「散々な一日」


 パソコンに向かい続け、早……早何時間だろうか。わからないけれどとにかく長い長い作業時間ののちに完成したレポートを前に、私は両手を天高く突き上げた。

「終わっ……たー!!」

 数枚のプリントがぱらぱらと机から落ちたが知ったことか。とにもかくにもこれで私は心置きなく明日の講義に参加できようというものだ。

「おう、どうかしたのかよ、すげー声が聞こえたが」
「あっ、ご、ごめんなさい、つい……」

 よほど大声になってしまっていたのだろうか、少し慌てた様子のランサーが私の部屋を訪れる。恥いるように身を縮こませた私の手元を、彼は無遠慮に覗き見た。

「なんだ、課題か?」
「そ、そう……です、レポートの提出があるので」

 ふーん、と興味もなさげな返事をしながら、彼は私の座る椅子の背もたれに手をかけ、パソコンの画面を眺めている。……この距離感が、私は少し苦手だ。

 彼はオルタと同じ顔はしているが、間違いなく別人で、最近出会ったばかりの男の人だ。それがこう、こんなパーソナルスペースの狭さでこられると、やはり戸惑う。ただでさえあんな初対面を迎えてしまったわけだし。

「ほー……あ? これもしかして、コトミネの講義じゃねぇか?」
「え? あ、はい、そうですけど……」

 コトミネ……というのはちょうど私が受けている講義の教授、言峰綺礼のことだ。
 学内で会うことはなかなか無いが、ランサーも同じ大学に通う学生だ。彼の講義を受けたか、なんらかの理由で関わったことでもあるのだろうか。

 ……多分、あったのだろう。彼の苦虫を噛み潰したような……「よくそんな奴の講義受けようと思ったな」とでも言いたげな表情は、教授の人となりを知っている人間のそれだった。

「な、なんですか……その顔……」
「いや、お前……よくアイツの講義なんて受けようと思ったな」
「…………まぁ、はい」

 想像通りの言葉に思わずため息を吐く。正直、あの人の性格ではそう言われても仕方がないけれど。

「話はなげぇし嫌味はすげぇし、何より課題の量が尋常じゃねぇし……あんなの受けんの、よほどの物好きだけだと思ってたぜ」
「……よく言われます」

 少しだけもやもやする。たしかに話は長いかもしれないが、決して無駄な話ではないし、嫌味を言われている学生だって大抵は課題が出せなかったとか遅刻したとかそういう類の人たちだし、課題は確かに多いが、決して無理のある量というわけではないし――

「話はわかりやすくて、いい講義だと思いますけど」

 気づけば私は、そんなことを言っていた。
 別に、教授がどうこうという話ではない、が、なんとなく、ずっと文句をつける彼が少し、気に入らなかったのだ。
 だから、

「そうかぁ?」

 ……と、笑った彼に、カチンと来てしまったのだ。

「――っ、あの! 何が気に入らないのか知りませんけど、いちいち突っかかるのやめてくれませんか」
「は? いや、俺は別に」
「……私これから用事があるので! 失礼します!」
「あ、おい」

 静止する声を振り切って、私は勢いのまま家を飛び出した。


 
 
 
「それで、またお前の悪い癖がでたのか」
「うう〜!」

 街のカフェ、そのテラス席。私は向かいあって座る男、エミヤのお兄さん……の、さらに『兄の方』の前で、机に突っ伏して自らの未熟を嘆いていた。

「お前はその短気なところを早く治せ。意地を張るところもな……あぁそれと、朝が弱いところと、こうして俺にいちいち絡んでくるところもどうにかしろ」
「多い! 多いよう!」

 エミヤのお兄さんよりも格段に口が悪く、さらに肌の黒いこの男はエミヤのお兄さんの双子の兄で、名前は……教えてもらっていない。エミヤ同様、昔からの付き合いではあるもののなぜか頑なに名乗らず、仕方がないので二人が揃っている時は「兄の方」「いじわるな方」など適当な呼び方で呼んでいた。

「だってね、なんかね、なんか……なんかさぁ!」
「わからん、せめて日本語で話せ」

 延々とため息を吐き続ける彼とここで会ったのは全くの偶然だった。つまり彼は今「休日にカフェでブレイクタイムを嗜んでいたところに突如現れた昔馴染みの私の愚痴を嫌々聞かされている」という状態で……面倒だという顔をしてはいるものの、話に付き合ってくれるあたり彼も結局は優しいのだ。

「……私だってあの先生の性格の悪さはよく知ってるけど、わかった上で選択したのに……馬鹿だなって笑われてるみたいで嫌だったんだもん」
「図星をさされて反論できなかったと」
「ちっ……ちがうもん! あの人が無神経でガサツなんだよ! 初めて会った日だって……」
「またその話か」

 手にした本のページをめくりながら、それでも一応相槌は打つ。そして片手間で飲んでいたコーヒーが空になったのか、彼は私の話を半分も聞いてない状態でウェイターを呼んだ。

「も〜聞いてよう」
「聞き飽きた。……お前のその話を止めることができるならケーキひとつくらいは奢っても良いと思えるくらいにはな」
「え! ほんと!? じゃあイチゴがいっぱいのがいい!」

 自分でも呆れるくらいコロリと機嫌を直し、「これくださーい」と注文を取りに来たウェイターを見上げる。そして――見慣れた赤い瞳と目があった。

「随分楽しそうだな? お前」
「は……!? ら、ランサーさん……!」

 そこにいたのは何故かカフェの制服を着たランサーその人で、店員にしてはやけに無愛想な表情で私のことを見下ろしている。

「どっ、どっ、どうして……」
「そりゃ、ここが俺のバイト先だからに決まってんだろ」
「前は花屋って……!」
「そこ一つとは言ってないが」

 それで、注文は? とやけにやる気のなさそうな顔で彼がいう。なんなんだまったく、噂では人好きのする笑顔で老若男女に人気のある男だとかなんとか聞いたはずなのだが。……そんなに私の接客がしたくないのか畜生。むかつく。

「ブラックコーヒーを一つ」
「はいよ」

 エミヤの兄の方は一切私たちの会話に興味がないらしく、それだけ言ってまた読書へと戻った。

「にしても、用事があるとかなんとか言ってたが……なるほど、男とデートか、見かけによらずやるねぇ」
「「そういうのじゃない」」

 私達二人の声が重なる。冗談じゃないぞ、確かに彼は悪い人ではないが決してそんなんじゃない、そう勘違いされるのはとても不快だ。

「……もう、ケーキは今度にする! 私帰るから!」
「は? おい」
「そうかそれは結構、今度とやらに俺が覚えていれば良いな」

 席を立つ私を引き止めたのは何故かランサーの方で、先に私と共にいた彼はと言えば、本から目を離さないまま手をひらひらと振るばかりだった。
 
 
 
 それから数時間、私はもやもやする気持ちを発散するため、ゲームセンターを周り雑貨屋を巡りありとあらゆる娯楽を堪能し遊び回った。気づけばいつのまにか日が落ちていて――それに気がついたのは、キャスターから届いたメッセージアプリの通知音が鳴った時だった。

『悪いが帰りに豚肉を買ってきてくれ』

 たった一行そう書かれていて、私も同じように簡素な返信を打ってから家の近くにある精肉店へ顔を出した。

「すいませーん、お肉ください」
「はいはい……おや、珍しいね二人で来るなんて」

 昔ながらの個人商店だが、いつも仕入れているお肉はとても美味しくて、こちらに越してきてからはよく利用している。そのためここの店主さんとは顔見知りだ。だからよくこうして――ふたり……?

「よ、親父、良いのあるか?」
「……っ! ラ、ランサー……さん」

 私の後ろから聞きたくなかった声がする。不快感も隠さず彼を振り返ると、その彼はと言えば先ほどとは打って変わったニコニコ顔で店主さんと楽しげに話を始めた。

「ははは! 今日は豚がおすすめだよ、どうだい?」
「おっ! いいねぇ、ちょうど頼まれてたんだわ」
「た、頼まれてたって」
「キャスターにな」

 私が困惑している間にも、彼は買い物をさっさと済ませて店主さんから肉の入ったビニール袋を受け取っている。そんな、だって、私がそれを頼まれたのに。

「……本当はお前に頼んだって言ってたが、返信がねぇから一緒に行ってきてくれとよ」
「え」

 そんなわけ……と、自分のスマホを確認する。アプリの画面には「送信エラー」の一文が、大きく表示されていた。

「あ……」
「まぁ、そういうこともあるわな」

 どうも、と店主に声をかけ、彼はさっさと歩いて行ってしまう。今彼の隣を歩くのは嫌だったが、買い物は終わったのにここで店主さんと意味もなく雑談をするのも居心地が悪い。……帰るところは同じで、別の道を通るのも不自然で、私は観念して彼の少し後ろをついて歩いた。

「……」
「…………」
「………………」
「……………………なぁ」

 沈黙に耐えられず、先に口を開いたのは彼の方だった。

「なんでそんな離れて歩くんだよ」
「……別に理由なんてないですけど」
「……そうかよ」

 とてつもなく気まずい、いや、今のは私が悪い百悪い。冷静になるとどう接して良いかわからなくなってしまったからと言って意地を張り続けるなんて最悪だ。
 自己嫌悪に俯き、足取りはどんどん重くなっていく。彼にバレないようこっそりため息をついた時――私は何かにぶつかり足を止めた。

「んむ……っ? ら、ランサーさん?」

 なんなんだ、と顔を上げると、むっとした表情で彼がこちらを向いている。なんで立ち止まったのか、なんで振り向いたのか、それを疑問に思っていると、彼が「なんで俺にそんな突っかかってくんだよ」と言って唇を尖らせた。

「つ……つっかかってませんけど……」
「突っかかってんだろ、昼間も、店でも、今も」
「あ、あれは……ランサーさんが馬鹿にしてくるから……」
「はぁ? いつ」
「いつって……昼間も、お店でも、今もです!」
「なんの話だ」
「なんのって……」

 ――やけに彼と話が合わない。あわない、というか、本当になんの話かわからないという顔。私は戸惑いながらもその時のことを彼に尋ねた。

「……よくそんな講義取ったな、っていうのは」
「そう思ったから言っただけで他意はねぇ」
「男とデートかって、蔑むような顔してたのは……」
「そんな顔してたか……? いやまぁ、そんな話全然聞かないから驚いたのは事実だが」
「さ、さっき、私が、キャスターさんに返信できてなくて、ランサーさんがわざわざ買いに来たのは――」
「いや、それこそなんも言ってねぇだろうがよ」

 ――たしかに。むしろ、励ましの言葉すらかけてくれていたような気がする。

「で? あとは?」
「……ない、です……」
「そうかい、誤解が解けたようで何よりだね」

 つまりなんだ、私が勝手に色眼鏡で彼を見て、勝手に馬鹿にされたと思って勝手に怒っていたわけだ。……エミヤの兄の方に「悪い癖」と言われた時に何故もっと自分を顧みられなかったのか。

「……ご、」
「ご?」
「…………ごめん、なさい」

 ここまで来てそれでも自分の非を認められないほど、私だって馬鹿ではない……せめてそうはなりたくない。だから私は、俯いたままで彼への謝罪を口にした。

「ん……まぁ、そんな気にしちゃいねぇよ」
「!」

 彼が私の頭を優しく撫でる。あぁもう、本当に自分の未熟が恥ずかしい。情けないったらありゃしない。
 彼の方が私の数倍大人で、心が広くて、「良い人」だ。それを思い知れば知るほど、私は私が恥ずかしくて、それと同じくらい彼に対して申し訳なくて……これは彼の評価を改めなければならないと私はさらに身を縮こまらせた。

「いやー……初日のことがあったからな、嫌われてんだろうとは思ってたが……あんまりにも冷たいんで流石にどうしてやろうかと思ったぜ」
「ど、どうするつもりだったんですか……というか、その件に関してだけはまだちょっと許してないです」

 私が謝罪したのは今日のことであって、それとあの日のことは別の話だ。私の中では依然「不可抗力とはいえ人の裸体を覗いておいて注文をつける男」であることに変わりはないのだから。……思い出したらまた少しムカムカしてきたな。

「やっぱまだ根に持ってんのか?」
「あ……当たり前じゃないですか! 好きでもない人に裸を見られるなんて……」

 大和撫子を名乗るつもりは毛頭ないが、そういう事は大切な人だけに……という倫理観では育っている。そもそも、そういうのは見た側が言う事じゃないのでは? やはり彼の評価を改める必要はないのでは?

「なんだ、お前さん処女か? 俺ぁてっきりオルタのやつともうやることやってんのかと」
「――、」

 思わず言葉をなくした。こ、こいつ、デリカシーを学ばずに生きてきたのか……? これがモテる世界とは。人好きするとはなにか。やはり評価を改めよう、こいつは本当に無神経でガサツで品がなくて――最ッ悪だ。

「さいっ……てー! そんなこと聞きます!? 普通!! そ、それに、オルタくんはそんなんじゃないから!!」
「うわっ! いてっ! 殴るなっての! つかあんだけ距離近けりゃそういうことかと思うだろうがよ! ……あいつも相当あんたのこと好きみたいだしよ!」
「は、はぁ!?」

 ぽこすかと彼を殴る手を止める。オルタが、私を好き? まさか、そんなことあるわけない。彼は怖がられてはいるものの、メイヴをはじめとして幾人かの女子からは大層人気があるし、彼が私とよく一緒にいてくれるのは、単純に先輩として慕ってくれているからだし。

 だから違うのだ、そんなわけがないんだ、そんな勘違い、彼に対しても失礼じゃないか……!

「顔真っ赤だぜ、なんだ、案外悪い気はしないんじゃ、」
「ち……違う! ――私は本当にオルタくんのことなんか全然好きでもなんでもないから!!」
 


「――そうか」
 


 その声は私の背後からだった。目の前で「しまった」という顔をするランサーに、私も嫌な予感をひしひしと感じながらゆっくり後ろを振り返る。

 そこに立っていたのは――いつも以上に感情が読めない顔をした、義弟オルタだった。