意地の悪い人


 人のまばらな広い教室に、無機質な声が反響している。

 淡々と話をする彼の低い声は、なるほどどうして心地が良く、彼の話が興味深いものでなければ、居眠りの一つしてしまうのも頷けた。

「――さて、今日はこの辺りにしておこう」

 とん、と彼――言峰教授が教材を教卓の上で整える音でハッとする。もうそんな時間になっていたのか。

 驚き時計を見ると、どうやら講義終了十分前のようで、なるほど、という気持ちと、おや、という気持ちが同時に私の中に湧いてきた。
 なにせ、いつもの彼の講義であれば、終わりギリギリまで話をして「では今日の話を踏まえ来週までに提出するように」と大量の課題を押しつけて去っていくのが定石なのだ。

 そんな彼が呆れたように短く息を吐きながら、私……のさらに後ろにジロリと視線を向ける。

「……ところで、後方に座っている青い髪の男だが、君は確か私の講義を受講している生徒ではなかったと思うが」
「げ」

 聴き慣れた声に半身で振り返ると、これまた見慣れた顔があった。ランサーだ、珍しい、以前、言峰教授のことはよく思っていなさそうな反応をしていたのに。

 それよりも言峰教授の方だ。今「私の生徒ではない」と口にしていたが……もしや受講者の顔を覚えているんだろうか? いや、彼は目立つし、それで気づかれただけという可能性もあるが。

「ふ、大方誰かに代返でも頼れたか。生憎だがそのようなもの頼まずとも細かく出席を取ってはいなくてな……しかし、今日くらいは一人一人名前を呼んで確認するのも、良いだろう」

 やけに嫌な笑顔で彼がそんなことをいい、本当に一人一人の名前を読み上げていく。そうして最後に呼ばれた名前が彼に代弁を頼んだ者のだったのだろう、ランサーは律儀に「……おう」と拗ねたように呟いた。

「では、今日の課題だ。提出は一週間後の十八時まで――なに、難しくはないだろう、今日の私の話をきちんと聞いていればな」

 一枚のプリントをひらつかせながら、彼は最後に、

「……そういうわけだランサー、お友達によろしくと伝えてくれ」

 と、人の悪い笑みを浮かべていた。



「ちっ……! 相変わらず性格悪ィ……」
「今日のは代返頼むのと頼まれるのとが悪いよ」

 講義が終わり教室を出て、当たり前のように私とランサーは連れ立って歩く。彼も今日はこれで終わりなのだろう、足は自然と家のほうへと向かっていた。

「どこ行くんだよ、帰ろうぜ」

 しかし私はそうはせず、じゃあここで、という顔をして彼の隣から離れる。それを不思議に思った彼が、そんなことを言いながら私を引き留めるが、残念、不真面目なランサーとその友人と違い、まじめな私にはしなければならないことがあるのだ。

「私、教授に話があるから」



「……義理の兄の手伝いか? 精が出るな」

 そんなこんなで言峰教授の研究室へ向かった私に、開口一番にかけられた言葉がそれだった。どうやら義兄であるランサーが彼に認知されているのは事実のようで、そのついでか何かわからないが、私のことも知ってはいるようだった。

 ……ランサーのことは関係なく覚えていてくれていたなら少しは喜ばしいのだが。なにせ、前年からずっと彼の講義を受けていて、さらに言うなら皆勤賞なわけなので。

「え? 違いますよ、課題の提出で質問があって」

 講義中の課題の説明ではわからなかったところ――主に提出形態や時間について、私は詳細に彼に訊ねていく。これは一年彼の生徒でいて学んだことだが、彼はわざと曖昧に伝えてこちらを勘違い≠ウせるような言い方をすることが割と、ある。
 しかしそんなことで単位が危うくなったりするのはごめんなので、私は時々こうやって彼に詳細を聞きに来ていたのだ。……彼は記憶に留めてはいないようだけど。

「意外だな、あの男に代わりに聞きに行ってくれとでも頼まれたのかと」
「まさか……自分で聞きにくるでしょう」
「いやなに、奴自身が来るより、勤勉な君が来たほうが私の心証が良いとでも考えるのではないかと思っていてね」

 ――予想外、私が思うより彼は私を認知してくれていたらしい。

「そ、そ、そうですかね……まぁ、ランサーさんのご友人のことなら自業自得では?」
「!」

 それが少し嬉しくて、私は思わずポロリと本音を口に出した。さすがに生意気な可愛げがない発言だったかと、はっと口を押さえる私を見て、彼は堪えきれないかのように小さく笑い声を漏らし始める。

「ふ、くく……そうか……」
「?」

 なんでそんなに楽しそうなんでしょう、とは思いつつ、でも幻滅されていないのならばよかった、と胸を撫でおろし、「では、お忙しいところ失礼しました」と頭を下げて踵を返した。

「――ああ、少し待て、神崎」
「……え? あっ!? はいっ!!」

 扉に手をかけたところで名前を呼ばれ――驚きに振り返る。いや、だってまさか、あの言峰教授が名前まで憶えているとは思わなかったもので。

「これを」

 手渡されたのは小さな箱。印字されているのはどうやら日本語ではなく、どうやら海外のもののようだった。

「……? これは」
「なに、貰い物だ、私は食べないのでね」

 箱を振るとからからと音がする、飴だろうか。
 とにもかくにも、そう言った彼の微笑みに思わず火照った頬を隠すように、私は早足でその場を後にしたのだった。



 帰ってその話をランサーにすると、彼は訝しんだ様子で「本当にそれ、食いもんか?」などと失礼な発言を繰り返していた。

「未開封だったし、ラベルも食べ物のそれだし、そんなに疑うことないと思うけど」

 何をそんな警戒するのか、と思いながら、箱から取り出した黒い塊を口に放り込む。

 色的に、きっと黒糖や黒蜜なんかと似たような味が――なんて考えていたら、口の中に広がったのは甘さではなく――こう――形容しがたい、未知の味覚で――

「っ……!?」
「言わんこっちゃねぇ」

 彼は箱に書いてあったサルミアッキ≠フ文字を見ながら、やっぱあいつ性格悪いなとため息を吐いた。