不安定



 ガラスの割れる音がした。
 あいつの、マスターの投げたコップが壁に当たって粉々になったのだ。

「…………しばらく私の前に現れないでランサー」
「そーかい」

 これ以上機嫌を損ねたところで俺に得は一つもない、大人しく俺はマスターの部屋を去った。
 きっかけはなんだ、確かに先ほどまではいつも通りなんてことない会話をしていた気がするのに。

 なんだったか、恐らく、あいつの表情が陰ったのは俺が「全部終わったら、」と話し始めた時だったかもしれない。
 あいつが食べたいものがある、行きたいところがある、自分で選んだ道ではあるけど、色んな国を旅したいし故郷も懐かしく愛おしい、と寂しそうに笑うものだから、

「じゃあ全部終わったら、一緒に世界旅行にでも行ってみるか?」

 と俺はいつも通りの軽口のように提案した。
 そうしたらあいつは小さく肩を震わせてから、その口を重く閉ざしてしまった。
 あまりにも長く続く沈黙を不思議に思い「マスター?」と声をかけると、彼女は小さく何かを呟いていた。

「あ? なんて……」
「……終わった後なんて、隣にいてくれないくせに」

 それはどういう、と聞き返す前に、俯いた彼女が膝の上で握りしめた拳が震えているのが見える。

「ランサーは、帰るでしょ、きっと、全て終われば、」
「それは」

 そうだろうと自分でも思った。終わったら、なんて軽々しく言ったもんだ、俺は確かに、人理が修復されれば座に還るだろう。
 平和な世界に興味もねぇし、そして平和な世界も俺に用はないだろう。
 ならば還るのが道理だ、元々第二の生にも興味はない。

「私を置いて、還るんでしょう」

 ――マスターがなんと答えて欲しいのかはよくわかる。なんだかんだ長い付き合いだ。
 けれど、

「……そうだな」

 嘘は、つけない。
 握りしめたスカートにシワが広がった。表情は窺い知れないが、想像に難くない。……あぁ、せめて泣いたりはしないで欲しいものだが。

「お前が何を期待しているかわからなくもないが、俺がそういう英霊だとよく知ってるだろう」
「……っ」

 特異点も残るところ後一つ、そこを修復すれば終わりだ…それはつまり、もうすぐ別れがやってくるということでもあった。

「わかってるよ、別に、引き止めたいとか、そういうんじゃ、ないし」
「だったらその顔をいい加減にやめてくれやマスター、俺はあんたのその表情、好きじゃねぇんだわ」
「見えてないでしょ」
「見なくてもわかるっつーの」

 はぁ、とため息をつき俯いた彼女の顔を覗き込む、案の定、眉間にシワを寄せながら悲しみとも怒りともつかない表情で何かに必死に耐えていた。

「せめて最後に見る表情は、笑顔の方が嬉しいんだが」

 そう言った途端、彼女の瞳が開かれて、両方の瞳に涙が滲んだ。
 しまった、と思った時にはもう遅い、泣き顔を見られたくなかったのであろう彼女は目の前の俺を突き飛ばし、近くにあったガラス製のコップを投げつけた。

「…………しばらく私の前に現れないでランサー」
「……そーかい」

 こうして今に至るわけだ。

「はぁ……」

 普段は快活でよく笑い、少し短気なものの良いマスターだと思っている、が、どうも情緒が不安定なところは欠点といえる。

「おう、ランサーの俺じゃねーか、なんだ、部屋を追い出されたのか、珍しい」
「……槍なしか」
「その呼び方やめろっつーの」

 向こうから歩いてきたキャスターの俺に声をかけられる、どうした、と尋ねられたものだから、事の経緯を説明すると、キャスターは苦い顔をしながら「そりゃ大変なこった」とタバコを一本こちらによこした。

「サンキュ……まぁ、初めてのことじゃねーし、しばらくほっときゃ向こうから俺にちょっかいかけにくるだろ」
「は、よほど好かれてる自信があるようだな」
「そりゃ、俺があいつの一番のサーヴァントだからな」
「へーへー、しかしまぁ、お疲れさん、同じ俺とはいえ同情するぜ」
「あー……」

 少し呆れ顔のキャスターを横目にタバコに火をつける、深く息を吸えば肺が煙で満たされ、刹那の充足感を得た。

「面倒、とは思うけどなぁ」

 嫌ではねぇな、まぁ、とぼやくと、へぇ、と意外そうな声が聞こえる。

「別れたくねぇってのは、それだけ想われてるっつーことだろ……あいつの場合は、あーいう子供みたいに駄々をこねるような方法でしか、それを表現できないだけで」
「……あー」

 若干呆れ気味のキャスターが、はは、と小さく笑った。悪いかよ、と返してからまた煙草に口をつける、俺だってらしくねぇとも思うしあいつに甘すぎるところがあるのはわかってる。だけど、

「惚れた弱みかねぇ?」
「……うるせぇ」

 考えていたことを見抜かれて顔を背けた、さすが俺自身、お見通しってわけだ。

「ま、いいんじゃねぇの? 仲が良いのはよ」

 俺と同じ顔がニヤニヤと笑うのが無性にムカついたので、その場にキャスターを置いてキッチンへと歩き出す。「タバコ、ありがとよ」と振り向かず手を挙げると、後ろから「おー」と返事が聞こえてきた。

 さぁて、あいつの機嫌が早く治るように、赤い弓兵あたりに上手い菓子でも作るよう頼んでおくとするか。





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