なんてことないバレンタイン


 バレンタインだから——そう言って貸し切らせてもらったキッチンに、バターの焼ける良い匂いが漂う。軽快なタイマーの音にオーブンの扉を開くと、その香りはさらに強くなった。

「ん〜……いい感じかも!」

 鉄板の上に並べられた様々な形のお菓子、そう、クッキー。それらの匂いを肺いっぱいに吸い込んでから、私は「よし」と心の中でガッツポーズをした。

「最初はダメかと思ったけど……一人でもなんとかなるもんだなぁ」

 ちらりと後ろを振り返ると、そこにあるのは茶色……いや、黒色の物体。勿論ココアを入れたとかそんなことではない、単に私が焦がした第一陣である。

 どうせだから手作りでも……と言い出した私に、「本当に大丈夫か」「材料は多めに買っておけ」「渡したレシピ通りに作れば失敗はしないはずだ」なんてしつこくメッセージを送ってきたエミヤの顔を思い出し、ほろりと涙が溢れ出た。ありがとう、エミヤお兄さん、お陰で渡す予定だった人達の分はどうにかなりそうです。

「……なぁ、あれ、誰に渡すんだろうな」
「いや、俺が知るかよ……」

 ……ヒソヒソと話す声が聞こえる。
 居間の扉を少し開くようにして、あーでもない、こーでもないと話しているのは恐らくプロトとランサーだろう。そんなに気になるなら声をかけてくれればいいのに、隠れられているとこちらから声もかけにくい。

「……なにしてんだ、お前ら」
「うわっ、オルタ ……!」
「しっ、しーっ……! バレるだろ!」

 そしてその二人の背後からオルタがのっそりと姿を現した。
 隠れていた二人とは違い、堂々とキッチンへ歩いてくるオルタに「おかえり」と声をかけると、彼は挨拶もそこそこに、並べられたお菓子を見下ろし「作ったのか」とひとつつまみあげ、ひょいと口に放り投げてしまった。

「あ……こら、行儀悪いよ」
「ん、うめぇ」
「ほんと? えへへ、良かった……じゃなくて」

 悪びれる様子もないオルタに軽くため息を吐いてから焼けたクッキーを綺麗に並べていく。そして新しくいくつかの小皿を取り出した私に、彼は「まだ何かするのか」とカラフルなそれを物珍しそうに眺めていた。

「うん、アイシングクッキーにしようと思って……可愛くできるといいんだけど」
「そうか……おい、どうせメイヴの分もあるんだろう。俺と連名ということにしとけ」
「えぇーじゃあちょっと手伝ってよう」
「手伝ったろ、味見係」
「横暴だなぁ……じゃあ、アイシング作るのも手伝ってくれたらいいよ」

 はい、とボウルと泡立て器を渡すと、思いの外素直に「了解」と言って受け取ってくれた。まぁ、これでちゃんと二人で作ったという事になるし、メイヴからのバレンタイン&ホワイトデーの猛攻から逃れられると思えば安いものなのだろう。

「……やけに多いな」
「あー、うん、渡す人たくさんいるから……」

 まず友人のメイヴに、それから、レシピなどなどお世話になったエミヤのお兄さんと、そのさらに兄の方の二人、スカサハとセタンタとそれから……

「キャスターさん、ランサーさん、プロトくん……オルタくん! 全部で九人分かなぁ」
「ふん」

 自分から聞いてきたくせに、ちょっと不機嫌そうに彼は鼻を鳴らした。様子を見るに、どうやら、自分以外の男も貰っているというのが気に食わないのだろう。

「あいつらの分は俺が食う」
「え、あ、えぇ……? ダメだよ?」

 ムスッとしながらも手は止めないオルタ。ちょっと素直というか律儀というか……そういうところは正直すごく可愛いと思う、内緒だけど。

「それで?」
「それでって?」
「——どれが本命だ」
「ど——!?」

 何を言って……! と勢いよく彼を振り返ると、彼の赤い瞳と目があった。あまりにも真剣な表情とその視線に私は誤魔化すこともできず、しどろもどろになりながらも彼に言葉を返す。

「どれ、って……そ、そういうのじゃないよ、これは……いつもお世話になってるから、日頃の感謝を込めて、ってだけで……」
「あいつらのもか」

 彼が、プロトとランサーのいた居間の扉を目線で指し示した。私が小さく頷くと、少しだけ眉間のシワを薄くして、そうか、と呟きまた手を動かし始める。

「なら、俺のを本命にしろ」
「な……ん……! もう……」

 本命って、そういう、本人から言われて決めるものだっけ? なんて思いながらも、彼からの真っ直ぐなアプローチに私はつい頬を熱くする。彼以外からそんなことを言われても「面白い冗談だなぁ」と笑って返せるだろうが、彼が冗談じゃなく本気で私に好意を寄せているのは私もよく知るところなので、こう、なんだか、返事に困ってしまうのだ。

「——へぇ〜、青春だねぇお前さん方」
「っ、ひぇっ……!?」

 思いがけない声掛けに私は悲鳴をあげてしまい、持っていたボウルから手を離してしまう。おっと、とそれを危なげなくキャッチしたのは声をかけた本人、楽しげに口の端をあげるキャスターだった。

「おっ……お、おおおおかえりなさい!? あ、あのっ、いや、これは違くて……じゃなくて、ぼ、ぼうる、ありがとうございます……っ!?」
「おう、ただいま」

 ボウルを受け取ってお礼を言うと、くく、と喉の奥で笑ったキャスターが私の頭を軽く撫でる。真隣から聞こえたオルタの舌打ちなど気にも止めていないらしい。恥ずかしいところを見られてしまった、と伏せた視線の先に、綺麗なラッピングの箱が目に入った。

「あ……チョコレート、ですか?」
「まぁな」
「ふふ、さすがキャスターさん、モテそうですもんね〜」

 むしろ一つだけというのが驚きだ。出版社に行くと言っていたし、絶対、紙袋とかで持って帰ってくると思ってたのに。

「いや……知らねぇ奴からのチョコとかは受け取らない事にしてんだ……前に一回、それで痛い目みたことがあるからよ」
「え」
「……俺もそうしている」
「え、え」

 何があったのか……聞けるような雰囲気ではなく、私は「そ、そうなんですねー」と言いながら苦虫を噛み潰したような顔の二人の間で曖昧に笑っておいた。……いや、本当に何があったんだろう、気になる。

「……あれ、じゃあそのチョコはお知り合いの方からですか?」
「ん、いや、これは貰いもんじゃねぇよ——お前さんに」

 差し出された箱を反射的に受け取って、「へぇー……?」なんて間抜けに呟いてから、彼の言葉を反芻する。

「私にですか……——私に!?」
「おう、俺から本命チョコ」
「本……ッ、な、え、なんっ、なに……!?」
「……っふ、くく……! 冗談だ、オルタもそんな怖い顔すんなって」

 慌てふためく私を見て、キャスターが堪えきれないみたいな様子で吹き出した。オルタはと言えば、未だかつてないほど怒りに満ちた表情で兄を睨みつけている。……彼の手にしていた泡立て器の手持ち部分が、心なしか歪んではいないだろうか。どんな握力だ。

「か……揶揄わないでください」
「悪い悪い……あぁ、嬢ちゃんに買ってきたのは本当だぜ? 甘いもん嫌いじゃなかったろ」
「そりゃまぁ、好き、ですけど……」

「なら良かった、ま、今は忙しそうだし、あとで俺の部屋に取りに来てくれ——嬢ちゃんのクッキー、楽しみにしてるぜ」

 じゃあとでな、と、ウインクを一つ残してキャスターは自室へと戻っていった。スマート、やけにスマートだ。くそう、そんなんだからいろんな女の人に勘違いされて痛い目とやらにあうのでは?

「…………涼」
「う、うん? なに?」
「やっぱあいつの分は俺が食う」
「オルタくんてば……」

 なんとなくオルタの気持ちを考えるとダメとは言えず、私は苦笑するしかなかった。