと話している途中、彼女が徐にバレーボールが家にあるのだと言った。食後の運動でもしようよと笑った名字の菅原の家から程近い――岩泉が漕いだ自転車で十分の距離を近いというのか――のだというアパートの前まで連れられてから、家からボールを持ってきた。二人の家の間あたりにある、ブランコしかない小さな公園のたった一本の電灯を中央に、二メートルもない距離をあけて向かい合う。まだ陽も沈み切らない黄昏時は、明かりがなければボールも目で追い難かった。
「まだ、綺麗なんだこれ」
彼女の両手に収まっているボールの大きさに違和感を覚え、受け取ってみるとやはりそれは小さすぎた。
「これ、小中学生用?」
デザインは数年前のもので、それはあまりにも表面がきれいすぎた。殆ど床に突いてもいないのだろう。菅原の手の中にすっぽりと収まるボールから目を離して、名字を見れば、
「うん。小学生の時、徹からもらったの」
クリスマス会で当たったんだって。
――そう言葉を継いで笑った彼女は、投げてと両手を上げた。
「私は、やらなかったんだけどね」
彼女の頭上に弧を描いて落ちていくボール。大きいパーカーの裾から伸びる白い足が、ジャンプと同時に緩く伸びる。隣に岩泉の姿を錯覚させるほどに、彼女のその姿は及川のセットアップの姿勢によく似ていた。
細い指から弾かれたボールは綺麗に菅原の下へと帰ってきて、ゆるく曲げた肘ごと押し出す。慣れた感触よりも幾分軽い。名字の頭を越しそうな軌道を描いたが、彼女は難なく落下地点にまで下がって返してきた。
「あと、アンダーもやったよ」
袖をまくり上げて腰を落とし、柔く振り下ろしたボールを返してくる。方向性は定まってはいないが大凡相手にはしっかりと戻る程度にこなせていた。
構えを解いて立ち上がった彼女の頭上に返す。両手で捕まえると、胸の前に下ろして軽く表面を撫でた。
「…なんで一緒にやんなかったのか、聞いてもいいか?」
――及川の話をする彼女の笑顔は歪だった。最初に及川のいとこだと話していた笑い顔も苦々しく、そして先程の表情は、形容するならば”泣きそう”だというものに近いのだろう。
自分とは世界線の違う人だと思っていたが、そうではなかったようだと。ありがとうと綻ばせていた割に、どこかずっとそんな表情が隠れていたように思う。
今も、そうだ。
「バレーが、嫌いだったから?」
疑問符を乗せた語尾に、間を置かずに違うかもと首を傾げる。
「徹はいとこだったし遊び友達だったんだけど、はじめとバレーをするようになって、置いてけぼりばっかりだったから、多分、意地張ってたのかも」
それでも、彼女の持つそのボールは綺麗だ。使っていないからではなく、押し入れに仕舞い込まれたままでもなかったから。
「けど、一人じゃトス練もできないっていうから、それだけは一緒にやってたんだ」
あといつの間にかアンダーの取り方も。
ボールの色は褪せているのかもしれない。漸く明かりのついた電灯が二人を照らしているけれど、たかだか小さな公園の一本では暗すぎる。
「そっか」
遠くで烏が鳴いている。吹く風は少し肌寒くて、吸い込む空気は生温い。
青城と試合をした日は、秋も終わりかけで今よりも寒かった。ただ、セーターを着るにはまだ早く、吐く息は透明で、体育館の熱気は暑く、背中にじっとりとした汗を掻いていた。そんな彼らの姿を、コートから離れた観客席で彼女は見ていたのだ。
世界線は違くはなかった。ありがとうと綻ばせた顔。――ずっと返事をしないメッセージ。
「名字はさ、」
菅原が両手を上げれば、彼女はボールを投げて寄越す。
「――寂しかったんじゃないんかな?」
「さみし、かった?」
飲み込めずに反芻した言葉が、暮れなずんでいく夕闇に溶けていく。名字の少し手前に落として取りそびれたボールが、菅原の方へと弾みながら返ってきた。片手で鷲掴みして持ち上げる。
彼もふと、思い出した。
「――俺はさ、寂しかったんだと思う。あいつらとバレーやんのがあんまりに楽しくて、今バレーしようにもあいつらはいないわけだから、そういうの自覚的にさせられるから」
そうだ。胸の奥底に沈み込んでいた靄は目を逸らしたかった、それでも気付いていたもので、ただ吐き出すにはまだ鮮やかすぎて、褪せてくれるまでは溜め込んでいたかったのだ。第二体育館で過ぎていった日々がもう戻っては来ないものだと思うと喪失感が大きくなっていきそうで、だから漠然とした怖さを感じていたのだ。
こんなに小さなボールを追いかけていた時は、バレーをすること自体が楽しかった時間だったなと浮かぶ。それは、今も変わりはない。
「…寂しかった、んだ」
「――っええ、名字!? う、あ、悪い、俺そんなつもりじゃ、」
電灯の明かりの下で、彼女はぽろぽろと静かに目の際から涙をこぼしていて、菅原が見せた動揺に首を横に振った。
「…徹の高校バレーが終わっちゃったあと、またちっちゃい頃みたいに、高校離れた三年間分仲直りできるかなって、そう思ってて。そうしたら、アルゼンチンに行くんだってもう決めてたから、悔しいっていうか、なんか、八つ当たりみたいなしちゃって、」
パーカーの袖をしとどに濡らしながら、何度も何度も拭っては言葉を落としていく。
「そっか、私、徹が遠くに行っちゃうことが寂しかったんだ」
二人の間にあった距離を歩み寄った分、彼女は頭一つ以上の身長差を埋めるように見上げて、笑っていた。
「寂しがり屋だったんだねえ、私たち」
――靄をため込んでいた。言語化できない漠々たるそれらは目も当てられないほど幼過ぎて、それでも彼女は、そんなふうに笑っていた。子供みたいだねと、最後の一滴が頬から伝い落ちた後のどこにも、もう苦々しさは残ってなどいなかった。