Good girl,good girl.



 ──わん! という元気な鳴き声に、私と綺礼は振り返る。多分、参拝に来た人の連れてきた犬か何かのものだろう──なんて思いながら瞬きをした瞬間、大型の動物が私の視界をいっぱいに埋め尽くす。

「っ!? う、わぁっ……! な、なに……!?」

 すっかり油断していた私は、ドタン、と、それに押し倒されてしまった。

「わん!」

 尻餅をついた私の上で、嬉しそうな顔をした大型犬──ゴールデンレトリバーというやつだろうか──が尻尾を振りながら元気に吠える。

「……怪我はしていないな、涼」
「うん、してないけど……びっくりしたぁ」

 思っていたより後方からの綺礼の問いかけに、私は目の前の犬を見つめたまま答える。……あれ、もう少し近くにいたと思ったけど、もしかしてこの子が飛びかかってくるのに気づいて避けた? それなら私のことを庇うとか腕でも引いて避けさせてくれるとかしても良いのでは? おやおや?

「す、すいません、うちの子が……!」

 向こうから飼い主であろう女の人が申し訳なさそうな顔で駆けてくる。綺礼は「いえ、問題ありませんよ」とその女性に向けて微笑んだ。押し倒されたのは私なのに。

「……どうかしたのか」
「むぅ……まぁ大丈夫だけどさ」

 ご機嫌なわんこを優しく押しのけ、私は立ち上がってスカートの土埃を払う。まぁ、この子にも飼い主さんにも悪気はないし、責める気なんてないけども。ないけどさぁ……ちょっと不服ではある。

「本当にすいません、いつもはおとなしい子なんですが……」
「わふ」

 失礼ながらとてもそうは見えないが。
 目の前で「遊んで、遊んで」とでもいうように尻尾を引きちぎれんばかりに振っているこの子は、どちらかと言えばもっとやんちゃなように見える。

「似たような匂いでも感じたのではないでしょうか」
「あら……もしかして教会でもわんちゃんを飼っているのですか?」
「似たようなものです」

 ……彼のいう似たようなもの、が誰のことかは追求しないでおこう。

「なんにせよ、元気なことは良いことでしょう」

 綺礼はその大きな手のひらをわんこに乗せ──優しく、しかし力強く、その頭を撫で回した。

「──、」
「わん!」

 心地良さそうにもう一度大きく鳴いた大型犬は、申し訳なさそうに頭を下げる飼い主さんに連れられて教会を去った。そうして、私たち二人だけが取り残され、この教会にいつも通りの静寂が戻ったのである。

「さて、掃除の続きだ」
「うん……」

 私の返事は上の空だった。さっきの大型犬を撫でる綺礼の手が、今の私の脳裏には焼きついている。

(…………いいなぁ……)

 ──彼の背を見つめながら、そんなことを考えていた。わんこを羨むなんてなんだかちょっと情けないような気もするけど、でも、やっぱり、いいな、と思ってしまうのはどうしようもなくて。

 ……最後に彼に撫でてもらったのはいつだったっけ。

 わかってる、私もそんな、いい子いい子されて喜ぶような歳でもないし、もう立派なレディだし、そんな、「撫でて」なんて、お願いするのも恥ずかしいし。
 けど、だけど、やっぱり、あんな風に少し無遠慮に力強く、髪が乱れちゃうくらいわしゃわしゃって──して、欲しい、な、って──

「………… 涼?」

 後ろをついてこない私を訝しむように、彼が私の名前を呼ぶ。私は黙って俯いたまま、彼が短く息を吐くのを聞いていた。

「……」
「…………」
「………………」
「…………おい、どうし──」
 


「………………わん」
 


 ──沈黙。懸命に考えた末、勇気を持って絞り出した一言に、彼は呆気にとられたかのように言葉を失ってしまう。

「……」
「…………なーんて……」

 あぁ、バカな事した。私も犬だったら、彼に撫でてもらえたりするのかな、なんて、本当、バカだな──そう思ってもすでに口にした言葉は戻らない。私は恥じらいに頬が熱くなるのを感じながら、痛いほどの沈黙にプルプルと震える自分の手を見下ろしていた。

(きっと、呆れてる、よね?)

 彼の顔を見るのがちょっと怖くて、私は俯いたまま「そ、掃除、戻るね……」と言って彼に背を向けた。あぁ恥ずかしい、消えてしまいたい。そんな風に思っている私の頭に──彼の大きな手が、触れた。

「……!」
「──撫でて欲しいのなら、そう言えば良いだろう」

 優しく、ゆっくりと彼の手は私を撫でる。彼の声色はいつも通りで、何を考えているかどう思っているか私には全くわからなかった。

「あ……あの……えと……」
「違ったか」
「ち、違わない! ……違わない、から」

 ドキドキと高鳴る胸を抑えながら、しばしその温かさに身を委ねていると、彼は「これまで」とでもいうようにその手をスッと引いてしまった。名残惜しさを感じた私が彼を振り返ると、いつも通りの無表情で彼はそこに立っていた。

「……綺礼、その……もうちょっとだけ」

 ここまで来たならもう恥など上塗りしてしまえと、私は彼の袖を引く。彼は表情一つ変えず、その私の手を振り払った。

「掃除を終わらせたらな」
「……うー」

 いじわる。そうやって、少しだけご褒美と希望を与えておけば、私がなんでもいうこと聞くと思ってるんだ。

(…………きくけど! きくけどね!)

 私はわんこに飛びかかられた時に落としたホウキを拾い上げ、やけくそ気味に掃除を再開させる。悔しいが、その手を使われると従わざるを得ない。惚れた弱みというやつかも。

「……やはり、似たようなものだな、犬もお前も」
「…………? ……! さっきの、もしかしてランサーじゃなくて私のこと言ってたの!?」
「さてな」

 いつものように揶揄われているのだとわかっている。分かってはいるのだが──心なしか、愉快そうに笑った彼の横顔を見てしまった私は、やっぱり彼の思い通り弄ばれるしかないのであった。




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