理想郷の果て

 始まりは何て事は無い、些細なものが切っ掛けであった。

 愉しく賑やかに、わいわいがやがやと絶えず笑い声が響く、よく晴れたお散歩日和の事である。今日は気分も良くて、日課の業務も粗方片付けてしまったから、気晴らしに軽い運動でもしようかと、本丸の庭に出てみようかと思い立った。開放された縁側から降りて、沓脱石に置かれていた誰の物でもない突っ掛けを履いて、一人ぽてぽてと庭先へと歩き出す。足に嵌めた突っ掛けは、少し……否、かなり大きく、自分の足に合うサイズでは無かったが、ちょっと近場を出て歩く分には申し分無く、十分な物であった。
 そうして、サイズの合わない下駄を履いてカランコロン、はたまた、ずりずりと不恰好に摺り足で歩いて回った。ふと、誰かの視線を感じて首を巡らせれば、遠く離れた東屋の縁側から此方を眺める黒き刀の姿に気付く。笑みを浮かべて緩く手を振ってやれば、男の方も穏やかな笑みを浮かべて応え、同様に手を振り返してくれた。其れに満足して、花の咲き乱れる庭先へと足を戻せば、近くに居た短刀の子等が此方に気付いて駆け寄ってくる。その内、彼等に手を引かれて一番の見頃らしい花の場所へと連れて行かれる。何とも穏やかな風景が、其処にはあった。

 或る時は、また、別の日の事である。
 平和な日常の広がる午後の一幕。日課の業務をこなしている折に、お茶と茶菓子を運んできてくれた彼が、そろそろ休憩を挟んだらどうかと進言してきた。ついでに、もうじき遠征に出ていた者達が一斉に帰ってくるだろうからと、出迎えの準備をしてやれと急かされる。其れに苦笑を零しながらも頷いて、机の上に広げ探していた歴史や兵法についてを記した資料や作りかけの霊符を片して応じる。近侍でなくても、付かず離れずの距離で居てくれるのが心地好くて、私は自然と笑みを浮かべていた。すれば、男も似たような笑みを浮かべていた。
 門の方で帰還したらしき者達の賑やかで騒がしい声が聞こえてくる。どうやら、今日も無事何事も無く任務を完遂出来たようだ。呼びに来た近侍の刀に促されるように席を立って、部屋を出て行く。近侍でない男は、遠慮なのか、己の後に続いては来なかった。

 その後も何度か、小さな違和感を感じる事はあった。
 限り無く近くには居るのだが、明確な側へは寄って来ず、いつも少し離れた場所に彼は居た。どうして、以前のように近くには来ないのか、理由が分からず、不思議だった。他の皆のように、彼も同じ輪の中へ入れば良いのに……。何故だか、彼だけ一歩身を引くように、少し離れた位置から此方の様子を見守る風に居た。
 寂しくは無いのだろうか。少なくとも、私は寂しいと感じていた。敢えて空けられた距離感が、彼との間に空けられた、心の距離感のように思えて……。埋められるものなら、埋めたいとも思った。けれど、彼が意図的に空けたものだった場合、其れを無暗に詰めるのも良くない事だろう。自然と元の距離感に戻るまでを待とう。
 でも……あれ、そもそもが元の距離感って、どうしてたっけ。元々はどんな感じで接していたんだっけ。以前のようにって、私は以前はどうしていた……?
 唐突に分からなくなって、無性に不安に駆られる、そんな気がした。すると、忽ち周囲に自分の刀達が寄ってきて、あれやこれやと話題を振り、あの手この手で私の気を引いた。その内、何に頭を悩ませていたのかすら忘れて、気付けば皆と揃って笑みを浮かべて笑って過ごしていた。そんな中、彼だけは、いつも少し離れた場所から見ているだけだった。

 違和感は次第に大きくなっていき、記憶との齟齬を露わにするみたくその差を広げていく。


執筆日:2023.06.12/公開日:2023.07.17