うわごと


 浴室から長兄キャスターの部屋は確かにそう近くはない。……近くはないとはいっても、所詮同じ家の中、一階にある浴室の扉を開けてすぐそこの階段を登り、廊下の一番奥の扉、それが彼の部屋だった。
 この決して遠いとも言えない道のりの途中で——今日もまた、彼は死人のように転がっていたのである。

「……キャスターさん、起きてください」
「…………んん……」

 階段を登ってすぐのところで力尽きている長兄の肩を揺する。なかなかどうして起きそうにもなく、「もー! キャスターさーん!」と大声で彼を呼んでもみたがうんともすんとも言わなかった。
 閉じた彼の目の下には隈、一体今回は何徹目だったのだろうか。

「…………まぁ、階段を登れただけ頑張ったんでしょうね……」

 しっとりとした彼の肌、ドライヤーどころかタオルで拭くことすらしてないのかというほどに濡れている髪、恐らくサッパリしようとシャワーを浴びて部屋に帰る前に体力の限界でも訪れたのだろう。

「困ったな……他のみんな、今いないんだよなぁ……」

 だからといってこのままでは風邪を引くかもしれない、と思うと放っておく事もできず、私は彼の腕を上げ、肩を貸すような形で彼の体をずりずりと引きずって歩く。

「……っおも……!」

 重量もさながら、私よりも身長のある男性を抱えるというのは中々に難しいもので、どうしたって彼の足の先が床を引きずってしまう。ずりずり、ずりずりと彼の爪やらなにやらをすり減らしながら、私は彼を彼の部屋へと運び入れた。

「う〜……もう、キャスターさん、これで何度目ですか……」

 そうぼやいても返ってくるのは寝言のようなうめき声だけ、私は彼をベッドの上へとなんとか転がして、持ってきたタオルでその髪を拭き始めた。……我ながらなんとも手慣れたものだ。
 それも致し方ないと思う、なんせ、こうして彼を運ぶのも初めてのことではないのだから。

(……パソコン、画面つけっぱなし……)

 部屋同様ものが乱雑に置かれているデスクの上で、ノートパソコンが静かに点灯している。見れば画面には「送信完了」の文字と完成したであろう原稿のデータ。どうやら今日は仕事を完了させてからの寝落ちだったらしい。

(なら、無理に起こさなくてもいいか)

 以前一度だけ、原稿の途中で落ちた事があったが——その後はひどいものだった。叔母でもあり担当でもあるスカサハが自宅まで押しかけ……いや、本当にひどかった。うん。

 私は彼を起こさないようそっと髪の水気を取りつつ、ふぅ、と小さくため息を吐く。
 ……本当は、こんな甲斐甲斐しく世話をするのも恥ずかしいしなんだかなぁとは思うのだが、普段食事や何やらでお世話になっているし……やっぱり、風邪なんか引かれでもしたら、放置した罪悪感も湧くだろうし……。

 というか、私が来るまでは一体どうしていたのだろうか。普段他の三人が一緒にいる日でも、廊下に落ちているキャスターを拾う様子は見た事がない……オルタなんかは、完全に無視して跨いでいくのを見たことさえある。

(もしかして今まではずっと放置されてたのかなぁ……)

 あり得るな、と苦笑いをこぼすと、眠っていたはずのキャスターが薄らとその眼を開けたことに気がついた。

「……ん……?」
「あ……おこしちゃいました?」
「…………んん……」

 彼の腕が宙をかき、おもむろに私の肩に触れる。彼は私を見ることもなく、ぼんやりとした顔のままその手を下へと滑らせていく。

「わ、と、きゃ、キャスターさん」

 くすぐったさに身を捩る私の腰を、彼の腕が強く抱き寄せた。不意をつかれバランスを崩した私は、そのまま彼の上へと倒れんでしまった。

「ん……どこいくんだよ……」

 胸の上で強く抱き止められ、私はパニックと恥ずかしさで叫びそうになるのを堪えながら「だ、誰と間違えてるんですか!?」と身体を起こすことを試みた。
 しかしそれは無駄な努力というもので、寝ぼけているはずの彼の力にすら私には敵うはずもなく、私は無力感に打ちひしがれながら再び瞼を下ろした彼の顔を見上げた。

 あぁ、そうだ、きっと誰かと間違えているんだ。彼女、とか……そうでなくても、懇意にしている女性だとか。プロトが「上の二人の女癖は悪い」なんてこぼしていたこともあるし、きっとそう。ここまで運んで風邪もひかないよう布団にも入れたのは私なのに……。

 それが無性に面白くなかったので、私は半ば無理やり彼の腕の隙間から這い出した。そのせいで髪が乱れてしまったのもまた不愉快だ。

「……? んんん……」

 私がいなくなったことで、彼の腕はまた宙を切る。多分、その抱きしめていたはずの女の人を探しているのだろう、眉根をいつもより寄せながら、口をへの字にして手を彷徨わせている様はある意味滑稽だ。

「……本当、そこまでは付き合い切れませんから——」
「——……涼、……」

 ぽつりと、彼の口から漏れたのは私の名前だった。え? と聞き返すも返ってきたのは規則的な寝息と時計の針の音だけ。先ほどまでゆらゆら揺れていた片腕も、ベッドからだらりと垂れてしまっていた。

「……また、寝た」

 なんだか少しだけほっとしながら彼の部屋を出る。……酔っ払いと寝ぼけた人間の相手はしないに限る、だってどうせ、後になったら覚えてなんていないんだから。けど……

「……目を覚ましたわけじゃない、のに……なんで、私の、名前……」

 それじゃあまるで、抱き寄せたのが私だとわかってたみたいじゃないか。
 ——いや、そんなわけ、ないか。
 いやに熱くなる頬も何もかも全部気のせいという事にしてしまえ。私は誰にというわけでもなく「ばか」と小さく呟いた。