Kiss me good night.「綺礼、キスして」
──また始まったか、とため息を一つ。頬を染め、目を瞑り唇を突き出す女の方へ視線は送らず「早く自室へ戻りなさい」と言い手に持っていた聖書のページをめくる。
「……綺礼〜……」
「しつこいぞ」
ふぅ、ともう一つため息を吐くと、何やら小さな声で「だって……」となにやら話し始めた。
「私、綺礼のこと、その……好き、なので……」
「……」
「綺礼が私の事なんとも思ってないのはわかってるけど……」
「……」
「だめ……?」
「……」
「……おやすみのキス、してくれたらもう寝るから……」
「…………はぁ」
ぱたん、と本を閉じる。こいつがいるとろくに文字が頭に入ってこない。
観念した私が「来い」と告げると、女は心底嬉しそうに顔を綻ばせた。
「目を瞑れ」
「うん!」
まぶたを下ろした女の頬に手を添える。ピクリと肩を震わせる彼女の──額に、唇を寄せた。
「満足か」
目を開けた女は頬を先ほどよりも紅潮させ、しかし落胆したとでもいうような表情で私を見つめ「お、おでこ……」と言って額を抑えている。
「そうじゃないのに〜……」
「どこにとは言われなかったからな──さて、おやすみのキスを終えれば眠るのだろう」
はやく部屋に戻れ、と言ってから再度書を開く。流石に諦めたのか、女も「わかった」とどこか不服そうではあるもののとぼとぼと部屋を出ていく。
「でも、ありがと、綺礼、おやすみ」
「ああ、良い夢を」
そんなやり取りをした後に、扉が閉まる。
──それは、飽きるほど繰り返された、よくある夜の話だ。
濃い霧で視界の悪い森の中、いつもなら自分のすぐ後ろをついてきているはずの人影を数十分、見失った。ようやく発見したと思えば、大きな木の根本に、血塗れで座り込んでいた。
「おい」
目の前に転がる女を見下ろし、声をかけた。返事の代わりにか細い呼吸音が聞こえ、こいつはもう駄目か、と踵を返す。
「き、れい?」
「……まだ息はあったか」
ひゅー、と浅い呼吸を繰り返し、焦点の合わない瞳をこちらに向けながら、女は私の名前を呼んだ。呼ばれたのならば応えぬわけにもいかず、私はその傍らに立つ。
(腹部をやられたか、傷の大きさはわからんが……この出血では助かるまい)
治癒を試みるまでもない。人の身であればもう、命が尽きてもおかしくないほどの重傷だ。
──もし、奇跡が起きるなら、あるいは。
……そんな考えがよぎり、すぐに自身で否定する。奇跡は二度は起こらない、起こるべくもない。
「安心しろ、後で回収には来てやろう」
「へへ、ほんと……? ううん、うそでも、うれしー……」
笑おうとして上げた口の端から血が流れる。もう、本当に永くはないのだろう、いつもはうるさいこの女が、ただ黙って微笑んでそこにいた。
「ねぇ、きれい、きす、して」
「──、」
こんな時でも、こいつは変わらずそんな事を口にする。もう見えているかどうかも怪しいというのに、懸命に顔を上げ、私を見つめ、おねがい、と言ってまた笑った。
「……ああ、いいだろう」
女の側に膝をつき、その顎を軽く持ち上げる。そして、すでに血の気のひいて紫色になった唇に、自分のそれを重ねた。触れるだけの口付けだが、それは確かにこいつが求めてやまなかったものに違いない。
「……え、えへへ、やったぁ……うれし……な……」
「……それはなによりだ」
嬉しそうに細めた目を手で覆い隠す。「そろそろ眠った方が良いだろう」と伝えると、「うん」という素直な返事が返ってきた。
「おやす、み、な、さい……」
「──ああ、おやすみ、良い夢を」
すぅ、と一呼吸の後に、女はもう動くことはなくなった。その傷の深さとは裏腹に、なんとも安らかに眠るような表情であった。
……仕事柄、人の死に立ち会うことは少なくはない、この手で殺めることもある。
よくあることだ、この女一人、死んだところで私は何も変わらない。
──変わらないのだ。
(…………明日からは、静かに書が読める)
それは良い事であるはずなのに、ほんの少しの喪失感が胸に残り──
──ああ、こんなことなら、私の手で殺しておくべきだった、と、
幾度目かの悔恨を胸に、私は踵を返し歩き出した。
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