貴方とシオンの花言葉


Chapter.2


「……大分遅くなってしまったな、すまない」
「いえ! ……いえ、仕方ないですよ、あれは」

 いつものことでもありますし。と苦笑いをこぼしながら彼の隣を歩く。本当なら、彼が選んでくれたレストランで食事を……と思っていた時間なのだが、残念、不測の事態(いつもの)のおかげでそれはどうにも敵わなかった。
 その代わり……というわけではないが、彼の家で軽く食事でも、と、誘われたのはその不測の事態が片付いてすぐのことで。

「まぁ、いいんじゃないか? 後片付けは僕らでやっておくよクラウス」

 スターフェイズさんはそう言ってクラウスさんの肩を叩いた後、私の耳元で「休暇申請は当日朝九時までは受け付けてあげよう……なんなら今申請するかい?」なんて、揶揄うみたいに言ってから、頑張れよ、と私の背中を軽く押した。

(あれも場合によってはセクハラなのでは)

「どうかしたのかね?」
「あ……いえ! なんでもないです!」

 ことり、目の前にお皿が置かれる音がする。私がぼうっと考え事をしていた間に、どうやら夕食の準備は整っていたらしい。

「どうぞ」
「ありがとうございます……すいません、ギルベルトさん」
「いえいえ、坊っちゃまのお客様をおもてなしするのも、私の仕事ですから」

 そうは言ってもやはり少し気まずいのが私の心情というもの。だって、ギルベルトさんはたしかにクラウスさんの専属執事ではあるものの、ライブラ内では私の上司でもあるのだから。
 ……かと言って、何かお手伝いをしようにも、その方がむしろ邪魔になる可能性の方が高いもので……私は大人しく彼が食事を用意してくれるまで待つことにしたのだった。

「簡単なものしか用意できませんでしたが……」
「まさか! 私みたいな庶民からすれば、充分過ぎるくらいですよ」

 いただきます、と声をかけてから並んだフレンチにフォークを立てる。口に入れた食物はやはりどれもが美味なもので、私はすぐに全て平らげてしまった。

「ごちそうさまです……美味しかったぁ」
「ご満足いただけたならなによりです」

 お皿を下げるくらいは流石に……と立ち上がる私を、ギルベルトさんは静止する。でも、と食い下がると、向かいの方からクラウスさんの咳払いが聞こえてきた。

「……君は、ギルベルトと話をしにきたのかね? 私に会いにきたのではなく?」
「あ……えと……はい……その……ク、クラウスさんに、会いにきました……」
「よかった、自惚れではなく安心した」

 過剰なほど真剣な顔で、彼は目を細める。普通の男に言われれば「キザな人」くらいで済む言葉でも、彼が口にすればそれは全て本心だ。それがわかるだけに、その一言一句は私の心を浮き立たせ、柔らかな幸福で満たしてくれていた。食事の後のなんてことない会話さえ、私の明日を生きる活力となる。

「──と……すまない、すっかり遅くなってしまった」

 十二時の鐘に、彼がハッと息を飲む。たしかに、一般的な交際関係としては既に解散してもおかしくない時間ではある。彼の家に来てから四時間──たった四時間でそんな時間になってしまった。

「家まで送ろう」
「……はい……あの……」

 帰るのが惜しくて、今日はもう少しだけ彼の隣にいたくて、私は席を立つのを躊躇した。言い淀む私に対して首を傾げる彼は、差し出した手が取られないことに対して「何か問題があっただろうか」と困ったような声を出す。

「その、クラウスさん、夜道は、やっぱり暗くて怖いので──」
「そうだろうとも、勿論、家の前まで送らせていただこう」
「い、いえ! そうじゃなくて、その──今日は、泊まっていっちゃ、だめですか……?」
「──、」

 勇気を出して、そう問いかけた。彼は目を見開いて固まってから──少しして、「客間を、使ってくれて構わない」と声を絞り出した。

「あ……ありがとう、ございます……すいません、わがまま、言っちゃって……」

 要望が受け入れられて嬉しい──と同時に、「客間」という言葉に少しだけ落ち込んだ。まさか、彼だって私のお願いがどういう意味を持っているかわからないわけでもないはずなのに。
 その上で彼が自室ではなく客間を案内するということは、そういうことだ。落胆と羞恥、彼から視線を外すように俯く私に、彼は少し戸惑うような声で「実は」と言葉を続けた。

「もし、君からそう言われたらと考えて、客間は整えておいたのだ──すまない、これは、私の下心だ」
「……! あ……の……えと……はい……!」

 ──正直な人。そんなに恥ずかしそうにするくらいなら、言わないと言う選択肢だってあるはずなのに。
 強面の彼が耳まで赤く染めるのを見て、私の頬もつられて熱くなる。……あぁ、それに「下心」ということはつまり、彼もそういう気持ちでいてくれたという──

「では、明日の朝食時に会おう、足りないものがあればすぐに言ってくれ」

 ──ことでもないようだ。

 客間に案内されて、ベッドサイドでまた数度言葉を交わした後、彼はそう言って立ち上がる。なんということだ、彼はどうやら、本当になにもする気がないらしい。

「……クラウスさん、なにもしないんですか」
「な──なにも、とは?」

 恥はかき捨てだ、と彼を引き止めるも、彼は慌てるばかりで手は出さない。彼の小指を握る私の手すら、握り返すこともしない。
 彼のことはよく知っている。無類の紳士である彼が、軽率に手を出してこないであろうことも……だから、求められていないと落ち込むことはしないようにと努めてはいるが、期待ばかりはせざるを得ない。

 それに、彼から求められなかったとしても、もし、私から求めてそれに応えてもらえるなら、と──

「……何もしなくてもいいので、一緒に寝ては、もらえません、か?」
「──それはできない」

 驚くほどの即答。私が逡巡する間も無く、後悔の暇さえなく、彼はその答えを口にした。
 悪気も嘘も虚偽もないであろうその一言は私の心を折るのには充分で、落ち込むものかと決めていた私も流石に少しだけ涙が出そうになる。しかし、

「君のような魅力的な女性を前にして何もせずにいられるほど、私は紳士的な男ではない──すまない」
「は……」

 そんなことを最後に言って、彼は「おやすみ」とそそくさと部屋を後にしてしまった。

「そ、そんなのずる……ずるい……!」

 私の独り言は彼の耳には届かない。何かして欲しいから誘ったのに──という気持ち一割と、残りの九割は彼への好意で埋め尽くされて、今夜はどうやら、よく眠れそうにはなかった。


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