アレキサンダー
 私の寝台の上でニコニコと笑う赤髪の少年を前に、私は困惑と羞恥と、それから諦めの感情を込めて短く息を吐いた。

「さ、マスター、昨日の続きをお願いするよ」
「……う、うん……」

 こうして夜を共に過ごすのは決して初めてではないし、彼の方からすると「今更恥ずかしがることも何もないだろう?」と感じる事だろう。だが、一般的、平均的な女の子としては、歳下とはいえこんなにも整った顔立ちの男の子が自分の寝台で毎夜待っているというのはやはり気恥ずかしいというかなんというか。

「マスター?」

 怪訝そうな顔で首をかしげる彼に、「今いくよ」と言ってその隣に横になる。
 期待に満ちたその瞳と見つめあい、少し高鳴る胸を押さえつけてから、私はそれに手を伸ばした。そして、私は、手に取ったそれを、

 ──本を、開いた。

「えーと、今日は何処からだっけ」

 ぺらり、とページをめくる。本のタイトルは「イリアス」。そう、毎夜繰り返されているのは、いわゆる朗読会≠ナある。イリアスを読んで、眠る、ただそれだけの時間。

(いや、一緒に寝てる時点で私に取っては結構な事件でもあるけど)

 だが夜を共にしているからといっていかがわしいなにかがあるとかそういった事は──今のところ──一切なく、健全に、とにかく健全に私たちはこの世界最古の叙事詩を読み耽っていた。

「たしか昨日はアキレウスが戦いに出るところで……」
「そうだったっけ」
「あれ? 違った? パトロクロスだっけ」

 ページを行ったり来たり、どこまで読んだか思い出せなくてわたわたとめくり続ける。眠くなるまで朗読を続けるせいで、どこまで進んだのか記憶が曖昧になることが多々あった。私も彼も何度かイリアスを読んだことがあるので尚更だ。

「わからなくなったならまた最初から読めばいいよ」
「あ、アレキサンダー……そう言って何度か始めから読んだのか数え切れないほどなんだけど」

 何故か楽しそうな彼の提案にため息を吐く、こんな事を繰り返していればいつ読み終わるのか知れたものではない、下手をすれば彼がここにいる間に読み終わらないかも。

(そうならないように栞を挟んでおいたと、思ったんだけどなぁ……)

 うとうとしながらも、たしかに一枚、紙を挟んでおいたと記憶していたのだが、そんなものはどこにも見当たらなかった。……まぁ、寝落ちる前の私の記憶など信用できないにもほどがあるが。

「じゃあ今開いているところからにしよう」
「……ほとんど始めの方だけど」
「いいじゃないか、僕は何度読んでも楽しいよ」

 君は違う? と微笑まれて、私は「私も嫌いじゃないけど……」と恥じらいに目をそらす。うう、顔が良い。

「でも、これじゃいつまでも読み終わらないよ」
「そうかもね」
「……それは嫌だなぁ」
「どうして?」
「どうして、って……」

 それは、読むからには最後まで読みたいじゃないか、と答えて、文字を追っていた顔を上げる。目の前には、少しだけ寂しそうな表情のアレキサンダーの顔があった。
 ……もしかして、彼は、最後まで読み終えて欲しくないとでもいうのだろうか。
 そう考えながら、じっと彼を見つめたままでいると、「……わかった、白状するよ」と今度は彼が少し気まずそうに目をそらした。

「実は、君が挟んでいた栞を抜いたのは、僕なんだ」
「え」

 彼が申し訳なさそうに朱色の紙を取り出す、それは確かに、昨夜私が栞の代わりに挟んだものだった。
 どうしてそんなことを? と首をかしげる私に、彼は恥じらうように答える。

「……君と、こうしているのが楽しくて……まだ読み終えたくないなと、思ってしまったんだ。だから、つい、」

 いつもの自信に溢れた笑顔はどこへやら、しょんぼりと落ち込んだ表情の彼に、思わず私は笑みをこぼした。

「どうして笑うんだい」
「ごめんね、おかしくって、つい」
「僕は真面目なんだけどな」
「ごめん、ごめん……ふふ」

 まだ笑いの止まらない私に「一体何がそんなにおかしいんだい」と、少しむくれた彼が拗ねたように聞いてくる。私はようやく止まった笑いの余韻に浸りながら、彼にこう答えた。

「だって、私も同じこと考えてた。二人で寝るのは少し恥ずかしいけど、終わっちゃうのは寂しいなって」
「……! 本当に?」

 ぱあっと、彼が笑顔を浮かべ、私の手を握る。それに少し気恥ずかしさを覚えるものの、それ以上に嬉しくて、私は小さく頷いた。

「ね、アレキサンダーさえよければ、これを読み終わった後は、この前くれた古典ギリシャ語のイリアスを読み聞かせて欲しいな」
「それって、すごく良い提案だね! ……なんだか、これを読み終えるのが少し楽しみになってきたよ」

 私も、と笑うと、彼も私に微笑み返してくれる。なんというか、うん、彼とのこの時間は私にとって、いつのまにか代え難い大切なものになっていたようだ。
 その小さな幸せを逃さないように、噛みしめるように、私は彼の手を握り返した。



 
「……うーん、結局今日はどこから読んだらいいのかな」
「やっぱり初めからじゃない?」
「そうなっちゃうのか〜……」
「嫌?」
「嫌じゃないけど、なんだかなぁ」
「まぁ良いじゃないか、さ、マスター?」
「うーん……まぁ、いいか! じゃあ読むよ――」