「何処か遠く……誰も私を知らない場所へ、行きたいな……」
ぼつり、呟いた言葉は書庫の本に吸い込まれて消えた。
いや、消えてはいない、目の前で本のページをめくる小さな作家様には、確かに聞こえているはずなのだ。
「ねぇ」
「五月蝿いぞ、何度も言わずとも聞こえている」
アンデルセンがイライラした様子で本を閉じる。私は先ほど自分がそう思ったままを口にした。
「返事をしてくれないから、私の言葉は本達が持って行っちゃったのかと思った」
「随分と詩人だな、だが駄文だ! そもそも本にそのような事ができるものか! いや? 一人意思のある本を知っている、だが残念な事にここにある本は大半が学術書や哲学書、大人向けの読み物ばかりだ。子供《お前》向けの童話《ナーサリーライム》は取り揃えていなくてね、本と話がしたいのであれば、本人を訪ねてみるといい」
その本人であるナーサリーが聴けば、「なんていじわるないいかたなのかしら!」と憤慨されそうな言い回しで、私の嫌味を数倍で返してきた。さすが、アンデルセン、私では言葉で敵わない。
「私がお話したかったのは、本じゃなくて、アンデルセンだったんだけど」
「それは失敬、見てわかる通り読書中だ、出直してくれ」
そう言ったきり、また本を開いてそちらへ集中してしまった。アンデルセン、と何度か名を呼んでは見たものの、返事どころか眉ひとつ動かさない。
こうなってしまってはテコでも動かないのがこの男だ、諦めた私は誰に言うでもなく独り言として呟き始める。
「疲れたんだ、少し。だから、誰も私を知らないところへ行って、自由に……ほんの少しだけ自由に生きてみたいと思って……」
それだけ、と独りごちて、彼の座る椅子の背を撫でた。どうせ返事もないだろうと、そのまま彼に背を向け部屋を出ようとした私に、不機嫌そうな彼の舌打ちが飛ぶ。
「だから連れ出してくれと? お断りだな」
「……聞いてくれてたんだ」
「貴様が勝手に話し始めたんだろうが」
イライラ、イライラ、そんな音が聞こえてきそうなほど不機嫌な顔で私を振り返る。それでもちゃんと目を見て返事をしてくれるのは、彼の優しさだと思う。
「そもそも、そんな事は俺以外のヤツに頼め、時間外労働などまっぴらごめんだ」
彼の指が机を叩く、その一定のリズムを少し心地良く思いながら、私は哀しみを帯びた声でこう返した。
「そうだね、でも……私、連れ出してくれるなら、アンデルセンが良かったんだ」
二人の間にしばしの無音が流れて、彼は「物好きな奴だ」と言って読書を再開して、私達の会話はそれで終わり。私は今度こそ踵を返して部屋を出た。
その翌々日のまた次の日、目を覚ました私は、机の上に原稿の束と手紙が添えられているのを見て首を傾げた。
なんだろう、と原稿用紙の一行目を見てみると、少し乱雑な文字で「旅する小鳥」と書いてある。タイトルだろうか。
添えられていた手紙にも目を通す、と、これまた走り書きのような文字で「お前には物語《これ》で充分だ」と書いてあった。
端に小さく青い鳥のあしらわれたその便箋を見ながら、私は思わず破顔した。差出人の名前は書いていないが、こんな事するのは一人しか思いつかなかった。
(優しい人)
作品よりも何よりも、彼のその気持ちが嬉しくて、私は世界にひとつだけのそれをぎゅっと胸に抱きしめた。