ほのかに香る石鹸の香り、マスターの部屋の前でそれに気づき、ノックをしようと上げた手をピタリと止めた。なるほど、そういうこともあるか、と、私は目を閉じて耳をすませる。
暫しの無音ののち、彼女一人分の足音だけが聞こえる事を確認してから今度こそコンコンと扉を叩いた。
「!! は、はーい」
慌てたような声、少ししてから開いた扉の向こうには、火照った頬を手で仰ぎながら、恥ずかしそうに私を見上げる彼女の姿があった。
「あれ、陳宮さん」
「夜分に失礼、お時間よろしいですかな」
どうぞ、と促され彼女の私室に足を踏み入れる。湯浴みの後なのだろうか、彼女の濡れた髪から滴る雫が床に落ちるのが視界に入った。
「……もう少し後に伺うべきでしたかな?」
「え、あ、あぁ、いや、全然! ちょうど上がったとこだったから……むしろごめんね、こんなだらしない格好で」
「私は構いませんよ」
清涼感のある香りの中に、ふと、誰かの魔力の残滓を感じて、やはりな、と一人得心する。上記する肌も、恥じらいに染まった頬も、湯上りだけが原因ではないのだろう。
「主殿も年頃の女性ですから、そういったこともあるでしょうな」
「な……!」
驚愕の表情で、言葉を失った彼女がパクパクと口を開閉させる。私は「そういったこと」としか言っていないのだが、焦る彼女は勝手に言い訳を始めた。
「い、いや、なに、なんのこと!? わ、私はただ、お、お風呂に入っていただけで……」
「おや、そうでしたか、これは失敬。覚えのある気配を感じたもので、そういうことなのかと」
「あっ、いや、ちがっ……! た、確かにさっきまで他の人がいたけどもっ!」
──まぁ、恐らく、あの男でしょうな。
思い当たる人物を思い浮かべてから、私には関係のないことか、と、目を伏せる。「陳宮さん、どうかしました?」という彼女の心配そうな声に、私はニッコリと笑って答えた。
「いいえ? しかしあまり頻繁に異性を連れ込むのも感心しませんね、いささか奔放過ぎるかと」
「ち、ちちちち違いますってばぁ!! 本当に! 違うんです!」
必死、と言える様相の彼女を見て、なるほどこれは本当になにもなかったのかもしれないと思い直す。
あぁ、この人がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。と、信用、信頼、そんなような何かを確かに感じながら私は微笑んだ。
「これはこれは、言葉が過ぎましたね、失敬」
「も、もう……陳宮さんってば、いつもそうやって……私で遊ばないでください」
「貴女は打てば響くタイプですからな、つい……それに」
じっと、私を見上げる彼女の瞳を覗き込む。今は、今だけは、私だけを見つめるその目が、ひどく××しくて、
「好いた女性は、揶揄いたくなる性質でして」
思わず、そう伝えていた。
思考するより先に言葉が出るなど、私にしては珍しいミスだと自己反省をしつつ、彼女の返事を待つ。いつものように「揶揄わないでください」「またそんなこといって」と、呆れるだろうか、それとも怒るだろうか……そうであれと期待を抱きながら。
けれど、彼女は一向に言葉を発さず黙り込んだまま、その頬をいっそう赤らめ瞳を僅かに潤ませている。震える手を握りしめ、恥じらうように視線を彷徨わせる彼女を見て、あぁ、これは、まずい、と。彼女が何かを口にするより先に私は口を開いた。
「──冗談です」
「へ……?」
にっこり、微笑めば、目を丸くした彼女が間の抜けた声を上げる。そして殊更に顔を赤くした彼女は、涙目のまま、きっ、と私を睨みつけ抗議の声を上げた。
「ひ、ひど……それは流石に悪質ですよ!? 陳宮さん!!」
「ははは、やはり貴女はいじりがいのある……いえ、素晴らしい御仁だ、ふふ、ええ、愛おしいですよ、そういう所が」
「も、もう騙されませんからね!」
ぷいとそっぽを向いた彼女の横顔を見て、胸をなで下ろす。……これ以上、私は彼女と親しくなるつもりはなかった。
──情がうつれば、別れが辛くなる。
そう伝えたのを、彼女は覚えているだろうか。
(もう、手遅れかも知れませんがね)
貴女も、私も。
彼女の小さな背を見つめながら、どうか早まった私のこの鼓動が、彼女に気づかれませんように、と祈りながら目を閉じた。