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Disguise / Disclose


4.

 12月の冷たい空気は、アルコールを摂取し過ぎた身体には心地好かった。
 先に外の空気を吸っていた桜斗は、さっきよりはいくらか正気を取り戻した様子だ。店から出てきた草太の顔を見ると、膝に手を当てて深く頭を下げた。
「──本当にごめん、草太」
「気にするなよ、桜斗。ほら、もう帰ろう?」
「せっかくの楽しい場だったのに、俺、台無しにした。春日にも、あんな……迷惑かけたし、先輩にもなんて謝ったらいいか」
「いいってば、顔上げろよ。誰も怒ってないよ」
 できるだけ平静に努めて、何でもないように言う。けれど桜斗は草太の顔を見るとかえって動転をぶり返した。
「俺、驚いて──急に横から抱きつかれてそれで──俺まだ、……あの、時のことが、」
「桜斗っ」
 早口でまくし立てる桜斗の肩を掴む。桜斗の身体がギクン、と震えて、草太の目に焦点を合わせる。
「──あ、」
「みんな酔ってたし、俺だってさ」
 桜斗の両手を包むように掴むと、手は氷のように冷たかった。ぎゅうぎゅうと手を握って温めてやり、最後に、まだ血の色を取り戻さない桜斗の頬をきゅっと軽くつねる。
「俺も酔っ払ってわけわかんなくなっちゃったから。だから、もういいんだ」
「草太……」
 桜斗はもう1度、ごめん、と呟いた。

 黙り込んだまま電車に乗り、駅から桜斗の家へ続く坂をとぼとぼと歩く。
 幼い頃、2人で同じ小学校に通っていた頃に毎日並んで歩いた道だ。何の悩みもなく他愛もない話で盛り上がり、2人で心の底から笑っていたあの頃。
 白い息を吐きながら、ぽつりと草太が言う。
「さっきの話、さ。……好きなタイプ?」
 お酒を飲める年になって、今更こんな話をすることになるなんて思わなかった。もっと早くに話せていたらよかったのに。思いながら、草太は誤魔化すようにふっと笑う。
「春日の、聞けなかったな」
「……そうだね。今度、聞かなきゃ」
 桜斗も薄く笑い、それから俯く。
「草太はいるんだね、好きな人」
「……え、」
「優しくて、強くて、きれいな人……だっけ? タイプじゃなくて、実際にいるように聞こえたよ。俺、ちょっと驚いちゃった」
 いいなぁ、と漏らす桜斗の口から、は、と白い息が溢れる。草太は一瞬、息が詰まって言葉が出なかった。誤魔化すように咳払いをしてから、口を開く。
「桜斗だって……、いないのかよ。気になる人とか」
「俺は……ないよ」
 肩を竦めて笑いながら言う桜斗は、照れ隠しをしているようにも見えた。しかし、続く本当の答えを聞いた瞬間思ったのは、聞くべき問いではなかった、ということだ。
「俺は多分もう、誰のことも好きにならない」
 草太は足を止めた。隣を歩いていた桜斗は数歩先を行き過ぎてから、草太が伴わないことに気付いて不思議そうに振り返る。澄んだ冬の空気の中、草太の視界は潤んで、桜斗の姿がぼやけていた。顔を見られたくなくて、慌てて俯く。
「……草太?」
「そんな……悲しいこと言うなよ」
「草太、どうし……」
 桜斗は草太のところまで戻ると、恐る恐るといった風に草太の肩に手を伸ばす。街灯の下で俯いた草太の足元、コンクリートにポタポタと水滴が落ちて、色が変わる。
 草太は肩を震わせ、大粒の涙を流していた。驚き見開かれた桜斗の目が、戸惑いながら草太の瞳を覗き込む。
「草太」
「だって……俺、桜斗が好きだよ。そんな風に言われたら、俺の気持ちはどうなるんだ、」
 子供みたいな言い分だと思ったが、止まらなかった。
 ずいぶん酒を飲んだ。きっとそのせいだ。自分に言い訳をしながら、袖でゴシゴシと涙を拭う。
 少しクリアになった視界で、桜斗は困ったように微笑んだ。
「ありがとう、草太。俺も草太のことは好きだよ。……ありがとう」
 違う、そうじゃない──本当に好きなのに。
「どうしたら……いい? どうしたら、桜斗は自由になれるんだ」
「──自由?」
「いつまで、あいつにっ」
 男に肩を掴まれただけで、桜斗は一瞬にしてあの日の悪夢に引きずり戻されたのだ。あの男の影が、まだ色濃く桜斗の心を蝕んでいる。あの男が檻の中だろうが地獄の底だろうが、桜斗は囚われたままなのだと思うとぞっとする。
 桜斗は俯き、苦笑した。白い息を吐く唇が弧を描く。
「……知らないからだよ」
「……え?」
「あの日のこと……5年も経つのに引きずってるなんて、おかしいって思ってるんだろ?」
 ひゅ、と草太は息を飲んだ。思ってない、思ってない、けど。でもどこかで、少しずつ傷は癒えていると、そう信じて──期待、して。
「今でも時々、あいつ……あの男が……夢に出てくる。今朝も、見たんだ……夢」
 ぞわ、と全身に鳥肌が立ったのは、草太もまたあの日のことを思い出したからだ。
「俺があいつにどんな……こと、されたか、草太は知らないから……だからそんなことが言えるんだよ」
 桜斗は、草太があの時の映像を見せられたことを知らない。
 全てではないけれど、あの男が桜斗にした非道な行為の一部。桜斗の苦しげな泣き顔が、悲痛な叫び声が、草太の頭にフラッシュバックする。
 そうだ──草太は思う。草太は初めからそうなるように仕向けた。あの男をハメるために罠を張り、陥れた結果だ。そして自分が受けた行為も、どこかで桜斗が受けた傷に置き換えることで、自分の身が被った苦痛を逃していた。草太が自身の心を守るために、それは無意識にされたことだろう。桜斗と同じ傷を負うことが、彼を助けられなかったことへの贖罪になるようにさえ感じていたから。
 でも、桜斗は違う。
「……身体、触られただけじゃないんだ」
 桜斗はようやく聞こえるくらいの小さな声を震わせながら、絞り出すように言った。
「もっと、ひどい……口にできないくらい汚らわしいことをされたんだ。忘れたいけど、忘れられない。どうしたって、なかったことにはならないんだ」
 洗っても洗っても落ちない、そう言って泣いた桜斗の姿が蘇る。神経質に手を洗い、自分の体臭を気にして、草太のプレゼントしたサシェを「お守り」と呼んだ。
「いつまでもうじうじして、子供みたいかな。男のくせに、減るもんでもないのに? でも、俺は減ったよ。自分の身体が、……心も、粉々になった。今の俺はただその塵を掻き集めて、人の形をしたボロ袋に無理矢理詰め込んでるみたいだ。……いつも、立ってるだけで精一杯だよ」
 桜斗は、瞳を潤ませはしてももう泣かなかった。口元に無理矢理笑みを刻んでいるのがかえって痛ましく、何かを諦めたみたいに見える。
 震える唇から、掠れた声が溢れる。
「あの日からずっと、考えてる。何で俺だったんだろうって……あいつの言う通り、俺が、……俺の言動が、引き金になったのかもって」
「そんな……そんなバカなことあるか!」
「でもあいつのこと、父親みたいだって憧れて、信じてたんだ。バカみたいだけど」
 それこそがあの男の狡猾な罠だった。最初から、父親の愛に飢えた少年達を狙った犯行だった。
 しかしそれを桜斗に説明することはできない。桜斗は何も知らない。草太が桜斗の辱められる姿を見てしまったことも、復讐のために草太があの男に身体を開いたことも、桜斗を守るために手を汚したことも、何もかも。
「誰なら信じられるのか、俺にはもうわからないんだ」
 嘘に塗り固められた自分を信じてくれなんて、とても言えない。ただでさえ薄氷の上に立っているような桜斗に真実を打ち明けるなんて、とてもできない。そんなことをすれば2人して冷たい水の中に沈むだけだ。
「昔はもっと自分のことを好きだったと思うけど……もう、あまり大切に思えない。今はほとんど母さんのために生きてるよ」
 草太はぎゅっと拳を握る。桜斗の言葉は、婉曲ながら死の匂いがした。どうして、もうきっと平気だなんて思えたんだろう。自分の能天気さに嫌気が差す。
 不意に襲ってきた喪失の予感が怖くて、草太は頬を濡らしたまま桜斗に歩み寄るとガラス細工に触れるようにそっと彼の肩に手を伸ばした。桜斗が逃げないことを確認しながら、彼の腕をなぞりぎゅっと手首を握る。
 桜斗は逃げなかった。けれどその薄い身体は草太の思いを拒絶するように緊張し、悲しいほど強張っていた。
「さく、」
「ごめん。できる限りの努力はしてるつもりなんだけど。……でも俺、多分もう草太が知ってる頃の俺じゃない」
 そう言って薄く笑む桜斗の手首は折れそうなほど細く、冷たかった。草太の体温だけでは、とても温められないほどに。


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