「われらに助けを与えて、あだにむかわせてください。人の助けはむなしいのです。」
冷たい夜風に吹かれたろうそくが、小さく揺らめいた。それを視界の隅に捉えてから、少しでも気が紛れれば、と思い開いていた聖書を閉じ時計を確認する。
ちょうど夜の十時を回った頃、いつの間にか夜も更け、静かな部屋に時計の針の音だけが響いていた。
「……」
消えない不安と焦燥感に、手の平がじっとりと湿っている。
いよいよ明日、最後の戦いが行われるのだ。
その場に居合わせる全ての人の願いが、ぶつかり、潰し合い、消えていく。
「……消えて」
自分で呟いたその言葉に恐怖を抱き、自らの肩を強く抱きしめた。
いままでの悪夢を思い出し震えが止まらない。
もしかしたら、この世界の綺礼も、あの夢のように、
「……っ」
そこまで考えてから頭を振って自分の考えを否定する。
そんなことにはならない、そんなことはさせない。
(私が守るんだ、綺礼を、この日々を……)
そう自分に言い聞かせてパチン、と頬を叩く。それでもやはり不安な気持ちが消えるわけではない。
思えば私は、とても怖がりで心配性だったのかもしれない。幼い頃はよく、怖い夢を見ては飛び起き、それが現実にならないだろうかと怯え、震え、泣いていた気がする。
その度に私はいつも、彼の部屋を訪れて……
「彼の……部屋に、」
そう、不安な時はいつもそうしていた、いつだって、例外なく。
ならば今日もそうするべきなのかもしれない、そう思い、重たい足を動かして彼の部屋へと向かうことにした。
「……なんだ」
部屋の扉をノックすると、普段より幾分か機嫌の悪そうな声が返ってくる。恐らく明日のことを考えていたのだろうか、楽しい時間を邪魔されてややご機嫌斜めといったところだった。
「ごめん、綺礼、その、眠れなくて」
謝罪と共に彼の元へ歩み寄る。彼は読んでいた本を閉じ、椅子から立ち上がった、読んでいた本は……聖書だろうか、こういった時にとる行動は私と彼は似ているらしい、彼の場合は興奮の気持ちが強いのだろうが。
「……来い」
彼はそのまま寝台に腰掛け、手招きをする。もしかしたら彼はまだ寝るつもりがなかったのだろうか、隣で揺れるろうそくは新しいものに火が灯されたばかりのようだった。
「いいの?」
「構わん、お前もそのつもりで来たのだろう?」
ふぅ、と息を吐き、まだかという顔でこちらを見ている。
……不安を紛らせようと来てみたは良いが、先程の会話の後で一緒に寝るというのは、その、少し気まずいというか、恥ずかしいというか。
「寝ないのであれば部屋に帰れ、私とて暇を持て余しているわけではない」
煮え切らない態度の私に、彼は何度目かわからないため息と共に告げた。私は少し慌てながら、彼の隣に横になり布団に潜り込む。
彼がやれやれと言った顔でろうそくを吹き消し、少しして隣で人が横たわる気配がした。
彼の片方の腕が私を包むように覆いかぶさる。小さな頃から私が悪夢にうなされている日はこうしてあやしてくれていた記憶があった。
その心地よさに少しホッとしながら彼の顔をちらりと覗き見る。
「……どうかしたのか」
その時目が合ってしまったのか彼に怪訝な声で問いかけられ、私は「なんでもない」と答えながら彼の腕の中で小さくうずくまった。
「ねぇ、綺礼、きいてもいい?」
ぽそりと小さく呟けば、彼は、なにをだ? と返してくれる。まだもう少し私に付き合ってくれるつもりはあるらしい。
「前回の聖杯戦争の話」
言ってからもう一度彼の表情を伺う……機嫌を損ねてはいないだろうか、と。
「……何故」
どうやらそこまで機嫌が悪くなったという事はないようで、しかし少し呆れた顔のまま彼は私に理由を尋ねた。
「気になるから、それだけ、それと……」
何故か少し緊張して、言葉が詰まる。
「それと……その、綺礼の奥さんの、話」
ぴたり、と、彼の呼吸が止まった。そこまで広くはない寝台で、私の呼吸音と私の心臓の音だけが聞こえている。やはり、この話題は良くなかっただろうか。
だが聞いておきたかった、彼を知るためにも、彼に生きていてもらうためにも、今のうちに……明日がどうなるかなど、もうわからないのだから。
痛いほどの沈黙が続く、あれから何分経ったのだろうか、いや何十分、とても長い時間こうしている気がする。
実際は数秒ほどしか経っていないのだろう、しかしそれでもこの静寂は耐えられるものではなかった。思わず口を開きそうになった時、
「クラウディアは」
彼が、
「……彼女は、愚かな女だった」
そう、話し始めた。
「私の悪性を理解し、許容しながら、それでも私とは違うものだった……アレならば、私でも愛せると、そう思っていた」
彼女の事を『アレ』と呼ぶ彼の顔からは、彼女に対する感情を伺う事はできない。ただ淡々と事実だけを述べている……そんな声色で、彼はまた言葉を続ける。
「しかし私はアレを最後まで愛する事はなかった、アレは…ただ私の悪性を、私に見せつけて死んでいったのだ」
それが良い、とも、悪い、とも彼は言わなかった、
彼自身がそれを善悪でわけられずにいるのだろう。
「アレは最後に、私が泣いていると言った、それは私がアレを愛しているからだ、とも」
いつか、どこかでも同じ話を聞いたことがある気がした。
どこか、遠い夢の中で、
「……私は泣いてなどいなかった、だが女にはそう見えたのだろう、私は……ただアレを殺せなくて残念だ、と」
「……」
「私には、最後まで彼女を愛することができなかったのだよ」
それは、たぶん違うんだろう、
彼は、本当は、
彼女を、愛していたんだ――
(だから、殺したかった、と、そう思うんだ)
胸が、痛む、
――彼は、そう、十年前のあの日、彼の父が死んだ日にも、同じ事を言っていたはずだ。
「私の手で殺したかった」と、
……彼は何故そんな事を、会って間もない私に話したのだろうか。
私が恐れおののく姿が見たかったのだろうか、「狂っている」と断罪して欲しかったのだろうか、
しかし私はただ、
「私のことは、殺したい?」と、
恐れも軽蔑もない、純粋な疑問を彼に――
いや、違う、本当はわかっていたはずだ、
彼がどんなに父を尊敬していたのか。
そんな彼が、その父を「殺したかった」というのだから、
それが、『彼なりの愛情表現』だと、わかっていたはずなのだ。
だからこそ、私は、彼に、
「私のことは、愛しているか」
そう、訪ねたかったんだ――
「綺礼」
だから、今、
「私のことは、」
改めて彼に問いかける。
「……殺したい?」
愛しているか、と、
彼が無言のまま、私の瞳を覗き込んだ。
真っ暗なこの夜の闇よりも、さらに深い深淵が彼の瞳の奥に広がっている。
(黒水晶みたいで、綺麗)
そんなことを思いながら、彼の言葉を待つ。
どうか、どうか、
「私は、お前を殺さない」
ぴしゃりと、言い放たれた言葉に、今度は私の呼吸が止まった。
十年前と同じ問いに、同じ答え、
それはつまり、彼は未だに私のことを、
「そっか」
絶望も落胆も、ひとつも感じさせないように私は平静を装う。
いや、むしろ見せるべきだったのだろうか、そうすれば少しくらい彼は私を、
「……そっかぁ……」
無意識に握りしめたシーツのシワが広がる。それを視界の端に捉えながら目を固く閉じた、今は、彼の顔がまともに見られそうにない。
「……話はここまでだ、そろそろ眠るとしよう」
ふわりと、彼の手が私の頭を撫でる気配がして、それがあまりにも優しかったものだから私はつい涙が溢れそうになる。
「おやすみ、良い夢を」
「……おやすみ、」
目は閉じたまま、彼にそう返した。寝なくてはならない、と思うと、途端に眠気に襲われる。そんなに疲れていたのだろうか。
うつらうつらと意識を手放しそうになる中、少しだけ、彼の顔を覗き見た。
その時彼が、まるで、愛おしいモノを見るような、慈しむような、普通の人間のような顔を、していて、
――いや、気のせい、だろう。
だから、
ねむら、なくては。
できるなら深く深く、夢も見ないほど深い眠りに――
○ ○ ○
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