次に名前を呼べたのは、彼を失うその時だった ノックを三回。返事はない。
「……ダヴィンチちゃーん」
名前を呼ぶ。これもまた応答なし。
静かに扉を開け、彼女の工房に足を踏み入れる。再度彼の名前を口にした。
「ダヴィンチ技術顧問〜、ダヴィンチ女史〜……?」
やはり返事はない。どうやらこの部屋の主は留守にしているようだった。
(珍しいなぁ)
いつもならこの時間はここにいるはずだ、と、そう考えてこの場所まで足を運んでみたのだが、どうやら当ては外れたようだ。
とは言っても特に急用があったわけでもなく、私は手にした書類をわかりやすいよう机の上に置いておく。別に、今すぐ確認する必要もないような用件だ、帰ってきた時にでも気づいてくれればそれで良い。
「……ん、これは……」
置こうとしたその横に、ふと、何かの設計図があるのが目に留まる。どうやら何か新しい発明品のようで、その端には走り書きのような文字で彼の名前が書いてあった。
「……レオナルド、ダヴィンチ……」
彼の、フルネーム。口にしてから何となく、気恥ずかしくなって口をつぐむ。
(彼の、ファーストネーム…………)
ここの職員やサーヴァントのみんなは、大抵彼のことを「ダヴィンチ」、または「ダヴィンチちゃん」と呼んでいる。私も例に漏れずそうだ。
——あぁ、でも、たった一人だけ、ドクターロマニだけは、彼のことを「レオナルド」と呼んでいたっけ。
(……いいなぁ)
彼等は気の置けない同僚≠ニいうやつで、私には知り得ない秘密≠共有する仲であるらしい。だから、そうやって呼び合っているのだろう、それだけだ。
…………わかってはいるはずなのだけれど。
(………………いいなぁ)
私も、そんなふうに彼のことを呼べたなら。
夢想しては、頭を振ってそんな考えを振り払うこと数回目。自惚れるな高望みするな、私は彼の隣に立てるだけでもう充分すぎるほど幸福なのだから。
けど、でも、やっぱり——一度くらいは、彼の名前が呼べたなら。
そうして彼が、私に微笑んでくれるなら——
「——レオナルド……」
「なんだい?」
彼の声がして驚きに振り返る。その視線の先で、入り口で壁にもたれかかり私をみて笑顔を浮かべる彼、レオナルド・ダ・ヴィンチと、目が合った。
「…………っ!?」
「おや、私を呼んだんじゃないのかな?」
「や、ちがっ、あのっ、これはっ……」
誰もいないと思っていた、思わず口をついただけ、そんな言い訳じみた言葉も声にならず、私は熱くなる頬を見せるまいと俯いた。彼はそんな私の名前を呼びながら、こつ、こつ、と靴音を鳴らして私の前へと歩み寄る。
「いいんだよ? 好きなように呼んでくれて」
優しい声だ、……心の底から温まるような、そんな声。
「で、でも、そんな……私なんか、が」
「うーん、君のその自信のなさは問題だな……私は、君にならいいと言っているんだぜ」
「……!」
私、なら? それは——
顔を跳ね上げると、目の前に彼の微笑む顔があった。——その頬が、蒸気したように赤く染まって見えたのは、どうか勘違いなんかではないと信じたい。
「じゃあ、それ、なら……——」
再度、今度は目の前の彼に届くように彼の名前を口にする。彼は小さく「うん」と囁いて、私の頭を抱き寄せた。
「ふふ、君は本当に——いや、なんでもない。……次はもっと大きな声で呼んでおくれよ」
「う、ん……」
私は彼の胸の中でそう言って頷いた。あぁ、きっと、次があるならばきっと、今よりずっと大きな声で、
きっと、貴方に届くように、どんなに離れても届くように——
clap!
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