貴方とシオンの花言葉


Chapter.7


 本当はよくわかっていた。私が彼の恋人じゃなくても、彼はきっと私のことを守るだろうということ。
 大切な誰かでなくても、無力な誰かが助けを必要としているなら、彼は行く。彼は立つ……そんなことは、嫌と言うほど知っていたはずなのだ──そんな彼だからこそ、私は好きになったのだから。

「……っ、ぅ、う……っ!」

 彼の眠るベッドに顔を伏せ、泣き続ける私に向かってスターフェイズさんは静かに語りかける。

「今から酷なことをきく──そんなに苦しいのであれば、君が、クラウスを忘れようとは思わなかったのか?」

 そうすれば、少なくとも君は傷つかない。それは労りのようで詰めるような、尋問のようで寄り添うような問いかけ。少なくとも、私にとってはそうだった。
 質問はもっともだ。彼が傷つくこと≠ナはなく、彼が傷つくことによる自分の苦しみ≠避けたいのなら、彼だけではなく自分の記憶さえ消してしまうのが一番だ……そんなこと、私自身がよく知っている。

「──できなかったんです」
「できなかった……?」

 以前、彼に飲ませた薬の袋を取り出した。異界側の薬、効能は、「最愛の人間に関する記憶を封じる」というもの。……これには、実は期限があった。

「この薬が効き続けるのは、服用者が再び想い人に好意を抱くまで」
「……飲んだのか」

 頷く。開かない彼の瞼を見つめながら、私は止めどなく溢れる涙を堪えることなく流し続けた。

「でも──ダメだった、彼の顔を見たら、私すぐに思い出してしまうんです。どうしても忘れたままじゃいられないんです……!」

 聞く人が聞いたなら、状況が状況なら、これはなんて甘い愛の言葉だろうか。何度忘れてもその度に恋をする。魔法使いの魔法にも負けない、真実の愛の力──なんて、王道を通り越して擦り切れるほど使われたチープな愛の物語。

 彼の前で良い子≠ノしていた時の私になら、それはきっと似合うのだろう。ファンタジーな世界のお姫様みたいに、希望を信じて、人を信じて、未来を信じて、前を向いて歩いていく。……けれど現実の私は違う。彼のことを信じられず、自分が傷つきたくないが故に彼に薬を盛って、彼と彼の大切な人たちの心に小さく傷をつけ続けた。

 こんな女は彼に相応しくないと、心の底からそう思っているのに──私は、魔法すら効かないくらい、彼のことを好きで仕方がないんだ。

 こんな形で、知りたくなんて、なかったけれど──

「──そんなに、泣かないでくれたまえ」
「……っ!」
「目が覚めたのかい……!」

 辿々しく発せられた声に、私は伏せていた顔を上げる。彼が、クラウスさんが──寝たままではあるものの──しっかりと私を見ているのと、目があった。

「よかっ──」

 安堵に緩む頬、しかし、自分のしたことと、彼に起こったことを考えれば、それは許されないことだ。それに、今の彼にとって私は「ただの無力な他人」に他ならないのだから。

「……っ、す、すいませんでした、ミスタ・ラインヘルツ……私のせいで──」
「クラウス」

 彼が私の言葉を遮る。え……? と小さく聞き返すと、彼はもう一度自分の名前を口にした。

「クラウス──と、いつものようには呼んでくれないのかね」
「クラウス、君、記憶が──」
「ああ、心配をかけたようだ、スティーブン」

 ゆっくり上体を起こす彼の背を、スターフェイズさんが支える。彼は微塵も私から視線を逸らさずに、静かな声で私の名を呼んだ。

「なんで…………」

 ──薬の用法を間違えた? それとも、私が知らないだけでタイムリミットがあったのだろうか。
 彼が嘘をついている──それだけは、絶対にない。ならば、夢……? そうだ、こんな都合のいい展開、きっと夢に違いない。
 けれどもし、そのどれでもないなら、これが現実だというのなら──

「──いつから、」
「君が、私の名前を呼んだ時に」

 それは、彼が私を庇ったその後のことだろうか。確かにあの時、私は思わず彼のファーストネームを口にした。けれど、それが何だというのだ。

「……君の口から、君の声で私の名前が紡がれることが、私にとってはどうやら幸福なことであったらしい──このような事態にならなければ自覚できなかったのは恥ずかしい限りだがね」
「そんな、ことで」

 彼は私を思い出したと言うのか、彼が私に、好意を抱いたというのか。
 それは、だって、そんなのは──私には、過ぎたものだ。
 彼を信じきれなかった、私には。

「……っ、う……っ! っ、ぐ、う、うぅ……」

 涙が溢れて止まらない。情けない泣き顔なんか見せたくなくて、覆い隠そうとした手を彼が掴む。

「……私が、もっと早く君を思い出せたなら、君を泣かせることもなかったのかね」
「ち、ちが……! 私が……全部私が……っ!」

 心を埋めるのは、悲しみでも苦しみでもなく、まして喜びでもなく、ただただ、罪の意識が、私の中に暗雲を立ち込めさせていた。

「ごめ……んなさい、ごめんなさい……! ごめんなさい……クラウスさん……! 私、貴方にひどいことを」

 私は泣きながら、彼に盛った薬のこともその理由も、全て隠さず彼に伝える。彼は相槌も打たずにただじっと私を見つめ、私が話終えた後に一言だけ「そうか」と言って目を伏せた。

「ならばもう問題はないな──現に、私はこうして全て思い出したのだから」
「なっ……本気で言ってるのかクラウス!」
「もちろんだ」

 私が驚いて顔を上げるより先に、スターフェイズさんが声を上げる。そして彼はそれに対して間髪入れずに力強く頷いた。

「わかっているのか、彼女が使った薬がもし人類に有害なものだったら、俺たちは君を失うことになっていたんだぞ!」
「スティーブン、彼女も私に飲ませたものと同じ薬を服用している。同じリスクを負っているのだ」
「だから許すとでもいうのか? そんなのは、何事もなかったからという結果論でしかない!」
「それがどうしたというのだ。結果、私は以前と変わりもなく、彼女は自らの罪を認めこうして謝罪をしている。それをどうして責められるというのか」
「君は──っ、……相変わらず、甘いな……」
「そうかもしれないな」

 彼が優しく私の頬に触れ、涙を拭う。ずっと触れて欲しかった彼の手が、体温が、後悔に苛まれる私の心まで温めるようで──流れていた涙は、いつの間にか止まってしまっていた。

「しかしだ、スティーブン。きっと同じことが起こったとしても私は彼女を許すだろう──それほどまでに、私も彼女を愛しているのだ」
「──」

 最後にひとしずく、私の頬を涙が伝う。彼はそれを見て困ったように目を細めながら、私の身体を抱き寄せた。

「泣かないでくれたまえレディ、君がまた不安になるというのなら、私は何度でもその不安を拭おう。君がそれで救われると言うのなら、何度でも誓おう──私は、君を置いて行くことはしない」
「クラウスさん……っ」

 彼の胸に縋り付き、また私は子供のように泣きじゃくる。泣かないでくれと言われたのに、私の涙は止まらなかった。

「レディ──」

 そんな私の口に、柔らかくて乾いたものが当たる。当たるというか、覆われるというか……何が、と確認しようとして、それが彼の唇であることがわかった。

「……! い、まの、」

 驚きに身体を離そうとした私を、彼がまた強く抱きしめた。今の、今のは──キス、だっただろうか。

「──すまない、君に、許可もなく」

 私の心臓ははちきれんばかりに大きく鳴っていて、彼の左胸からも、同じような早鐘を打つ音が聞こえていた。……よく見ると、彼の耳も赤く染まっている。どこまでも正直で、隠し事のできない人だ。

(そんな人が、誓おう、と言ってくれるんだ。──それを、何故私は信じられなかったのだろう)

 幾度目かの後悔に唇を噛み締めた私の耳元で、彼が私の名前を呼ぶ。

「──私は君が好きだ」

 君は? と、問いながら彼は私から少し、身体を離した。真正面から私の瞳を覗き込み、目は逸らさずに、じっと私の答えを待っている。

「わたし、私、も──」

 答えを口にすると、彼の唇がまた重なった。やれやれといった顔で呆れるスターフェイズさんがそこに居ることを思い出すのは、その少し後のことだった。
 
 こうして、私の起こした重大で軽微な問題行為は、当事者である彼の一言で全て終わった。
 大好きな彼のことを大好きなままの毎日が、また、明日から始まる──


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