世界、人類、自分、あるいは彼の名前*



「藤丸リツカが目覚めなくなった」

 そう聞かされたのは体感的には一週間ほど前だったように思う。
 思う≠ニいうのは、どうにも私にはそれから何日をここで過ごしたのかよくわからなくなっていて、そのように表現せざるを得ないのだ。

 私のすぐ隣を通り抜けていく学生の笑い声を聞きながら底抜けに青い空を見上げた。
 この世界にあったのは、恒久的な平和、保障された明日、大切な隣人たち……そういったごく普通の幸福だった。
 きっとこれらは地表が漂白される前、人理が焼却されるよりもずっと昔、まだ藤丸リツカが本当にただの一般人だった時の夢なのだろう。その中で私はこうして彼女の幸せな理想を見続けている、というわけだ。

 休日、なんでもないある日に、友人と街へ遊びに出かけた――たったそれだけのことで彼女はあんなにも無邪気な笑顔を見せている。
 眉根を寄せることも頬を濡らすこともなくただたおやかに――

「……っ」 

 頭が痛む。それは確かに長く私には無縁であったものだが、その尊さはよく理解しているつもりだった。
 現実の彼女がそれを持たないことも。
 そうして一週間。七度陽が落ちて昇った今この時も、私はいまだ彼女に声をかけることすらできずにいた。

「まだ決心はつかないのかね」

 マスター、と私を呼ぶ声に振り返る。そこに立っていた男の薄ら笑いに、今だけは少し、嫌な気持ちがこみ上げた。

「ラスプーチン……」
「簡単なことだろう、奴を呼び止めて一言、これは夢だ≠ニ声をかけれ良い。そうすれば責任感の強い彼女のことだ、じきに眼を覚ますだろうさ」

 彼の言葉に私は何も答えない。……そんな事はよくわかっていたから。そうすればきっと彼女は全てを思い出すだろうし、当たり前のようにこの夢から目覚めようとするのだろう。
 もしかしたらその上で、私にお礼などを言ってのけるのかもしれない。
 ……何かに耐えるように、微笑んで。
 それが私には堪えられなくて、何度も何度も幸せそうな彼女の横顔を見送った。

「せめて幸せな夢くらい見せ続けてあげてもいいはずなのに」
「ほう、マスターがそこまで彼女を想っていたとは知らなかったな」
「……」

 胸の奥がちくりと痛んだ。似たようなやり取りを、きっと私はしたことがある。それは恐らくラスプーチン≠ナはなく、その器になったあの人と。

 ……もうよく覚えてはいないけれど。

「ならばどうするつもりだ、まさか放っておくつもりではないだろう」
「うん、起こすよ、起こさなきゃ…だけど、もう少し、」

 もう少しだけ幸せな夢を、
 ……見ていたかったはずなのだ、あの日の私だって、

「彼女に昔の自分を重ねているようだな、神埼涼」

 ――そうだとも、それの一体何が悪い。
 あぁ、頭が痛い。頼むからその名をその声でその顔で呼ばないで欲しい。
 ようやく彼の存在に慣れてきたというのに、またあの人を思い出してしまう。彼はあの人ではないのだと必死に自分に言い聞かせてきたのに。

「……ラスプーチン、名前を、」
「これは失礼した、我がマスター」

 嫌になるほど恭しく頭を垂れる彼の姿に、頭痛は一層酷くなる。
 あの人なら私の言葉なんかでこんなふうにしたりなんて、いや、彼はあの人ではないのだから、当然なのだ、けれど、

「それで? マスター、どうするつもりだ」
「どう、って」
「また、陽が暮れてしまうぞ」

 赤く染まっていく空を見上げながら、彼はそう言った。
 これで八度目の落陽だ、陽が昇るのもすぐのことだろう。

「これ以上迷うのであれば、マスターの代わりが送り込まれてこないとも限らんぞ」
「私以外なんて」
「例えば、マシュ・キリエライトなどはどうかな」
「……! それはっ……!」

 ダメだ、と反射的に声を荒げてしまう。心優しい彼女に、こんな役目は辛すぎる。
 だからといって、藤丸リツカ本人が使役するサーヴァントにも任せられない。彼ら彼女らはこの時代を生きる者ではないから、もし、世界よりも契約者である彼女の幸福を選んでしまったら――?

 ……そもそも部外者である私達に、彼女にとってこの夢を見続けることが幸せかどうかなどわかるハズもないけれど。

「ならばこそ、お前が起こさなければ……なによりも、お前自身がそう思って自らここに足を踏み入れたのだから」

 そう言って彼が半歩下がり道を開ける、彼の背の向こうには楽しそうに笑う彼女の姿があった。

「……っう、」 

 更に痛む頭を抑えながら目の前の少女を、見る。そうすると向こうもこちらに気づいたように少し離れたところで足を止めた。

「さぁマスター、お前がその手でこの無垢な少女の幸福を摘み取るのだ……もっとも、どうしてもと言うのなら私が代わることもやぶさかではないがね」

 背後に回り込んだ彼が、私の肩に手をかける。彼は心底楽しそうに笑って……笑っているかのような声で、「さぁ、どうする」と囁いた。

「私が、この手で、」
「そうだとも」

 私達の会話の内容など理解していないであろう目の前の少女は、不思議そうな顔をしながらもその表情に警戒の色はなく、袖やスカートから覗く素肌には一切の傷もない。

(私の知る彼女の姿とは大違いだ)

 ここは平和なのだろう、
 ここは穏やかなのだろう、
 私はそんな世界から、彼女をあの絶望の現実へ連れ戻さなければならないのか。

 ――人類のため≠大義名分にして。

「……ねぇ、ラスプーチン、教えて」

 彼女の金の瞳を見据えたまま、後ろに立った彼へ声をかける。

「貴方は、私にそう≠ウせたいの?」

 肩に置かれた手がピクリと動いた。少しの沈黙の後、「違うな」と彼はまた少し笑った。

「私はただ、お前の選択を見届けたいだけだ」
「……そう」

 一歩、彼女へと近づいた。

「なら、私は選ぶよ。――。」

 私は、手を伸ばす。
 その時、最後に彼をなんと呼んだのか、……よく、覚えてはいなかった。 


 
 そんなことがあってすぐ、私達は現実で目を覚ました。

「目覚め立てで悪いが、すぐに準備をしてもらってもいいかな、次の異聞帯に向かわなくっちゃあならない」

 ダ・ウィンチ元技術顧問がそう言って私達が眠っていた間のこと、そしてこれからしなくてはならないことを話してくれたのは私がまだ眠たい目を擦っている間のことである。
 私は正直、まったく乗り気になれそうもなかったが、隣から「わかりました」という凛とした声が聞こえてしまったのだから、私も同じように頷くしかなかった。

 ちらりと顔を伺い見れば、そこにあったのはもちろん夢の中のようなあどけない少女の柔らかな笑顔などではなく、しかし、絶望の色もなかった。
 覚悟を秘めた瞳、希望に満ちたその表情で彼女は前だけを見ている。
 ただ一つ、刻み込まれたように寄せられた眉だけが彼女の悲しみを表しているようでもあった。
 
「起こしに来てくれてありがとう、おかげで目を覚ますことができた」

 その後、彼女は予想通り私にそんなことを口にした。

「……あそこにずっと、いたいとは思わなかったの?」
「そんなこと出来ないよ、だって、あの平和な世界を取り戻すために私達は戦っているんだもん」

 ――彼女は私を責めなかった。
 そうして、ついにそこには、私が□□のために彼女を犠牲にした≠ニいう事実だけがただ残されてしまった。




clap! 

prev back next



top