他者愛:否定 ふと、気になったのだ。自身のマスターが、俺に好きだと言われたならどんな表情を浮かべるのか。
「マスター」
本をめくる手を止め、彼女が俺を見上げる。二、三度目を瞬かせた後、少し上ずった声で「なに」と言って頬を染めて見せた。
(わかりやすいやつだ)
俺に気があるのだと、彼女の全てがそう告げている。これは自惚れなんかではないと俺には確信があった。
「——好きだぜ」
だから、そう告げた。目をまん丸にして頬をさらに赤くする目の前の女は、小さく息を飲んだ後、俯く。
(さぁ、お前はどうする?)
このまま何も言わずにいるのか、礼の一つでも返すのか、はたまた照れ隠しに怒ってみせるのか。
そんな期待に口元を緩めながら、下を向く彼女の顔を覗き込み——俺は固まる。
——彼女は、酷く悲しげな表情で唇を噛み締めていた。
「——同情?」
膝の上で震える拳を握り締めながら、彼女がそんな言葉を零す。俺が何も答えられずにいると、目に涙を溜めた彼女が顔を上げ、仇敵を見るような瞳で俺を睨みつけた。
「馬鹿にして——最低……っ、…………しばらく、顔を見せないで」
立ち上がり、振り返ることもなく、部屋を出る——その間、俺は何も言えず手を伸ばすことすらできなかった。
数日経って、どうやら彼女の拒絶は口だけじゃなかったことをようやく理解した。
なんせ、毎日毎時顔を合わせていたはずの彼女は、あれからただの一度も俺の前には現れなかったからだ。
(俺の行動範囲は把握済みってことか)
マスターの部屋を訪れ、扉を叩く。返事はない。
俺だとわかって返事をしないのか、もしくは本当にいないのか……恐らく前者、俺はもう一度強めに扉を叩いてから、返事を待たずに無理やり戸を開ける。
「入るぞ」
「……」
やはり返答はない。けれど寝台の上にある丸い物体は、まず間違いなくマスターのものだろう。
「返事くらいしろよ」
返答は、ない。
流石の俺も苛立ちが隠せない。
「おいって——」
無理に布団を引き剥がし、その顔を見た。大粒の涙を目に溜め、俺を憎憎しげに睨みつける、その顔を。
「——、」
「……返して」
面食らった俺の手から布団を取り戻し、彼女はまだそれに包まろうとする。待てよ、とその手を押さえつけると、彼女は「はなして……!」と足を蹴り上げた。
「っと、あっぶね……!」
「離して! 離せ! ……離せよ!」
暴れる彼女の自由を奪いながら、なぜ俺はこんなことを、と少しだけ冷静になる。
別に彼女に嫌われたままでも特に問題はない、彼女は感情的に見えて、レイシフト時であれば私情を解さず仕事のできる人間だ。
だが——だが、どうしてか、俺はこいつを放ってはおかなかった。
「なんでそんな怒ってんだよ」
「……! 呆れた! わかってないのにこんなことしにきたの……!?」
こんなことってなんだよ、とは聞けない。俺にはそんなつもりはなかったが、恐らくこいつからすれば、今の俺は夜這いにきた男でしかないのだろう。
「おい、勘違いすんなよ、別にそういう事じゃ」
「じゃあ何しにきたんだよ……!」
「それは」
その質問は答えに困る。俺自身、何がしたいのか聞かれればそれに対する答えは持っていない。
だが、何が気に入らなかったのかはよくわかっている。
「——お前が、俺を無視するのは気に入らねぇ」
「……よく、そんなこと……」
「だからお前が何に腹を立ててんのかを確認しにきた」
暴れていた彼女がピタリとその動きを止めた。その隙に、ぐいと彼女の瞳を至近距離から覗き込み、「俺は言われなきゃわからねぇぞ」と囁いた。
「……! ……っ、…………」
それでも頑として口を開かない。
「なんだよ、お前、俺のこと好きだろ? なにが——」
「そういうところが!! ……っ、嫌い、なんだ……!」
彼女の瞳から涙が溢れる、ぎょっとして身を引いた俺の胸を突き飛ばし、彼女は顔を覆い隠すようにうつ伏せた。そういうところ、と言われてもやはり俺にはわからない。黙ったまま続きを待っていると、彼女はぽつぽつと言葉を紡ぎ出した。
「なんで……っ、なんでいつもそうやって、なんでもわかってるみたいな顔して……! 私が、お前のことが好き、なんて……っ」
震えた声と鼻をすする音、なんだよ、なんでそんなに、怒ってるのか、まだ俺にはわからねぇぞ。
「わかってるなら……放っておいてよ……! 馬鹿にして……私が、私なんかがお前のこと好きだからって、馬鹿に、して」
「んなこと」
一言もいってないだろ、と、俺はそう思う。……が、そうか、俺は確かに忘れてはいた——こいつが死ぬほど卑屈で、自分が愛されるはずがないと勘違いしていることを。だから、俺が「好きだ」なんて言ったのを、揶揄されてると思い怒ったのか。
「…………すきなのに……本当に……すきなのに…………ランサーには、わからないんだ…………」
「——」
——違う、悲しかったのか、好いている俺にその好意を無碍にされていると思って。
好き、と繰り返す彼女の唇に口付ける。なおも抗議を続けようとした彼女を俺はそのまま半ば無理やりに抱いた。口では俺を罵倒していたが、彼女はろくに抵抗もしなかった。それが酷く愛おしく悲しく——手放し難い。
これが同情かときかれれば俺は「違う」と即答するだろう。けれど本当にそうだろうか、俺は、本当にこの女を哀れと思う心は一つもなかっただろうか。
「……涼、」
それを断言することは今の俺にはできない。それでも確かにこの愛は嘘ではないのだと、いつかこの愛しい人に伝えることができるよう、伝わる日が来るよう、俺は、疑われ続けるとしてもお前に好きだと伝え続ける事にした。
clap!
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