Long StoryShort StoryAnecdote

Disguise / Disclose


6.

「……すから、ええ。目が覚めたらわたしが責任を持ってお宅までお送りします。どうかご安心ください」
 薄っすらと目を開ける。見たことのない天井だった。
 桜斗はゆっくりと瞬きをすると首を動かし辺りを見回した。そして少しずつ、自分がどこにいるのか、どうしてここにいるのかを思い出す。
 ここは警備員の常駐する事務所の中、ベンチソファに寝かされているらしい。電話をしているスーツの男の横には、腕組みをした老年の男が迷惑そうに桜斗を睥睨していた。思わず桜斗はガバリと身を起こす。
「あ! 目が覚めたみたいです。お電話、代わりましょうか」
 スーツの男……ああ、さっき缶コーヒーをくれた人だ、とは思ったがとっさに名前が出なかった。
 男は通話中のスマートフォンを桜斗に差し出した。それは桜斗のものだった。
「勝手に申し訳ないけど、手荷物を見せてもらった。ご家族がいれば連絡した方がいいと思ったんだ。ご自宅にかけたらお母様がいらしたから」
 桜斗はあやふやに頷くとスマートフォンを受け取る。目の前で揺れる社員証を見て──そうだ、新美さん。思いながら通話口に息を漏らした。
「……もしもし。か、さん?」
『桜斗!? 大丈夫なの!?』
 緊張した母親の声に、まだぼんやりしていた桜斗は背筋を伸ばす。同時に、日常に戻って来た感覚に安堵もしていた。
「あ……うん、へいき」
 それでも声は震え、掠れていた。
 それに、微かに痛む肩や腕をその時初めて意識した。倒れた時に打ったのかもしれない。途端、密室の息苦しさを思い出して息が詰まる。
『新美さんていう方が車でうちまで送ってくださるって言うけど、お母さんそこまで迎えに行こうか?』
 平気、ひとりで帰れる。返そうとしたのに、うまく声が出ない。
 は、はぁ、と妙な呼吸をすると、新美が手を差し出した。見上げると、彼は桜斗の不安を鎮めるような穏やかな笑みで首を傾げた。代わろうか? というジェスチャーに、桜斗はコクンと子供のように頷いてスマートフォンを差し出す。
「あ、すみません新美です。たった今起きたばかりで、先程は過呼吸を起こしていたらしいのでまだうまく話せないようです。それは、ええ、社用車がありますのでお構いなく。いえ、はい。はい、それでは近くなりましたらご連絡します。はい、失礼します」
 新美はスマートフォンを桜斗に返しながらしゃがんで膝をつくと、桜斗の顔を下から覗き込んだ。
「もう少しここで休んでいくかい?」
「困るよ、最終日だってのにまったく。派遣元には連絡させてもらうからね」
 後ろから警備員の男がイライラとした様子で言うと、新美は苦笑しながらまぁまぁ、と宥める。
「やっさん、今度またお酒持って来るから今回は許してよ。この子だって事故の被害者なんだからさ」
「酒って、どうせまた試供品だろ?」
 ブツブツと言う男を尻目に、新美は桜斗に向き直るとくしゃりと笑った。
「君は何も心配しなくていい。さっき地震があって、エレベーターが止まってしまったんだ。ここのはだいぶ古いからね。それで、君ともう1人のバイトの彼は中に閉じ込められてた。俺もあの後すぐに帰ろうとしたからそれに気付いてさ。もしかしたらと思って、やっさん――あのおじさんに聞いたらまだ君達は帰ってないというから、すぐにエレベーターの管理会社に連絡してもらったんだ」
 思ったよりも大袈裟な救出劇になってしまったのかと、桜斗は恐縮した。胸元を押さえながら、何とか声を絞り出す。
「ご迷惑を、おかけ……して、すみ……ません」
「無理に喋らなくていいよ。もう1人の子もパニックになってた。真っ暗な狭い箱に閉じ込められて怖かったろう?」
「くろ、いわさん、は……」
「もう1人の彼だよな? 君の荷物をここに運ぶのは手伝ってくれたけど、バイクで来てるとかでさっさと帰っちまったよ。薄情なヤツだな」
 あの後──桜斗が気絶した後、どのくらい中にいたのだろう。時計はもう午前になっていた。あの後新美がすぐに追って来たというならそう時間はかからなかったのかもしれないが。
 桜斗は黒岩の手の感触を思い出してぎゅっと自分の身体を抱き締めた。また、自分の体臭がむっと濃くなった気がする。
「マスク……」
「ん? ああ、息苦しいかと思ってはずしたんだ。君の胸ポケットに入れてある」
 桜斗はたどたどしい手つきでポケットを探ると目当てのものを見つけ口元に当てた。
「……顔色が悪いな。早いところおうちへ帰ろうか。おおよその道はお母様に伺ったけど、近くなったらナビゲートしてくれるかい?」
 手を差し出されたが、桜斗は頷くだけでその手は取らなかった。新美は気にした風もなく、手でポンと自身の腿を叩くとその勢いですっくと立ち上がる。
「それじゃやっさん、ごめんね。お先に……よいお年を」
「おう、お疲れさん。気ぃつけてな。よいお年を」
 やっさん、と呼ばれた警備員は存外愛想よく右手を上げた。

 社用の白いワゴン車は、後部座席は段ボールや何か、雑多なものが積まれている。
 新美は助手席のシートをできる限り寛げると、桜斗に乗車を促した。
「ちょっとタバコ臭いかもしれないけど、我慢してくれ。俺は吸わないんだけど営業の奴らがさ。ま、1時間もかからないと思うから」
 桜斗は恐る恐るシートにかける。ドアの閉め方がわからずにいると、新美が隣から身を乗り出して閉めてくれた。覆いかぶさられるような体勢に胃がキリ、と痛んだ。
 また、密室だ。
 でも、この人は大丈夫。さっきも看病してくれたし、わざわざ家にも連絡をしてくれた。まっとうな大人だ。大丈夫、大丈夫。そう自分に言い聞かせる。
「シートベルト締められる?」
 言われ、やってみるが震える手に力が入らない。新美は横から手を伸ばすとそれも面倒を見てくれて、桜斗は情けなさに涙が出そうだった。
「じゃあ、出発進行。寝ていても構わないよ。近くなったら起こすから」
 疲れていたが、身体は緊張して眠れそうにない。桜斗はぼんやりと窓の外の流れる夜景に視線を投げた。
 バイトは続けられるんだろうか。続けられるとしても、また黒岩と顔を合わせるのかと思うと憂鬱だった。
 あの時、彼がどういうつもりだったのかはよくわからない。桜斗を絶望に突き落としたあの男ほどの狂気は感じなかったが、それでも自分に向けられたあのドロリとした感情への嫌悪感は拭えなかった。
 窓に映るくたびれた自分の顔を見つめる。
 ──冬月ちゃんてさぁ、細っこくていい匂いして女の子みたいだな。
 言われた言葉に傷つき、苛立つ。他の人と何が違う? 変わらない。そのはずなのに──あるいは、臭いが。あの時の臭いが染みついているから。電車の中で悪戯を働いた男もいたが、ああいう種類の人種には気づかれてしまうのか。
 ──この子だって事故の被害者なんだからさ。
 何の気なしに言ったであろう、新美の言葉も桜斗の心を引っ掻いた。
 被害者。被害者という言葉が、桜斗は嫌いだ。弱い者、虐げられた者、受動的で盾を持つことさえできない存在。1度深い傷を追った被害者は、そういう臭いを振り撒いているのか。
 けれど、「あの事件」の被害者として今に至るまで法的な場に名乗り出なかった罪悪感もある。そのせいで犠牲者は増えた。
 自分を被害者だと認めたくない。被害者だと認められる資格もない。
 それにあの男は言ったのだ。さんざんに桜斗を苦しめた後、嘲るような笑みを浮かべて、お前も同罪だ、と。
 ──桜斗、お前も感じてただろう?
「桜斗くん」
 不意に名前を呼ばれて桜斗はビクンと肩を揺らした。
「あ、ゴメン。寝てた?」
 すまんすまん、と新美はのんびりとした声で言った。
「いえ……」
「具合どう? 何か飲むか?」
 桜斗はフルフルと首を振った。
 そうか、と言いながら新美はチラと桜斗に視線をくれる。
「まだ顔色が悪いな。大丈夫?」
「……大丈夫です」
「やっさんの言ったことなら気にしなくていいよ。上にチクるようなこと言ってたけど、アレはやっさんなりのユーモアだから」
 あの顔で言うから冗談に聞こえないよな、とおかしそうに笑う。
 派遣元に報告する、と言っていた話のことか。桜斗は少しほっとしたが、黒岩の顔がよぎってマスクの下の顔を曇らせる。
「さっきの、クロイワ? て人だけど」
 心の内を読んだかのように出た名前に、桜斗は目を見張った。
「彼に何かされた?」
「え……、」
 ゾワ、と鳥肌が立った。
 目が覚めた時、衣服は乱れていなかったが、救出されるまでの間に何もされなかったと言えるだろうか? 桜斗は着替えそびれたつなぎのファスナーを少し上げる。
「あ、いや……気を失ってる君の耳元でさっきのことは忘れろとか誰にも言うなとか、物騒なことをコソコソ言ってたからさ。いじめられてるのかと思って。悪い、詮索するつもりはなかったんだけど。言いたくなかったらいいんだ、ごめん」
 桜斗が押し黙っていると、新美はそれ以上何も言わなかった。
 生きづらさを、息苦しさを、誰かにぶちまけてしまいたい。人目も憚らず泣き喚いて、怒鳴り散らしてすべての感情を吐露してしまいたい。
 思うけれどそれはできない。そうなった時、もう自分は人ではなくなってしまう気がする。
 夜景が滲んで、自分が涙目になっているのがわかった。零れないようぎゅっと息を止めて、瞬きを多くする。
 窓の外に視線を投げたまま口を開いた。
「あの、俺……どこか、変に見えますか?」
「え? 変って?」
「……見た目、とか……喋り方とか、仕草とか」
「いや。どうして?」
 信号で止まると、横を救急車が走り抜けた。新美が自分の方を見ている気配を感じたが、桜斗は振り返らず独り言のように言った。
「不格好で、嫌になる……」
「そんなことはない。俺には礼儀正しい好青年に見えるよ」
 慰めの言葉を強いたようで恥ずかしかったけれど、新美はそれ以上何も言わなかった。桜斗もそのまま黙したが、その後の沈黙は決して居づらいものではなかった。

 無言の車は40分ほど大通りを走ると、住宅街に入った。新美に促されて自宅に電話をすると、午前1時近いというのに母親はワンコールですぐに出た。家の前に出て待っていると言う。
「あれかな?」
 新美は言うと、玄関口に懐中電灯を持って立つ小さなシルエットの前でスピードを落とした。
 桜斗の母親は寒空の中、ダウンコートにサンダル姿で立っていた。手庇で車内に息子の姿を認めると、少し行き過ぎた車のドアに駆け寄りしきりに頭を下げる。
「すみません、冬月桜斗の母です!」
 ドアの外で声を張る母親に、新美は車内で会釈した。窓を開ける。
「遅くなりました。先程お電話した新美です」
 道路脇に車を寄せると桜斗に「ご挨拶してくるからまだ座ってて」と言い置いて、窮屈そうに畳んでいた足を外に伸ばした。
「こんばんは。新美と申します」
 さっと名刺を差し出すと助手席を指差して、すぐに戻ってくると外側からドアを開けた。
「お疲れ様」
「どうも、ありがとうございます」
 ペコリと頭を下げると、新美はさり気なく桜斗の背に手を回して母親のところまでエスコートした。
 触れられても、嫌な感じはしなかった。むしろ何か懐かしいような……そう、記憶の中に薄っすらとある父親のような大きな安心感。
「桜斗」
 母親は息子の肩に手を置くとその顔を覗き込んだ。
 少し身長の伸びた桜斗より頭ひとつ分は小さい。小柄な彼女が寒い中不安を抱いて一人待っていたのかと思うと、チクリと胸が痛んだ。
「……ただいま」
「おかえりなさい。大丈夫? エレベーターに閉じ込められてたって聞いて、ビックリしちゃった」
「心配かけてごめん」
  母親は首を横に振りながら桜斗の頬に触れた。
「顔色が悪いわね。それにずいぶん冷えて……お風呂沸かしてあるから、温まって早く寝なさい。その前にほら、お礼して」
 桜斗の身体を反転させると親子で新美の前に並ぶ。
「この度はご親切にどうもありがとうございました。なんとお礼を言ったらいいか……こんな遅くまでご面倒をお掛けしてしまって」
「いやいや、お気になさらず。会社で朝を迎えるよりはずっと健全です」
 新美はにこやかに笑って手を振る。
 と、母親が口元に手を当てた。それからポケットにしまっていた名刺を取り出し、暗闇の中で目を凝らす。
「あの……違ったら申し訳ないんですけれど……新美さんて……新美先輩?」
「──ああ。俺も、もしかしたらと思ってたんだけど……菫ちゃん? 真島菫(まじま すみれ)さん?」
 菫、とは母親の名前だ。真島は旧姓。
 桜斗は目をパチクリさせた。
「やっぱり! どこかで見たことがあると思ったら……こんなことってあるのね」
「いやぁ、本当に。何年ぶりだろう……20年は経ってるか。ははは」
 急に親しげな様子を見せる2人に桜斗がきょとんとしていると、菫が新美に確認を取るよう目配せしながら言った。
「お母さんの高校の頃の先輩。お父さんとも親しかったのよ。ねぇ?」
「そう。克哉……君のお父さんとは同級生、中学から一緒だったんだ。そうか、2人の……。もうこんなに大きなお子さんがいるんだなぁ」
 新美は面映いような優しい笑みを浮かべると、桜斗の頭のてっぺんから爪先までじっくりと検めた。桜斗は気恥ずかしくなり、チラと母親の顔を見た。
「仲がよかったの?」
「そうね。お母さんもお父さんも新美さんも、生徒会で一緒だったの。お父さんと新美さんは、それこそあなたとそうちゃんみたいに仲良しだった」
「え……」
 不意に出た友人の名前にドキリとする。今、草太に後ろめたさを抱えている桜斗は少し寂しさを覚える。
「懐かしいな。……克哉が亡くなったのは聞いているよ。葬儀には出られず申し訳なかった」
「いいのよ。急なことだったし……」
 菫は何人かの友人の名前を挙げ、みんながいろいろと面倒を見てくれたから、と話した。
 その頃のことは、桜斗も幼いながらに薄っすらと覚えている。まだ幼稚園に入る前、3歳くらいのことだと思うが、父親のいなくなった家に黒い服を纏った大人達が何人も訪ねて来たことがある。
 桜斗の父は特に大きな病気もしたことがなかったが、虚血性心不全でまだ28歳という若さで亡くなった。
 当時、桜斗は父親の死をまだよく理解していなかったが、大人達はみんな残された母子を心配し、慰めの声をかけた。優しい人達だったと思う。思えば、大学を出てすぐに子供を生んだ母親は夫を亡くした当時、今の桜斗とそう変わらない年齢だったはずだ。
 新美に対してどこか懐かしいような親しみを感じたのは、新美の持つ雰囲気もあの時あの場にいた優しい大人達や、両親と似たものを持っていたからかもしれない。
「あの……もしよければ、今日はうちに泊まっていきませんか?」
 不意に、そんな言葉が桜斗の口をついて出た。
 新美の勤めているビルは今日から休館になる。車は返しに行かなければならないかもしれないが、一晩ゆっくりしてもいいはず。何にせよ、このまま帰すのはあまりに忍びない。
「いいでしょ、母さん」
「いや、しかし車が……」
「ご迷惑でなければわたしからもお願いします。駐車場ならそこを曲がったところにあるし、駐車代金もうちが持ちます。主人の部屋が空いているから……どうかしら」
「いや、ううん……そうか、そうだな……。それじゃあ、克哉にお線香を上げさせてもらえるかな」
「ぜひそうして。大したおもてなしはできませんけどね」
 菫はそう言うと桜斗を家の中へ促し、新美に駐車場を案内した。下着や歯ブラシなども買って来るという。
 風呂には先に入ってもらおう。思い、桜斗はバスタオルや祖父の残した着物を見繕うと脱衣所のバスケットの中に用意する。
 一旦自室に下がり部屋着に着替えると、戻って来る2人を玄関で迎えた。
 胸がドキドキしていたが、嫌な緊張感ではない。自分から、よく知りもしない人を内側に迎え入れる。そうしたいと思えていることに、桜斗は喜びを感じていた。
 結局自分はやはり、大人の男に憧れや安心を求めてしまうところがあるのだろうか。そこには昔抱いたような純粋な思慕だけではない、警戒や不安、恐怖がつきまとっている。それなのに──バカじゃないかと囁く自分も自覚している。でも……どこかでまだ、自分の人生を諦めたくない気持ちがあるのかもしれない。
 ──どうしたら、桜斗は自由になれるんだ
 草太の問いの答えはわからない。一生自由になんかなれないんじゃないかと思う。あの時は本当にそう思ったし、捨て鉢な気持ちで苛立っていた。元には戻れないのはわかっているけど、今の自分をいい方向に向けることはできるんじゃないのか。
 そう思えたのはもしかすると、母親の和らいだ顔を久しぶりに見たからかもしれない。桜斗のことを気遣う彼女は、いつもどこか不安そうで、桜斗に笑いかける時も努めてそう見えるように振る舞っている気がしていた。
 新美は桜斗と、そして桜斗が今1番大切にしている母親にも安心感を与えてくれた。
 この人から、また人を信じられるようになるだろうか。……そう、なりたい。ここからまた始められるかもしれない。
 くしゃりとした笑顔を見せる新美の穏やかな空気は、桜斗のそんな密やかな決意を励ましてくれているかのようにも思えた。
「何だかかえって申し訳ないな……夜分遅くに失礼。お邪魔します」
 菫と並んで入って来た新美はそう言って、長身を折ってこぺこと頭を下げた。何だか恰好のつかないその仕草も好ましくて、桜斗は母と、父の親友に向けて柔らかく微笑んだ。
「おかえりなさい」

2019/03/10


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