知らない隣人*「お酒って、美味しいんですか?」
以前そんなことを聞かれた気がする、我らが希望、立香ちゃんに。そうでもないかな……なんて答えてから、そういえば彼女はお酒を飲める年でも無いのだと再確認し、ほのかな罪悪感に目を伏せた。彼女はそんなことには気が付かないでいてくれたのだろう、明るい口調のまま、不思議そうに「ならどうして飲んでるんですか?」と小首を傾げている。
「なんでだろう、大人だからかな……」
答えにもなってない答えを返し、私はまたグラスに口をつけた。そんな夜もあった、確か、地球がこんなことになるより、ずっと前……
「——失礼、今夜は一人かな?」
突然後ろから呼びかけられ、私は肩をびくりと震わせる。時刻は丑三つ時、まさかこんな時間にキッチンに用がある人間が他にいるはずもないのだが。
恐る恐る振り返ればそこにいたのはやはり人ではなく、人と同じ姿形をしているエーテル体が、人と同じ言葉を使い、人らしい笑顔でそこに立っていた。
「……ラスプーチン」
「これはこれは、幽霊でも見たような顔だ」
サーヴァントなんてほぼ幽霊と変わらないだろう……と、私は苦い顔を隠しもせず、飲みかけのグラスをテーブルへ置いた。
「何か用ですか? 生憎、料理をできる人たちは誰もいないけど……」
「君こそ、深夜に一人で不用心なことだ。ストームボーダーの中とはいえ襲撃に遭う可能性もゼロではないだろう」
してもいないだろう心配の言葉を口にして、彼はテーブルの上にのった酒瓶をチラリと見た。……その薄ら笑いはなんだろう、まだ、たったの三本目だというのに。
「もし外部から攻撃を受けるなら、ここにいても部屋にいても変わらないよ」
「そうかな? 所在がわかるだけ、捜索もしやすくなるというものだ」
「……それ、私が死んだ前提で話してます?」
相手に立たせたままというのも気まずくて、私はまだ開けていなかったワインを差し出し、彼に「座るか、立ち去るか」と問いかける。以前彼は「独り酒は好まなくてね」などと言っていたが、目の前に私がいるのだ、二人酒なら構うまい。
「では、ご合判に預かろう」
グラスを持ってくる、と彼が離れた間に、私は慣れた手つきでコルクをぬく。自身のグラスにそれを注いでいると、す、と静かに椅子を引く音が目の前から聞こえてきた。
「……はい」
「これはこれは、すまないな」
自分の分のついでに、と彼のグラスにも瓶を傾けると、彼が恭しく礼を述べる。そのわざとらしい様は、最初から注いでもらうつもりだったろうという嫌味が思わず口を吐きそうになる程だった。
「ふむ……これは、それなりに良い酒のようだな」
わかるんだ、と私はグラスを傾ける。
「確か新所長の……まぁ、何か言われたら、適当にその辺の酒好きのせいにしておくかな」
彼はくるくるグラスを回し、「そうか」と愉しそうに微笑みながら酒に口をつけた。目を細め、口の端を上げる様子からすると、どうやら及第点以上ではあるようだった。
「つまみでチーズとかもあればいいんですけど……食材は流石に、酒よりバレやすいから」
「ふ」
「……なんですか、何かおかしい?」
何故か、彼がわざとらしく笑いをこぼす。別に笑い話をしているつもりもないのだが。
「いや、なに……無理はしなくても良いと思ってね」
「? 何が……私別に、まだ酔ってないと思いますけど」
「——話し方、だよ。慣れないのなら、無理に敬語でなくても良いだろう。そもそもが、君は使役する側、私は使役される側なのだから」
もう少しでグラスを落とすところだった。話し方、敬語、全て無意識だったと思う。それでもそれを指摘されるのは、私自身が距離を掴みかねて不躾な態度をとっていることを指摘されているようで、少し居心地が悪かった。
「慣れるほど、話したことないもんね、貴方と……」
「そうだな、それに、どうやら君からは避けられているようだからね」
「あ……いや、そういうわけでは……」
誤魔化すようにまたワインを口に含むと、酒独特の苦味と果物の甘い香りが鼻を抜ける。どう言い訳したものか、と考えていると、彼の方から「私に改善点があれば善処しよう」というどこか浮ついた声がした。
「面白がってますか」
「君にはそう見えるのかな」
見えますね、という言葉を飲みこみ、私は「一つだけ、お願いが」と小さく呟く。
「その、君、って呼び方、好きじゃない。できればやめて欲しい、かも」
——なんてことはない。本当に、ただ、なんとなく。その声で、そう呼ばれることは、どうにも慣れそうにないのだ。
「では、貴女……かな?」
「ううん……お前、でいいよ」
今度は彼がぴたりと動きを止める。何かに気がついただろうか……あるいは初めから、何かを察してはいただろうか。愉しいとも、不快ともとれない表情をして、彼は静かに私を見つめる。
「……お前が、誰を重ねているのかは知らないが……」
「重ねてないよ。……重ねるもんか」
それ以上の追求はされたくなくて、私は彼から目を逸らした。本当に、違うのだ。彼に、私の知っている誰かを重ねているわけではない。それでも——同じ声で、同じ顔で、赤の他人のように私を呼ぶ姿を見るのは辛かった。
本当は、名前だって呼んで欲しい。あの頃みたいに、呆れたような声で、私を——
「神埼」
呼ばれたのは、彼が決して呼ぶことのなかった私のファミリーネーム。動揺に瞳を揺らす私の顔を覗き込み、彼は「やはり飲みすぎたようだな」と静かに言った。
「今夜はもう休むといい。部屋までは送ろう」
「あ、ああ……うん……そうしよう、かな……」
片付けは後でしておこう、という彼の言葉に甘え、私はふらつく足取りで自分の部屋へと帰る。おやすみ、という彼の声を背にしながら、私は独りベッドへと身体を投げ出した。
ラスプーチンは私の知っている
言峰綺礼ではないと、私がそう言ったのに。どうして、呼び方一つでこんなにも心乱されるのか。
どうして、こんなにも——
「……最悪だ」
未練なんて全部、あの場所に置いてきたはずだったのに。
「…………さいあく……」
泣きそうになるのも、心がこんなにぐちゃぐちゃなのも、全部お酒のせいにしてしまいたかった。私はすでに熱が冷めた自身の体を抱きしめながら、布団にくるまり目を閉じる。深い眠りにつきたかった、夢も見ないくらい深く。
そうして目が覚めて、全て忘れていられたら良い。あの人のことも、今夜のことも、自分の気持ちも、全部……。
ありもしない希望を抱いて、私は微睡みに沈む。——起きた時に、夢で会えたらとさえ思わなくなっていた自分に気がついて、ほんの少しだけ——淋しくなった。
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