Long StoryShort StoryAnecdote

Disguise / Disclose


5.

 人のいなくなった年末のオフィスビル。清掃のアルバイトを終えた桜斗は、業者用のICカードをセンサーに翳した。
「……あれ?」
 ピピピッというエラー音が沈黙に響く。何度やっても同じだった。どうやら入室記録が正しく認識されていなかったらしい。
「困ったな……黒岩(くろいわ)さん、早く戻って来てくれないかな」
 夜間シフトは日中よりも時給がいいから隔週で入れるようにしている。2人1組での退出が決まりだ。今日は黒岩という青年とペアのシフトだった。
 年は20代後半、どこかスレた雰囲気のある黒岩は、ジロジロと人を値踏みするような視線を送る癖がある。あの何かを探るような目つきが苦手な桜斗は、彼の帰りを待ちながらもそっと溜め息をついた。
 内線で警備室に電話をする手もあるが、この時間のヘマで顔を覚えられるのは得策ではない。オーナーに告げ口をされたら夜間シフトを入れてもらえなくなる懸念もあった。もう少し黒岩を待つべきか。
 桜斗は近くにあった椅子に腰掛けた。時計は22時半を指している。日付が変わる前に帰れるだろうか。母親は寝ていてくれるといいけれど。

 アルバイトをするのを、桜斗の母親はあまりよく思っていないようだった。成長期に部屋にこもりきりだった一人息子のことを案じているのだ。
 桜斗の母親は、息子の身に起きたことを仔細には知らない。中学生の頃、クラスでいじめにあったという話には半信半疑のようだったが、今にも壊れてしまいそうだった息子に根掘り葉掘り問い詰めるようなことはしなかった。
 祖父母と亡夫の残したささやかな遺産があるとはいえ、女手ひとつで息子を育てるのに必死だった彼女が、心を閉ざした一人息子に真正面から向き合うことは難しかったのだろう。
 そのことを桜斗は責めない。そっとしておいてくれたことは、かえってありがたかった。本当のことを打ち明けることなど到底できなかったから。
 心臓を抉られるような屈辱からはもちろんだが、教師があんなことをしたなんて誰に話しても信じてもらえると思えなかった──桜斗自身が信じられなかったのだから。ひどい辱めを受けた末に、虚言癖のそしりを浴びるなんて耐えられない。さらに、もしこのことを母親が知ったら自分以上に悲しみ、苦しむだろうことも。
 もう20歳になったのだからと説得して、夏休みからビル清掃のバイトを始めた。不安なことも多かったけれど、仕事自体はさして問題なくこなすことができたし、日中は高校生や主婦が多く交流に煩わしさもなかった。何より、あの事件で人並みの自尊心を踏み躙られてしまった桜斗にとっては、仕事を達成できることはささやかな自信や励みにもなった。
 ……でも。

「……疲れたな」
 ポツリ、思わず声に出した途端、足や腕が殊更怠く感じる。桜斗は天井を仰ぎながらキィ、と椅子を回転させて深く息を吐いた。
 1週間前の忘年会での失態は、まだ少し尾を引いている。あれからというもの、またいつパニックに陥るだろうかと不安を拭えずにいる。
 大柄な男が近くに来ると、自然と身体が緊張し胃の辺りがきゅっと痛んだ。夜の眠りは相変わらず浅い。悪夢に魘され、身体を硬直させたまま目覚めては吐き気を催す朝も未だにある。無意識にいつも気を張っているのか、安らぐ暇がない。疲れがとれない。
 それから──桜斗が唯一心の拠り所にしていた友人、草太のことも胸に引っかかっていた。
 あの夜はだいぶ酔っていたのだろう、いつになく取り乱し涙まで見せた草太に、桜斗は少し驚き圧倒もされた。
 ──どうしたら、桜斗は自由になれるんだ。
 ──いつまで、あいつに。
 言われて気付いた。いや、わかっていたのに目を背けようとしていたのかもしれない。いつまで、なんてない。終わりのない闇に囚われて、ここから這い出ることなんて一生ないのだ。
 好きな人に想いを馳せる草太が遠い世界の人に感じられ、また、寂しさのような嫉妬のような、言い知れない苛立ちを感じて思わず八つ当たりのような恨み言を連ねて反論を奪った。それくらい許されてもいいだろうという、桜斗の甘えだ。
 けれど今は後悔している。あんなこと言わなければよかった。草太が自分のためにいろいろと尽力してくれていることはわかっているのに。
 どんな顔をして会えばいいかわからなくて、あの日以来草太とは連絡を取っていない。
 年末年始はバイトのシフトを多く入れてなるべく考え事をしないようにしていたが、年内の仕事も今日が最終日だ。疲労が肩に重い。

 その時、明かりの消えていた会議室のドアが開いて、驚いた桜斗はガタンと椅子から飛び上がった。
 中から出てきたのはひょろりと背の高い中年のサラリーマンだった。年は母親と同じくらいだろうか。ノーネクタイに少しよれたシャツは居眠りでもしていたのか、白いものの少し混じった髪が乱れている上に、左頬には腕時計を押し当てていた跡が残っている。
「あれ、バイトくん? まだいたの」
「は、い。すみません、居室の外に出られなくなってしまって……もう1人バイトがいるんで、戻って来るのを待っていたんですが」
「ああ、ロックかかっちゃったのか。俺もよくやるんだよな」
 男は桜斗の横をすり抜けるとカードを翳した。ピッと音がして施錠が解除される。
「はい、どうぞ」
 エスコートするように恭しく腕を広げ、軽くおどけたお辞儀をする。男が首から提げたICカードが揺れた。
 カードには、今よりも少し若い印象の顔写真と、「新美 貞晴(にいみ さだはる)」というゴシック体が並んでいる。
「すみません、どうもありがとうございます」
 桜斗はペコリと頭を下げるとそそくさとオフィスを出ようとした。
「あ、ちょっと待って!」
 呼び止める声に桜斗は廊下側でドアを押さえた。新美は踵を返すとオフィスに戻り、何か抱えて戻って来た。
「これ、うちの試供品なんだけどよかったら飲んで。年末の在庫処分。もう1人の人の分も」
 そう言って渡されたのは缶コーヒーだった。
 バイトを始めて3ヶ月だが、こんなことは初めてだ。納得のいく賃金は支払われているが、気持ちを労われたことが嬉しかった桜斗は頬を上気させた。
「ありがとうございます」
 顔の半分を覆っていたマスクを引き下げて、改めて深々と礼をする。顔を上げると、新美は眠そうな顔をしつつも柔らかく笑った。
「どういたしまして。いつもご苦労様」
「新美さんも、遅くまでお疲れ様でした」
 新美は一瞬不思議そうな顔をして、桜斗の視線を追うと自分の身分証明に気付く。ああ、と得心した顔で苦笑した。
「この写真、入社以来変えてないんだ。20年も前のだよ。嫌になるよな」
「いえ、お変わりないです」
 入社して20年ということは、40代前半か。元が老け顔なのか、写真と比してそれほど大きく変わった印象はない。新美は体型が崩れた様子もなく、今の年齢からするとむしろ若々しい。
「君の名前は?」
 桜斗のカードは外来者向けで、管理番号だけが印字されている。身分証明の役目は果たさない。
「冬月です。冬月桜斗」
「サクト……どういう字を書くの?」
「桜に、北斗の斗で桜斗」
「へぇ、綺麗な名前だね」
 曖昧な笑顔を貼りつけたまま、桜斗は固まった。名前に触れられると嫌な記憶が呼び覚まされる。
 新美も背が高い。今、手首を掴まれたらきっと動けなくなる。オフィスは薄暗く、このフロアには今や桜斗とこの男のみ。
「──あ、の……、お先に失礼します」
 桜斗はぎこちなく背を向けると早足に歩き出した。
「気を付けて帰れよ」
 背中に男の声を聞きながら、角を曲がると廊下を駆け出す。
 違う、あの人は変な意味で言ったんじゃない。わかっているのに、自己嫌悪と恐怖感がゾクゾクと身に染みていく。
 エレベーターが着くと、勢いよく中に駆け込んだ。しかし中から出てこようとした人に正面からぶつかり、胸に抱えていた缶がゴトンと転がる。
「っと! ……なんだ、冬月ちゃん」
「はぁ、はぁ……、くろ、……いわさん、」
「どうしたよ。もう終わったか? 忘れ物なきゃ、このまま降りるぞ」
「…… はい」
 掃除用具の入ったワゴン車を隅に押しやると、黒岩は桜斗の落とした缶を拾い上げた。
「何だ、コレ? 俺の分も買ってくれたの?」
「ここの会社の人が……試供品、くれて」
「ふーん、ラッキーじゃん」
 黒岩はもう一方の手で桜斗の腕を掴んだ。桜斗は咄嗟に身体を硬くするが、そのまま引き起こされる。
「何をそんなに慌ててたんだよ。まだ電車余裕あるだろ? オバケでも出たか」
「いえ……何でも、ないです」
 黒岩の手から逃れるように身を捩り、エレベーターの隅に身を凭せた。
 まだ鼓動が速い。1階までの密室が息苦しくて、マスクの上から口を覆う。ああ、なんてひどい匂いだろう──桜斗はぎゅっときつく目を閉じた。
 その時、ブゥン、と聞いたことのない大きな音がして地面が揺れた。
「な、何だ!? 地震か?」
 黒岩が早口に叫び身を低くする。元々壁に張りついていた桜斗も、頭を低くして天井を見上げた。気味の悪い揺れは数秒間続き、やがて収まると降下も止まっていることに気付く。
「おいおい、マジか……ちょっ、」
「あっ」
 焦った黒岩が階数のボタンを押そうとした時、照明も落ちた。
「はぁ? 冗談だろ。おい、ふざけんな。もしもし、おーい!」
 非常連絡用のボタンを押しながら、黒岩がインターホンに呼びかけるが応答はない。桜斗は苛立つ黒岩の様子に少しく恐れを抱きながらもその様子を見守った。
「ダメそうですか?」
「ああ……ったく、警備のオッサン仕事しろよ!」
 ガンッ、と扉を蹴りつけると、黒岩はドカリと床に胡座をかいた。
 桜斗はそろそろと立ち上がると操作盤をいじってみたが、ボタンは反応しない。インターホンはサー、という音が聞こえるが、呼びかけても応答はなかった。通話口の向こうに人がいないようだ。
 どうすることもできないまま、暗闇に目が慣れてきたことに気付くと腕時計を見た。時刻は23時に近付こうとしている。
 スマートフォンはロッカーの中だ。黒岩にも確認したが同じだという。
「参ったな……」
 黒岩の低い声が思ったより近くで聴こえて、桜斗はぎょっとした。
「マズいぞ。ここ、ビルの外壁寄りだろ? あんまり長時間閉じ込められたら凍え死んじまう」
 作業着はオレンジのつなぎに、中はTシャツ1枚。動いている間は寒さを感じなかったが、確かにエレベーターの中は肌寒かった。凍死とまではいかないだろうにしても、一晩耐えるのはそれなりに覚悟が必要だ。
「なぁ、隣行っていいか? 俺、寒いの苦手なんだ」
 桜斗の返事を聞く前に、衣擦れの音がしたと思うと人の気配がより近くなった。黒岩の爪先が桜斗の踵に当たると、黒岩は手を伸ばして桜斗の肩を掴んだ。桜斗は悲鳴を飲み込む。
「悪いな」
 言って、黒岩はピタリと隣に身を寄せる。桜斗は返事もできず押し黙った。
 狭い密室空間。暗闇。人の体温。呼吸。ますます自分の体臭が強くなったように感じる。
「はー、でもよかった。今日のシフト冬月ちゃんとで。オッサンと閉じ込められるのはマジ勘弁だわ」
 黒岩は、桜斗の首筋に鼻を寄せスン、と鳴らした。
「お前、いつもいい匂いするよな。なんかつけてんの? 香水?」
「え……な、にも……」
 喉が強張って声が出ない。黒岩が不審そうにしているような、妙な間があった。
「何だよ、愛想ねーなぁ。いつまでかかるかわかんねぇんだ、仲良くしようぜ」
 黒岩は手を伸ばすと指を桜斗のマスクのゴムに引っ掛けた。するりと外され、顎を掴まれると無理矢理黒岩の方を向かされた。桜斗は胃がきゅっと緊張するのを感じる。
「冬月ちゃんてさぁ、細っこくていい匂いして女の子みたいだな。ジェンダーレス男子っての?」
 黒岩の手が桜斗の頬を撫でた。桜斗は目を見開き、次いで黒岩の顔を凝視する。薄闇に、炯々と光る探るような目。
「何を……」
「何って……?」
 男の手がするりと首筋を辿り、襟首を割って直接肩を撫でる。桜斗は愕然とした。声にならない叫びが喉を締めつける。
 どうして──自分にどういう落ち度が? 外見か、ふるまいか。色白だとはよく言われた。赤面症だという指摘も。ジェンダーレス? 母親譲りの女顔や、食べても肉のつかない身体のせいか。
 黒岩は桜斗の正面に回り込むともう一方の手を壁につき、桜斗の退路を塞ぐように壁際に囲う。元よりここは密室だ。逃げ場などない。
「俺、前から冬月ちゃんのことちょっと気になってたんだよね」
「ぁ……」
「なぁ、どうよ?」
 耳元で囁かれ、桜斗はぞわと鳥肌を立てた。指先が冷たい。その手を握り締められる。
「手、冷てぇな。……震えてる。怖いか? 俺も暗くて狭いところは苦手でさ」
 ペラペラと喋りながら、黒岩は桜斗の顔を覗き込んでくる。
 離して、と言いたいのにカラカラの喉からは声が出ない。さっきからいつもより呼吸が速いのか、息が苦しい。ヒュ、ヒュ、と掠れた音がしたかと思うと、息が吸えなくなる。桜斗は自身の喉を押さえ蹲った。
「はっ、……はぁ、はっ、……はっ、ひっ」
「冬月ちゃん? おいおい、どうし……」
「はっ、はぁ、はぁ、はっ……ぁ、」
「お、おいおいしっかりしろよ、おい! 何だ、過呼吸ってヤツか?」
 眠っている時になることはたまにあった。そういう時はただひたすらじっとして、発作が落ち着くのを待てばいい。そのはずなのに、焦れば焦るほど呼吸は狂っていく。
 男の手が背中に触れている。あの時の匂いが鼻腔に充満した気がして、吐き気さえ催してきた。
 縋るものもなく、桜斗は黒岩の袖口を掴んで胸を上下させると、ゴトン、と肩から倒れ込んだ。
「冬月ちゃん! 悪かったよ、変なこと言って……なぁ、冬月!」
 黒岩が呼びかける声を遠くに聞きながら、桜斗は思った。
 もう、どうでもいい。このまま目が覚めなくても。ただ静かに眠りたい。
 そう願いながら、桜斗は意識を手放した。


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