「正義は平和を生じ、正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である。」
明くる日の朝、私は今日も学校への道のりを歩む。
「はぁ」
昨夜の英雄王の気まぐれのおかげで妙に体が気怠い。
それもそう、なにせ魔力も血液も睡眠時間も奪われているのだから。
「おはよう、神崎」
聞き慣れた挨拶に振り向くと、そこには一つ上の学年の先輩の姿があった。
「衛宮先輩」
おはようございます、と失礼にならない程度に居住まいを正す。
チリ、といつかの夢の記憶が脳裏をよぎったが、そんなことは知らない、知らないったら知らないのだ。
「珍しいな、そんなに機嫌が悪そうなのは」
ははは、と笑いながら私の隣へ並び歩幅を合わせてくれる。そういうところが優しいというか、天然たらしというか。
「別に機嫌が悪いわけじゃ……先輩こそ珍しいですね、こんな時間に」
まだ普通の生徒は学校へ来るような時間ではない。私だって本当はもう少しだらだらしていたい気持ちもあるのだが、毎日朝のお祈りが終わるなり綺礼が「学生は学生らしく早く学び舎へ向かいたまえ」と私を追い出すのだ。
「今日は一成の手伝いでな」
あぁなるほど、と相槌を打って先輩を見る。
丁度先輩もこっちを向いたらしく、目と目が合った。
「……どうせなら桜と登校してあげればいいのに」
「? なんでさ?」
心底わからない、といったように首を傾げられる。
これだから衛宮士郎という男は罪深い。
「どうしてもですよ」
はぁ、とまた溜息を一つ吐いて、前へ向き直った。横からはまだ疑問符を浮かべる先輩の気配がして、その様子に思わず笑みが零れる。
「ほら、行きますよ先輩! 柳洞先輩が待ってるんですから!」
少し走って、振り向き笑いかける。そうすると先輩はやれやれといった顔で笑い返してくれた。
これはなんてことない日常、平和な毎日
私の、神崎涼の、「いつも」
「凛!」
学校に着くと、静かな校舎に見慣れない赤いコートがはためいていた。私はその黒髪の女子生徒に駆け寄り、
「……先輩!」
上辺だけの敬意を、付け足した。
「あーら、涼、おはよう」
はーん? と半目で私を責めてくる女子生徒、遠坂凛……先輩、は、カツカツと私へ迫り、不満げな顔でこちらを見下ろす。
「なに? その当てつけたかのような先輩≠ヘ」
「あはっ」
別に悪気なんてものは一ミクロンだってない。凛だってそれはわかっているはずだが、未だに先輩呼びになれない私に呆れているのだろう。
「そんなこと言ったってなぁ」
凛はあの遠坂家の当主であり、そして綺礼の弟子、つまり私の姉妹弟子であるのだ。
「十年も一緒だったのに、今更先輩もなにもないよなぁ」
綺礼に魔術を習ったりなんやらしていた凛は、まぁ当たり前だが教会に出入りしていたわけで、ならば更に当たり前なことに、教会に住む私とも顔を合わせ続けていたわけで。
「いい加減慣れなさいよね、バカ」
慣れろと言われても、こんなものは半年どころか何年何十年かかっても慣れそうにない。随分な無茶振りをするものだこの姉弟子は。
(姉弟子……? 綺礼から魔術を習い始めたのは私の方が先だけど……でも魔術を始めた時期だけなら凛の方が先だし……そもそも綺礼は凛のお父さんの弟子だし……凛の兄弟子だし……??)
「んん……? あいたっ!」
随分考え込んでいたのだろうか、ぽかり、と凛に頭を小突かれた。
「まったく、あんたのそういうボケッとしたところも変わらないわね」
やれやれと凛が笑う。
その少し背伸びをした少女のような、あどけない笑顔に、変わらないのはそっちの方だ、とつられて笑った。
そのまま凛と別れて弓道場へ向かう。なんだか虫の居所が悪そうな副部長とすれ違ったが気にしない、知らんぷりだ。
「おはようございます!」
「おはよー」
「おはようございます」
元気よく挨拶をすれば二人分の挨拶が返ってくる。部長の三綴先輩と、クラスメイトの桜だ。
「さすがっ! 今日もっ! おはやい! ですねっ!」
二人へ話しかける傍ら、制服を脱ぎ散らかし弓道着を引っ張り出す。桜が慌てながら「涼ちゃん、更衣室! もう、誰か来たらどうするの」と顔を真っ赤にしていた。
「いいよ、どうせ他は誰も来ないだろうから」
と笑いながら着替えを終える。いつもの弓道場、いつもの朝練。それじゃ、お願いします! と大きな声で叫んでから、弓を持った。
朝が過ぎて、
昼が過ぎて、
夜が訪れた。
いつも通りの一日、いつも通りの生活、
学校から帰って、食事を用意して、お風呂に入って、みんなでご飯を食べて、それから、
それから、部屋に戻って、
――なんとなく、胸騒ぎがして、
「……入れ」
思わず、彼の部屋の扉を叩いていた。
「綺礼、その」
開いた扉の前で、俯いたまま彼の名を呼ぶ。
「その」
「涼」
なにも言えない私を呼ぶ声に顔を上げると、
「おいで」
寝台に横たわり、上半身だけを起こした彼が手招きをする。私はなにも言わずに彼の元まで歩く。
彼の隣に立ち、小さな声で「眠れなくて」とつぶやくと彼が小さく笑った気配がして、ぽんぽん、と、布団を叩く音が聞こえた。
「ここへ」
私は少し戸惑い、躊躇して、しかし結局誘惑には勝てず彼の隣に横になる。
それを見て、彼も上体を寝かせた。
「……主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、」
綺礼が私の耳元で囁く、
「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、」
「……穏やかにして信頼しているならば力を得る?」
「正解だ」
よくできました、と大きな手が私の頭を撫でた。私はもう子供じゃないんだからと、照れながらもそれを甘受する。
「不安に思う事はない、涼、もうすぐ全てが始まり、全てが終わる」
楽しそうな彼の声に、胸が苦しくなった。
(綺礼が楽しそうなのは、良いことだ)
彼にとっては、
(……良いことだ)
彼と私にとっては、
――少し離れた場所で、新たな魔力の発生を感知する。
「……新しい、サーヴァント」
「ほう」
彼の声音がまた一音上がった、きっとこの場所なら、凛、あたりが召喚したのだろう
「あと一人」
もうすぐ始まる、
もうすぐ終わってしまう、
「っ、」
どうしようもなく襲い来る不安に、思わず彼の服の裾を握りしめた。
「……明日も忙しくなる、そろそろ眠りなさい」
そんな私の手をそっと包み込みながら、彼が私の額にキスを落とす。
「おやすみ、涼、良い夢を」
おやすみ綺礼、良い夢を、
――見られたら、いいな、あなただけでも。○ ○ ○
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