「Please do not...」

 夢を見る――
 
 

「さて、そろそろ時間かね」

 教会の時計の針を見つめる彼の目が、ゆっくりと此方へ向けられる。深い闇を映したかの様な瞳は、平時よりもずっと暗く澱んで、生者の気配を消し去っていた。

「この身体も、もう保たぬだろうな」

 カツ、カツと、靴を鳴らして彼が、扉に向かう。
 私はただそれを見つめて、言葉にも応えずに、
 ただその背中を、見つめて、目だけは、逸らさずに、

「――。」

 彼が私を呼ぶ、呼んだだろうか、呼んだのだろう。
 深淵を絵に描いたような、そんな瞳で、彼は私に言うのだ。

「お前はもう、好きにするといい」

 あとは頼むとか、
 元気でとか、
 何か、私に、託すとか、そんなことじゃなく、

「私についてくることはない」

 言外に、ついてくるな、と、彼は言った。

「……ぁ、」

 声が、出ない。
 言いたい事はいくつもあって、
 言わなければいけないこともたくさんあって、

「ぁ、……!」

 頬を温かいものが流れた、気がして、
 彼の笑みが、少しだけ優しいものに変わった、気がして、

(私が涙を流すのが愉しいのだろうか)

 ぽたりと落ちた雫が、床に小さく跡を作る。

(それとも、もしかして、あなたは)

 少しだけ夢を見る。
 もしかして、私を、省みてくれるのだろうか、
 もし、もしもそうなら、

(いかないで)

 ここにいて、そばにいて、なによりもわたしをえらんで、

(いかないで)

 たった一言、

(いかないで)

 一番大事な一言が、言えない。

(……いかない、で)

「……っ!」

 声は出ない、涙だけが流れ落ちていく。
 いかないでくれと、声を出すことも、彼に縋り付くことすらも、私には出来ない。
 行き場のない手を、強く強く強く握りしめた。

(いかないで、きれい)

 お願いだから、ここにいて。

(ただそれだけでいいから)

 そんな私の小さな願いは、

「それではな」

 彼には、届かない。
 扉から漏れる光の中に、彼の背中が涙でぼんやりとかすんで見えた。

 いかないで、
 いかないで、
 いかないで、

「きれい……っ!」

 私がようやく彼の名前を叫んだ声は、扉の閉まる音でかき消された。
 固く閉ざされた扉を見た私は、その場に膝から崩れ落ち、小さく嗚咽を漏らす。

 いかないで、
 いかないで、
 いかないで、

「いかないでよ……きれい……っ!」

 私はただ、一緒にいたかっただけなのに。

 ――これは夢だ、
 目を、覚まさなければ、
 早く、早く、早く、
 この夢を現実と錯覚してしまうその前に――
○ ○ ○


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