相対火傷みたいな夜来

死ぬれば死神
あいたいかしょうみたいなやらい

 等間隔に石塔が並んでいる合間。風を切って辿り着いたそこに立つと、仕返すように夕冷えした空気が身を切っていく。
 石に刻まれる名前はこれからも増えていくだろう。しかし下に何も埋まっていない墓標は、何のしるしのつもりで立っているのだろうか。現世の人間のそれとは違う。亡くなった者のためと言いつつ、必要としているのは遺された者だ。心の拠り所か、傷なめ合う同士の留まり木か。記憶なんてアテにならないものより、石に刻んだ方が風化しないとかか。


「なぁ、死んでないならそこに刻まれてちゃダメだろ」


 ――あれ、死んでるかもなんだっけ?ったく、よくわからん状態になりやがって。

 隊葬、始末書、遺品整理。空いた席の埋め合わせと墓に彫られる名前の確認。聴取、総括、報告、自省。更木の頭回りを測り、浮竹さんにあっさりめに油を絞られ……あー、こってりじゃなくてよかった。とにかく忙殺されていた。それでもこの一週間、俺は暇がなくて助かったと思っている。
 十番隊に貢献し殉職した死神の名前が刻まれるそこに相応しくないかもしれない“志波天鷹”の文字列をどうしてくれよう。いったん保留ってことで取り消そうにも、紙の名簿と違って二重線とか引けないしな。溝に土でも入れてならしとくか?……しゃがんで足元の土を抉り、抄い取ってみる。


「おいそこのぽんつく与太郎。師の名前に泥でも塗るおつもりか」

「……まあそんなとこだよ」


 背後からの親しみたんまりな呼び止めには振り向かないまま答えた。近付いてきていたことは霊圧を感じられたから分かっていたが、まさか避けも隠れもせずこっちに来るとは思わなかった。何年振りだ、と気まずくなってんのは俺だけなのかね。
 手の中の土をぽっと捨て戻し、立ち上がりながら振り返る。久々に向き合ったやつは、両手にそれぞれ竹箒と手桶を持って立っていた。てんで似合ってない。


「蒼純様から話は聞いた。心中察するが、俺の手間増やさないで」

「なにお前、ここの清掃とかしてんの?」

「はいはい、もうずっと何年も週一で引き受けてるよ。よく今更お気付きで」

「……悪かったな。ずっと墓参りしなくて」

「別にそこ咎める気はない。この場所自体に意味は用意されていない。ただの石の広場に定期的に通えという義務もない。昼に行灯あんどん、晴れに傘、死神に墓」

「言いたいことは解るが……あんま方々ほうぼうから非難されそうなこと言ってんなよ」

「祈りってのは何処でやろうと等しいものでしょ。それに、あんたしかいないから言ってる」


 青瞳あおめのついた顔がほころぶ。馬鹿にされているのか信頼されているのか判断に迷うが、たぶん両方だ。こいつは何かを人に易しく説明することは得意な方なのに、敢えて難しく言い回すときがある。敬語が崩れるのも俺の前でばっかり。仕事での上下関係は今や逆転しているが、こいつにきっちり敬語を使われた日には蕁麻疹とか出ちまいそうだし、これでいい……というかこれがいい。昔と変わらないのが楽だ。


「先週はここで海燕君に会った。ものだったぞ、俺を見てお化けを見たような驚きっぷり」

「そりゃそうだろ。あいつ、お前のこと死んだと思ってたんじゃねえの?」

「一度死んだも同然さ」

「死んだやつは普通ゆっくり休むの。ど〜せまだ陰でこそこそ危ない橋渡ってんだろ」

「はは、俺は死んでも生きなきゃだから。止めたければ霊力のみならず骨も抜けってことだね」

「真っ黒冗句やめろ」


 見るやつが見れば黄色い声が上がりそうな笑顔で何を言うか。やだこいつ怖い、怖いわぁ。「お化け」だっていうのもそんなに間違ってないんじゃないかと思えてくる。


「ところで……副官決め、振り出しに戻っちまった」

「……俺もあいつしかいないと思ってた。今の十番隊に副隊長になれるような実力のやついないだろ」

「お前は――」

「あんたの目は節穴じゃないと思ってる。それでなくとも今はこそこそしていたい。他あたってくれ」

「……だよな。じゃあ二番目の席は当分空けておくかぁ。余所の隊の様子みてても別に珍しくないみたいだし、問題ないよな」

「……勝手にすれば、隊長さん。流石にもう二十年は空けないように」


 いま絶対「やれやれ困った与太郎め」とか思ってるだろ。爽やかに笑って誤魔化そうったって俺は騙されないからな。やること粗方やって、調子も戻ったら、そんときゃ覚悟しとけこんにゃろ。


「おー勝手にさせてもらうぜ。んじゃ、ぶらっと散歩しながら帰るわ。ここ一週間ほんと忙しくてよ、ゆっくり外の空気吸いたい気分なんだ」

「そう、お疲れ様。また寄るときは花の一本でも持ってきてよ」

「ただの石の広場なのに?」

「墓守りまがいへのささやかな慰労品」

「そゆこと。青い薔薇バラでも見かけたら考えてやんよ」

「……意地悪だなぁ。じゃ、またね」

「おう、またな逆藤さかふじ


 石の広場を後にして視野を広げるともう陽が沈みきろうとしていた。なんだよ、あんまりのんびりしてたら晩飯食い損ねちまうじゃんか。すぐに帰る気分じゃないのにどうしたもんか。空は濃く夕焼けて、棚引く赤い雲は俺の剡月の炎に少し似ている。珍しいしちょっくら眺めていくかと思って瓦の屋根に上ると、そこでやはり奇遇が待っていた。


「……げ、」

「げ?」


 本日退院したばかりであるはずのそいつは、俺を視認した途端に眉を顰め、じいっと見詰めてきた。……睨むともいう。


「こんばんは。『げ』とはまた何事ですか、失礼しちゃいますね」

「やぁその……すまんかったって。見つける一瞬前に『なんか楠山いそう』って思ったら本当にいたもんだから、つい」

「そうですか。私はここにいたら何となく会えそうな気がしてました」

「え、なに?俺のこと待ち伏せしてたの?キャー……」


 若干ふざけて言えば、楠山は気恥ずかしそうに目を逸らした。なっ、な……どういう反応なのこれ?まさか「気恥ずかしそう」じゃなくて「そう」なの?……くっそ不覚、ちょっとかわいい。


「てかお前、荷物多いな?もしかしていっぺんも隊舎に戻ってない?」

「ええ。午前中は十三番隊にいて、午後はまぁ帰ろうかなーとは思ったんですけど……どうしても行きたいと思う所があったものですから」

「そんで十一番隊素通りしてこっちまで来たって?更木のやつ今頃心配してっかもよ」

「更木隊長、鬼みたいなのにしっかり人の心がありますからね。確かに悪いことした……かも」


 顔は正面を向いているのに目玉は横っちょを向いている。歯切れの悪い。いつものキレッキレの返しはどうしたよ。人の顔みて「なんだ志波隊長でしたか」とか、お前のこと心配して言った台詞に対して「騒々しいうえに言い過ぎ」とか。


「ひょっとして……やっと浮竹さんから聞いた?あー……いろいろ」

「……ひょっとしてます、いろいろ」

「なーる……えっと……じゃー……歩くか?いろいろ話しながら」


 楠山はコクン、と頷いた。俺の前だとちょい跳ねっ返り屋なとこがあったから、こうおとなしい感じだと調子が狂う。足元に置かれていた荷物をひょいと持ってやると、むすっとした顔をされた。なんで。


「ん?なんだコレ。なんかあったかいぞ」

「それ夜ごはんです。今日は外で食べようかなと思いまして」

「こんなに?元気になってよく食べるのはいいが――」

「あなたの分もありますよ。山菜おこわと揚げ鶏のお弁当、良かったらどうぞ」

「……イタダキマス」


 メシどうすっかなぁと思ってたとこだ、用意のいいこってありがたい。しかしつまり……一緒に食べようと思ってくれてたってことだよな?そうなるよな?まぁそれか、前は自分の好物を半分くれてやるハメになったんだし、今日も似た予感がしたから前以て、ってことだろうか。
 行儀は悪いが、人目を避けられるし風が気持ちいいから屋根伝いのまま進むことにする。行き先は楠山任せ。隣のこいつが二回とちょっとすたすた足を出す距離を、俺は大股で一回。気を付けないと置いて行きそうだ。病み上がりに無理はさせたくない。ゆっくり、ゆっくり。


「まだなんかあるな。こっちは……ははあ、おやつ。聞いたら食べてみたくなった?伯父貴の好物」

「いつもなら大福かきんつばにするんですけど……」

「でしょうねぇ。これ大人の味だぞ?醤油だれもそんな甘くないやつだぞ?ちゃんと食える?」

「バっかにしないでくださいよ、私だってお蕎麦にはちょっと七味かけたりします。冷たいのには紅葉おろしだって」


 あっ、これよ、この感じ。こいつはやっぱこうだよな。自分でも何故だか分からないが頬が緩んできて、へらへらしていたらまた睨まれた。でも駄目だね、全然怖くない。つうかそっち半分照れちゃってるじゃん。何だろうなこの形容し難い雰囲気……甘い?は違うな、ほっこり?とにかく慣れない。なんかアツいな、俺の心臓が勘違いしかけてる。暗く涼しくなってくる時間帯で良かった。


「でも……歳三桁いってる人からしたら、そりゃ私なんてめちゃめちゃ子どもに見えることでしょうね」

「歳から考えりゃそうかもなぁ。でも俺からすると、現世の人間って育つのが早いぶん内面が大人びるのも早いと思ってるぜ」

「そうですか?赤ちゃんだった頃の私が頭の中にチラついてたりしません?」

「あーその……俺はさ、小さいお前に一度も会ったことないのよ」


 そう言うと楠山はキョトンとした。生まれてから半年は自分はこっちにいたという話も聞かされたんだろう。それなのに?ってな。俺もマジでそう思う。伯父貴ってほんとそういうとこ適当だった。身内なんだし真っ先に教えてくれても良かっただろって今でも思ってる。


「…………はふらかされてたんです?」

「くそー間違ってねーけど心に刺さるぅ」

「えっ。そんなにしょげますか」

「だってぇ、だってよぉ……聞いてくれる?不憫な俺の話……」



「あちゃー……遠桟敷とおさじき……」

「フン、そうよッ!どうせ俺は仲間外れの蚊帳の外……」

「え……えっと……よしよし」


 撫でる真似だけして実際には撫でてくれない。俺の頭の高さにお前の手が届かないこと抜きにしても、別に肩とか背中とか触ってくれても嫌じゃないんだけど。ぐすん。


「でもつまはじきにされていた訳ではないですよね?誤解と偶然というか……」

「そーだけどよ……みんなヒドイんだぜ、『もう誰かから聞いてると思ってた』って」

「まぁそういうこともよくあ……?り、ますよ、ええ」


 慰めるの下手か。でももし逆の立場だったら俺も何て言ったらいいか困るな……気持ちは受け取っておこう。
 楠山はすたすた進めていた足を止めた。俺ばっかりが長話をしているうちに目的地に着いたようだ。途中から屋根を下りて隊舎裏を通って坂を上って森を抜けて――そんな気はしていたが、こいつはこの場所に来たかったのか。


「ここ、父様が造った場所だったんですね」


 背中を反らして見上げるほど巨大ではないが、そこそこの滝。人の身長の何倍かはある高さの切り立った真黒い崖上からざざあっと水が流れ落ちて、続く川の底と近辺の大地も全て真黒い岩や石でできている。弁当もってきて食べたりするのにはぴったりの場所だろう。普通そういうのって昼にするもんだけど。


「そ。伯父貴の斬魄刀の『黒燿こくよう』って変わっててな。一回出した真っ黒は念じるだけで跡形もなく消せるが、こうして敢えて遺しとくのもお手の物なんだって」

「この山ではよく一角に鍛錬の相手をしてもらってまして、ここにも何度か来たことあるんですけど……」

「あの坊主頭だっけ?三席の」

「はい。滝の裏に洞穴があるなんて、浮竹隊長からお話を聞いて初めて知りました」

「まぁ水で隠れてるし。男はいくつになっても好きなのよ、秘密基地とか」


 適当な岩に腰掛けて、楠山に視線を送りながら隣の岩をぺしぺし叩く。……なにその顔、一緒に弁当食べるんでしょ?いいから座りなさいって。


「いま洞穴ん中で食ったら真っ暗でメシ見えねぇぞ」

「わ、分かってますよ……」

「ほれ、まだちっとあったかい。冷めないうちに食お」

「……いただきます」

「おう、お前が買った弁当だけどな。いただきます」


 割箸を割る音が滝の音に負ける。辺りはもう暗いが、水がきらきら光って見えるからそんなに心細くはならない風景だ。夜の遠足も乙なモンね。出汁のきいたおこわ、カラっと揚がったおかず。


「うん、旨い」

「おいしいですね。あの……父様はどんなごはんがお好きでしたか」

「んー……甘い味付けはちょっと苦手みたいだったが、出されるメシに絶対文句は付けない人だったな。何でも食う」

「お好きだったものを訊いているのですが」

「いーだろ。情報は多いだけいいの。えーと……」


 脇に置いてある七味団子の他に何が好きだったか。思い出そうとしてみたが、思い出すも何も、そもそも好きなメシなんて訊いたことあったっけか。何度も一緒にメシ食ってたのに。親父よりも一緒にいる時間長かったのに。俺ってほんと、剣のことばっかりだったんだな。だからこいつが生まれたとかいう話も聞けないんだよ、ほんと……俺って。


「――志波隊長?」


 いけね。口も箸も止まってる。なんだよこれくらい、ウジウジすることじゃないだろ。伯父貴が俺に自分のこと話さなかったのも悪いんだ。隊長がしっかりし過ぎてて部下に注文つけてこなかったから、隊長がこんなに大変だなんて知らなかった。師匠が殆ど剣のことしか教えてくれなかったから、弟子は剣の道の外だと迷える馬鹿になる。知らないうちに知らないやつとあれこれ縁つくって、勝手にいなくなったから――。

 ぽん、と背中に手が添えられた。遠慮がちな手つきで優しく上に、下に。撫でられているのだと気付くのにたっぷり十秒は掛かって、気付いた途端、あんなにうるさかった滝の音がバクバク負けていく。ちょっと落ち着け俺、こいつ相手に顔から火が出るとかないだろ。とてもじゃないが今は横に顔向けできない。


「私、父様の背中を少し覚えているんです」

「……そうなの」

「はい。手を伸ばしても全然届かないくらい大きくて。背中の『十』に触れてみたくても、振り向いた父様に私が抱き上げられておしまい」

「ちっちゃかったんだなぁ。今じゃ余裕で届くだろ。『十』背負しょってるやつの背中も前より小さくなってるしよ」

「そうですね。こうして撫でられるようになりました。掴むも投げるもできるでしょう」

「……投げないでね?」


 気取られないように深呼吸して、それからやっと横を向いてみる。少し下の位置にある顔は一瞬だけ悪戯っぽい笑みを浮かべていた。……そんな顔もできるのな。初めて見た。


「私が覚えている父様との思い出はそれくらいですけど、あなたはどうですか」

「……何十年、ほぼ毎日、顔合わせてたよ」

「それでしたら、娘のことや好きなごはんのことはあまり聞けなかったにしても、他に教えてもらったことはいっぱいあるのでしょ。あなたにとっては一人目のお師匠さんだったんですから」

「……そーね。俺に一番ものを教えてくれたのは伯父貴だったよ。まだ背中追っかけてるとこ」

「じゃあ私はあなたの背中を追いかけるので、追いつかれないように頑張ってくださいね」

「え〜なにその追いかけっこ連鎖」

「お忘れですか?あなたも今や師、なのですよ。弟子は必死ですよ〜、追いつきたくて、追い抜きたくて、並びたくて、支えたくて……とにかく欲張りなんです」


 その気持ちはよく解る。昔の俺と同じなんだ。お前は、俺が伯父貴に対して思っていたのと同じ気持ちを、俺に。そう言ってくれてるんだろ。
 「慰めるの下手」とかさっきの俺の大間違い。大馬鹿。背中の十どころじゃなく、ぎゅっと掴まれてしまった気がする。こいつ俺より年下とか嘘なんじゃないの。ああもう、俺って、でっかい子どもみたい。


***


 最後の一口を胃に落としたとき、惜しいことをしたと思った。この一時ひとときが終わるのが残念だと感じた訳だ。お店で弁当を二つ頼んだ直後には、私はいったい何を――と、自分でも理解に苦しむ不明な心境だったというのに。


「……ごちそうさまでした」

「ゴミ預かるぜ」

「えっ、いいですよ」

「ご馳走になったのコッチなんだし気にすんな、ほれほれ」


 意外とそういうところはきっちりしてるんですね。書類は溜めるのに。割箸を竹皮でくるんで捩ってぎゅっとして、結び紐で封をし直して……よし、これで触っても汚れない。志波隊長は「よっこらしょ」と腰を上げると、私の手にあるゴミを半ば強奪していった。


「まだそんな遅くないが、ここら灯りないから真っ暗いなー」

「ですね。何か燃やします?落ちてる枝とか」

「原始的ィ……なぁ、お前さ。指先にちょっと点けられたりしない?ちょちょいと」


 志波隊長は人差し指を立てて回しながら言った。ちょちょいってまさか――ばかな、この人の前では“燃やす力”はおろか、始解も見せたことは無かったはずだ。だのに「できるんだろ」と疑いのない眼差しを向けてくる。対してこちらは半信半疑だ。見せるようにして斬魄刀の柄に触れてみたが、違う違う、というように首を振られてしまった。


「……何故そう思いましたか」

「お前にしちゃ愚問だなぁ。伯父貴と一番やり合って剣を合わせてたのは俺だぜ?その辺の何となくの鋭さだけは誰にも負けるつもりねーの。ま、俺は斬魄刀ナシでとかそんな芸当できんけど」

「……鋭い部分が局部的にトンガリ過ぎません?さっきご自分で彼是あれこれうといんだって触れ込みしてたじゃないですか」

「お・だ・ま・り。なー、ごてるってことはできるんだろ」


 得意げにビシッとされて癪なので、その指先に動作なしで白焔を点けてやった。派手にやると霊力を持っていかれるから、控えめにするしかないのが少し悔しい。


「おわアッチ!?……くない。なーんだ、やっぱりできるんじゃん。親子揃って摩訶不思議ね」

「内緒にしてくださいよ。もう割とばらした人いますけど……」

「りょーかい、お前の秘密はちゃんと守るから安心しろ」


 志波隊長は白く燃えている人差し指をそっと唇にあてて、シーッという仕草をした。……急に気障キザったらしいのやめてくれないかな。ちょっとドッキリした。別に恰好いいからとかではなくて、お化け屋敷的な方のドッキリである。私の心臓が早鐘はやがねを打ちだしたのは火事の知らせみたいなものだ。カンカンカン!うわ逃げろ!という感じなのだ、そうなのだ。


「そう睨むなよ。全然怖くないぞ〜」

「……余裕そうですこと」

「あっそう見える?へへ、カッカすんなって、寧ろ今のお前なんかカ――……」

「か?」

「……ナンデモナイ」


 何だっての。片言カタコトになった彼はカタカタと擬音が聞こえてきそうなぎこちなさで首を回して彼方あっちを向いてしまった。

 放っておくことにして、滝壺に近寄ってみる。水のカーテンの裏を覗くと、私の頭頂よりも高い位置に横穴が開いているのが確認できた。これはやっぱり言われないと分からないだろう。水が弾いて少し髪が濡れたが、構わず穴へと跳んだ。
 片手にぽっと現した焔で中を照らす。普通に立っていても頭はぶつからないし、幅も奥行きも思ったよりあるようだ。壁際には物を置いたり腰掛けたりするのに丁度良さそうな直角の段差がついていて、階段箪笥っぽくなっている所もあれば、只の長方形の置物みたいな所もある。とことこ奥へ進んで行き止まりにあって、そこから入口を振り返ってみると「だるまさんがころんだ」が十分に遊べそうなくらいは距離があった。


「探検するのはいいが転ぶなよー」

「ちゃんと足元には気を付けてますよ」


 結局、志波隊長は後を追って来ていたらしい。透きとおった滝の裏を背にして影が立っている。そういえば彼の指先に焔を点けたままだった。灯りに使っているみたいだから、まだ消さないで差し上げよう。


「ここ入るの久しぶりだなー……確かこの辺に……おっ、あったあった」

「なんですか?」

「これこれ、梅干し」

「ええっ、そんなとこからうめぼし」


 彼は中程の地点で屈み、長方形の岩の陰から茶色いかめを持ち上げて見せてきた。そりゃ年中ひんやりとしていて涼しい場所だろうから保存に向いているとは思うが。秘密基地というより冷蔵庫ですかここは。


「食う?まだ結構あるよ、伯父貴が漬けたやつ」

「へ……何年前のやつですか」

「待ていま札みっから。えっと……じゃじゃん!二十三年物!売ったら高級品〜」

「食べていいなら食べてみたいです。というか父様は漬物とかなさってたので……?」

「実が生ってんの見ると『何かにしなきゃ勿体ない』っつってな。ほら、どーぞ」


 彼が両手で持っている甕の蓋をぱかっと開けて、一粒つまんで素早く閉じた。こういうのはあまり空気に触れさせないでおくのがいいと爺様に聞いた覚えがある。


「なんか白いの付いてても多分カビとかじゃないから平気なはず」

「はい。じゃいただきます」


 けっこう大粒だけど……いいや、一口でいっちゃえ。……しゅっぱ。でも熟成されていて良い塩梅だ。角がなくてまろやかで、かぐわしい。


「どぉ?うまいか?」

「……おいひいれふ」

「そっか〜じゃ俺にもちょうだい」

「……ご勝手はっへどうぞほーほ

「いや何いってんのか分か――るな。でも見てよ俺の手、塞がってるだろ」

「置けば……」


 おっと、アホおっしゃいという気持ちが強すぎてうっかり敬語が抜けてしまった。しかし仕方あるまい、本当になに言ってんだろこの人。懐紙を取り出して種を出すのと一緒に毒も吐きたくなった。


「手ェ汚れちまったしよ」

「すぐそこ綺麗な滝ですよ」

「え〜?おかゆ食べさせてやったの忘れたか〜?」

「今それ引き合いに出すのずるくありません?下らないことで駄々こねないでください」

「いいだろそんくらい、ひょいっと、ぽいっと、な?なーって」


***


「ふんふ〜ん、ふふんふっふ〜ん」


 雲が少ない良い夜だ。夕方は少し風が強かったけど、冷たすぎない澄んだ空気が優しく肌を撫でていってくれる。こんな時間に独りで逍遥していても、草花の香りが賑やかなおかげで寂しくない。寧ろ上機嫌になっていくようだ。晩酌はまだこれからだっていうのに。
 今朝この辺りに来たついでに寄って持って帰れば良かったんだけど、蒼純クンのお手伝いしてたらそのこと忘れちゃったし、お昼前には七緒ちゃんに見つかって「仕事してください」って急かされちゃって、それどころじゃなかったんだよね。

 さあ、そろそろ滝の音が聞こえてきた。今晩はとっておきのやつにしよっかなァ――ん?なんかあそこ、ほんのり明るくない?誰か来てるのかな。まぁここを知ってる人なんて限られてるし、ぴゅっと行って驚かせちゃお。


「こんばんは〜、そちらも何か取りに来たのか……い?」


 滝の裏の洞穴に上がると、そこにいたのは一心クンと沙生ちゃんだった。二人は向かい合って立っていて、沙生ちゃんは爪先立ちで少し背伸びをして、一心クンは「あー」と口を開けていた。……ぱくん。二人は横目でボクを捉えたと同時にカアッと茹で蛸みたいに真っ赤になっちゃって、急に電球がぷつんと切れたように何処かにあった灯りが消えて真っ暗闇になった。
 チョット!見えない!ていうか今なに見せられたの!?


「きょらっ、京楽たいちょ!?こっここんばんは!」
っぱ…ど、どーも!あの別に何もしてまイッタ足踏んだべ!」

「うそぉ?君ら少し見ないうちにどこまでいってるの」

「京楽さん!?なんか誤解してね!?」
「そうです!今のは仕方な〜くですね」
「あっでもありがとな〜楠山、結局ワガママきいてくれて」
「なんで今お礼とか言っちゃうんですか!?空気読んでください!?」

「へぇ〜……見ぃちゃった」

「「違くて!!」」

「なにが違うのよ」


 あ〜面白い。やぁ、何となく過程は察したけどさ、これは見なかったことにはできないやつでしょ。浮竹に告げ口したらどうなるかなぁ。一心クンを羨ましがるのか、ぶっ飛ばすのか、どっちかなぁ。
 いたずら心をむくむくさせていたら、真っ暗い中からでっかい方が飛び出してきた。いやいや逃がすか!こんな面白いときに!「えいっ」と肩に腕を回してさっくり捕まえてやった。ボクから逃げようだなんて千年くらい早いでしょ。外に近いこっちは少し月明りが入ってくるから、彼の表情も辛うじて窺える。


「いや〜ずいぶん仲良しさんになったじゃない?見てるこっちが若返っちゃいそう」

「……そりゃ身内っすもん。仲良くていいでしょ」


 お互いにぎりぎり聞こえるくらいの小声でひそひそ話せば、あとは水がざあざあ掻き消してくれる。まだ奥の方で火照った顔をどうにかしようとしているであろう沙生ちゃんには聞こえないはずだ。


「そうかい?ちょっとした火遊びに見えなくもなかったけど」

絶対ぜってーそーゆー手は出さねって、変な勘繰りやめてくださいよ……」

「エヘ。まぁ確かにヤケドじゃ済まないかもね?」


 沙生ちゃんのことになると、お父さん(みたいな人)がとっても恐いから。ま、それはキミも嫌ってほど解ってるだろうけどさ。


「でもさー、でもだよ一心クン」

「……なんすか、ニタニタしちゃって」


 困ったオジさんにつかまったと思ってる顔だ。ふふ、困ってる困ってる。でもボクってば超がつくほど意地の悪い大人だから、たまには若者をつっつき回してみたくなるときがあるんだよね。――ゴメンネ?


「一応言っとくと……キミさ、イトコは駄目じゃないからね?」


 ほうら、困ってる困ってる。いやぁ若いねぇ、青いねぇ。赤いけど。酒の前にイイ肴いただいちゃったなぁ!


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