「わが魂は平和を失い、わたしは幸福を忘れた。」
そろそろランサーが帰ってくるだろうという時刻に、ソファの上で小さくあくびを漏らす。昨日はぐっすりとは眠れなかった、まだ少し眠い。
なんとなく綺礼の方を盗み見ると、丁度広い背中が目に入る。いつもならいつまでも見つめているであろうそれから、今日はすぐに目を逸らした。
なんとなく、本当になんとなく、見ていたくなくなったのだ。
何故かはよくわからない、
……よくわからない。
「来たか」
綺礼の呟きに顔を上げると、部屋の隅にランサーが佇んでいた。
「よう、……報告することがあるぜ」
ランサーの話が一通り終わって、私と綺礼はほぼ同時にため息をつく。
「アーチャーが、ね」
「それはまた思いがけない展開だな」
少し離れたところでイリヤが退屈そうに足をぶらぶらと遊ばせていた。
あの後からなぜか私に異様に懐いているイリヤは、「ねぇその話まだ終わらないの? 早く私と遊びなさい! 涼!」と頬を膨らませている。
痛む頭を抱えながら、ランサーの報告の続きを促した。
「あぁ、だからよ、もう少しだけ俺はあいつらの様子を見てくるぜ」
「は?」
思いがけもしない彼の言葉に抱えていた頭を上げる、まてまて今なんといったのか。
「だから、もう少しあのガキ共に付き合ってくるつってんだ、いいだろ、結局あの嬢ちゃんを助けることになるんだからよ」
それじゃあな、と、それだけ伝えて彼はまた消えていった。
恐らくまた先輩のところへ行ったのだろう、あの凛を助けるために。
「……少し、面倒、かな」
私の知っている凛と、私の知る限りのランサーを頭の中で並べてみる。もし、万が一、何かの計算違いがあってあの二人が手を組んだとしたら?
「……綺礼、私に様子を見に行かせてよ、なんだか嫌な予感がする」
彼は少し眉にシワを寄せながら、「お前がか?」と嫌そうな声で問うてきた。
「だって綺礼まだ本調子じゃないでしょ? 大丈夫大丈夫、殺さずに殺されずに帰ってくるから」
聖杯の器はここにあるし、相手は凛と衛宮先輩と消えかけのアーチャーと、あとは凛と再契約しているセイバー、セイバーさえなんとかなれば後はどうとでもなる、そもそもただランサーの様子を見るだけだ、別段綺礼が行くほどのことでもない。
「しかし」
何故かいつもよりも乗り気でない彼の反応に違和感を感じる…いや、もしかして、
「……もしかして綺礼、今、『このタイミングで私が裏で暗躍していると凛に伝えたら、面白そうだなぁ』なんて考えてない?」
「……あっはっは、まさかそんなわけないだろう、面白いことを言うなお前は」
嘘だ、あれは絶対に考えてた顔だ、まったく信じられない、こんな状況でもまだ己の愉悦を求め続けているのか。
「流石、言峰綺礼、食えないというか読めないというか嫌な奴というかなんというか」
はぁ、と嫌味ともつかない小言を漏らす。こっちは誰かさんの身を案じて気が気ではないというのに。
「嫌いかね?」
「は」
突然投げかけられた問いに、全身が硬直した。
ぎぎぎ、と彼の方へ首を回せば、いつもの怪しい薄ら笑いをそのままに「そんな男は嫌いかね?」とまた問いかけられる。
「いや、その」
しどろもどろになりながら言葉を探す。この男のこういうところだ、こういうところが狡くて卑怯で小賢しくけれど愛おしくどうしようもないのだ。
「……嫌いじゃないです」
「そうかそれはなによりだ」
よかったよかったとでも言いたげな顔で私の頭をぽんと撫でる。
それで絆されると思われているのが死ぬほどむかつくし腹がたつがしかし仕方がない私だって一人の恋する乙女なのだ想い人にいい子いい子なんてされた日にはもうどんな悪徳だろうと許してしまえるさ彼の性格の悪さなどいつもの事だ例えこんな事態に陥ろうとブレないところがまた彼の長所なのではないかそんな気もしてきたいやそんな事は今はいいとにかく撫でろもっと撫でるのだ――‼
「さて? これはいつまで続ければ良いのかな」
と、そこで綺礼の声に我を取り戻す。
急いで彼の手を払い、「もう結構です」とそっぽを向いた……いやダメだ全然誤魔化しきれていない、彼の楽しそうな視線が痛いとても恥ずかしい。
「やれやれお前はいつもそんな調子だな、その流されやすさは保護者代わりとして少々心配なのだが」
心配しないでください貴方限定です。
「と、とにかく、私はランサーの様子を見てくる! 何かあれば即報告! それでいいよね!」
勢いよく立ち上がり彼をキッと睨みつけた。
どうせ彼にはこれがただの照れ隠しだとばれてはいるだろうが仕方がない、形だけでも強がらせて欲しい。
「まぁ、よかろう」
彼の許可が下りる。それでは早速アインツベルンのあの森に、
「よくな――――い‼」
……向かおうとした私へイリヤスフィールが飛びついてきた。突然の衝撃に対応できず、私は彼女に押し倒される。
「い、いりや」
「全然よくない! 私と遊ぶ約束はどうなったのよー!」
足をバタつかせて全身で抗議する彼女はまさに年相応であり微笑ましいものがある、あるがしかし、彼女はこんなにも駄々っ子だったのか。
「それに私をそこの男と二人にするなんてありえない! 不愉快よ!」
そこの男、というところで綺礼を勢いよく指差した。
差された彼といえば、やれやれといった様子で笑っている。
「不服かね?」
「当たり前じゃない」
不満そうに彼を見る彼女の顔は、私のよく知る魔術師イリヤスフィールのものだった。
なるほど、この子は一人の魔術師として言峰綺礼を警戒し、一人の人間として私を好いてくれているということなのだろうか。
随分とまぁ、懐かれてしまったものだ。
(でも、ちょっと、嬉しい、かも)
厳しい表情の彼女と改めて向き合う。
「……イリヤスフィール、帰ってきたら、また遊ぼう? 今度はまた、貴女の知らない日本の遊びを教えてあげる」
そう言って――私が綺礼にされたように――彼女の頭を優しく撫でた。
「……わかったわ」
少し寂しげな表情で彼女が頷く、そしてようやく私の上からどけてくれる。
「それと、イリヤスフィールじゃなくて、イリヤでいいわ、涼」
乱れたスカートを直しながら、彼女は言った。
「特別よ」
少し照れたように笑う彼女に、こちらも少しだけ恥ずかしくなる。
「さっさと行って帰ってきなさい。それまでは私が、嫌だけど、すごく嫌だけどコトミネの面倒を見ていてあげるわ」
「うん、ありがと、イリヤ」
胸を張ってふんぞり返る彼女に微笑む。
後ろでは綺礼が眉間のシワをより深めながら「面倒を見るのは私なのだがな」と溜息をついていた。
なんとなく、妹がいたなら、家族とは、普通の幸せとは、こんなものなのだろうかと思いチクリと胸が痛んだ。
――それは、私達には程遠いものだ。
聖杯戦争のために生まれ、聖杯戦争のために死ぬことを義務付けられた少女にも、
幸せを幸せとして感じられず、醜をもって美とし、愛する者を貶めることしかできない悪徳者にも、
そんな彼の幸せのためなら、たとえ何を殺し何を破壊することにも疑問を持たない、私にも、
決して訪れることなんてない普通の幸せ。
傷んだ胸から、じくじくと温かいものが溢れて、私からこぼれ落ちていく。とめどなく溢れるこれは、愛情だろうか、それを渇望する私の欲だろうか、幸福だろうか、またそれを渇望している私の欲だろうか。
どろどろとあふれてこぼれて、私の中からなくなってしまう。顔を上げれば綺礼の深い闇の色をした瞳が私を見つめていた。
綺礼なら、きっとこんな幸せを壊してしまいたくなるんだろうか。
(なるんだろうな)
たまらず苦笑をこぼすと、彼が怪訝な顔を返した。
こんな幸せは私には荷が重い。重くて嬉しくて苦しくて潰れてしまいそうだ。
(はやく壊してくれればいいな)
綺礼が、そうすれば綺礼が幸せになるだろうから。
そんなことを思いながら教会を後にする。
(帰ってきたら、遊ぼうねイリヤ)
その時一度だけ、小さな少女を振り返った。
○ ○ ○
clap!
prev back next
top