Long StoryShort StoryAnecdote

Disguise / Disclose


7.

 白い息を吐きながら待ち合わせの神社の境内にやって来た草太は、桜斗の隣に春日も並んで佇んでいることに少しがっかりした。どうやらこの場に誘われたのは自分だけではないらしい。

 年明けまでの1週間、草太からは桜斗に連絡を取らなかった。
 イブの夜にみっともなく泣き喚いてバツが悪かったのもあるが、勢いのまま桜斗に好きだと告げてしまったこともある。もっとも、桜斗の方は深い意味には受け取らなかっただろうけれど、二日酔いの頭痛に苛まれながらひどく後悔したのだった。
 期待していたようには桜斗からの連絡もなかった。年が明けるまで悶々とした日を過ごし、意地になって除夜の鐘が鳴る前に布団に潜り込んだ。
 翌日、昼頃に新年を迎えた草太は、桜斗から受信したメッセージに飛び起きた。
 しかしその文面は至って通常運転で、年末のことにも触れずに新年の挨拶と、干支の動物をデフォルメしたキャラクターのスタンプが送られてきただけだった。
 拍子抜けしながら返信の言葉を探す画面に、次いで桜斗の方からメッセージが届いた。
『明日、初詣に行かない?』
 当然、草太に断る理由などない。

 先に来ていた桜斗は、ベージュのダッフルコートにグレーチェックのマフラー、手袋と完全防寒の出で立ちだったが、その鼻先を赤くしている。
 隣の春日はキャップをかぶり、スカジャンから中に着た赤いパーカーのフードを覗かせた軽装で、ダボついたジーンズを履いた長い足を持て余すようにガードレールに座っていた。
 何だか不釣り合いな取り合わせの2人に、ファーのついたモッズコートに黒のスキニーパンツの草太が駆け寄る。
「お、来た来た! 秋山、明けましておめでとうございまーす!」
 最初にそう言ったのは春日だった。続けて桜斗が口元のマフラーを下ろし、「草太、今年もよろしく」と白い息を弾ませ、草太もそれに重ねる。
「急に呼び出してごめん。予定、大丈夫だった?」
「ああ、俺は別に……年始なんていつもくだらないテレビしかやってないし」
「だよなー! 俺もサークルもバイトもないし本当にヒマでさぁ。身体なまっちまうよ」
 などと言いながらも、春日は大きな体躯をピョンピョンと跳ねさせる。
「新年早々うるさいな、お前」
「秋山は今年も俺に冷たい……」
 草太は苦笑した。
 忘年会のひと騒動の後、春日には甘えている。照れ隠しと謝意の代わりに、草太は春日のバスケットシューズの先を軽く蹴飛ばした。
「じゃあ、行こうか」
 桜斗に促されて、3人は歩き始めた。
 天気はよく、キンと冴える乾いた空気が気持ちいい。同じ方向を目指す着膨れた人の群れがどうどうと押し合いへし合い歩くのも、なんだか少し滑稽で愉快だ。
「冬月、はぐれるなよー」
 春日が桜斗の背後に回り、子供が電車ごっこをするように肩に手を置く。ほんの一瞬、桜斗の横顔が緊張したが、
「大丈夫だよ、春日が目印になるもん」
 そう言って、春日の方に振り向けた顔は笑っていたので草太は咎めようと春日に伸ばしかけた手を引っ込める。
 拝殿の前に着くと、横並びに並んだ。
 桜斗は何を願うのだろう。草太は手を合わせ目を閉じる。雑念が邪魔をする。
 自分はもう、神様にお願い事をできるような人間ではないのかもしれないけれど。草太は心の内で自嘲する。
 神様、どうか、桜斗の心がいつか晴れて、平穏でいられますように。
 俺のことはいい。今までしてきたことの分、神様が気に食わないなら地獄に落としてもらっても構わない。でも、どうか、お願いします──どうか。
 桜斗に大切な人ができて、その人と桜斗が幸せになれるのなら、その「大切な人」が自分でなくても構わない。
 でも、桜斗が苦しむのを見たくない。何故かはわからない。昔からそんな風に思っていたという確信もない。ただ、桜斗が傷つけられたことを知った時、自分の半身を焼かれたような、気が狂うほどの痛みと悔しさ、桜斗を苦しめた相手への激しい憎しみを感じたのだ。
 今、桜斗は無事生きていて、傍から見れば五体満足に見えるけれど、桜斗の言った通り、ある意味でかつての桜斗は永遠に損なわれてしまったのだ。
 腹の底に湧き上がるこのどす黒い思いは、守れなかった自分への苛立ちや罪悪感なのだろうか。

「冬月は何をお願いした?」
 拝殿から少し離れて人の波からはずれると、春日が言った。
 桜斗は笑い、マフラーで口元を隠すと「内緒」と言った。草太にはその真意はわからなかったが、知った風を装ってニヤと笑う。
「お前に言うわけないだろ」
「ひで〜なぁ! 俺は今年の夏大、優勝できますようにーってヤツだぜ」
 手を組み合わせて笑う春日に、桜斗の顔も綻んだ。
「そっか。今年も応援に行くね」
「おう! 俺と秋山でカッコいいところ見せてやるからな!」
「今年こそ優勝するよ」
 言って、春日と拳をぶつける。気が早いけれど、桜斗との未来の約束ができるのは嬉しい。
 桜斗は眩しげに2人を見て、それから言った。
「草太の願い事もバスケのこと?」
「俺は……俺も、」
 うんうんと頷いて見せたが、春日は「怪しいな」と目を眇めた。草太は無視を決め込む。
 境内を出た露店で甘酒を飲むと解散の雰囲気になったが、なんとなく離れがたく思っていると桜斗が呼び止めた。
「……あのさ。この後少し、話せるかな? もし都合がよければ、うちに来てもらってもいいかな。母さんは今日、仕事なんだ。三が日からなんて、スーパーも大変だよね」
 早口にそう言うのを春日は少し奇妙に思ったか、草太の顔を伺いながら口を開く。
「俺は構わないけど……?」
「できれば2人、一緒に来て欲しいんだけど」
 そう言われて、忘年会のことかもしれないと草太は思った。おそらくは春日も。

 道中、桜斗は年末にあった忘年会とは別のアクシデントについて語った。アルバイト中に地震に遭い、エレベーターに閉じ込められたという。
「ああ、あの日か……結構揺れたよな」
 地震がった時、草太は自室でテレビを見ていたが、そんな年の瀬まで桜斗がバイトをしているとは思いもしなかった。
「マジであるんだな、そんなのって」
「うん。ちょっと、大変だった。でも助けてもらったんだ。そこのビルに勤めていた人に。俺のこと、家まで車で送ってくれてさ」
 草太は眉を顰めた。
「大丈夫なのか、その人」
「え?」
 妙なことだが、桜斗は何かと標的にされやすい。同級生にいじめられたりするようなタイプではまったくなかったが、少なくとも桜斗が学校と電車の中で辛い思いをしたことを知っている。
「その、なんていうか……怪しい人とかじゃないのか?」
「それがね、母さんと父さんの高校時代の友達なんだって。すごい偶然だよね、驚いちゃった。父さんの親友で、俺と草太みたいに仲がよかったって……母さんの笑ってる顔、久しぶりに見たよ。俺、嬉しくてさ」
 桜斗の家に着くと、桜斗は玄関口に置いてあった紙片を取り上げ先の話を続けた。
「ほら、これがさっき言ってたうちまで送ってくれた人の名刺」
 「新美貞晴」と書かれた名刺には、確かに桜斗がバイトで通っていると聞いた辺りの住所が書かれている。飲料を扱う会社のようだ。
 名刺をまじまじと検分する草太の足元に、そつなくスリッパが並べられる。
「どうぞ。先に俺の部屋に上がっててよ。お茶を持って行くから」
 草太は春日を伴って階段を登ると、桜斗の部屋に入った。
 桜斗の部屋は相変わらず綺麗に片付いている。というよりも、どちらかというと無機質で殺風景と言ってもいい。壁面にポスターやカレンダーといったものはなく、ノートパソコンを置いたデスクや、ベッドまわりにも装飾らしいものは何もなかった。
 本棚は、中学卒業後の空白を埋めるために使われた参考書や何かが並べられているばかりで、趣味のわかるような書籍は見当たらない。
 元より承知していた草太はともかく、春日は話題に窮して所在なげに腕組みをしている。
「お待たせ」
 ドアの外で声がして、草太はドアを開けた。
 桜斗の指示で春日が折り畳み式のテーブルを出し、草太はクッションを並べると、桜斗はテーブルの上に紅茶の注がれたカップと茶菓子を載せた器を置いた。3人は思い思いに腰を落ち着け、ホットカーペットで暖を取る。
「わざわざ来てくれてありがとう。年越しちゃったけど、忘年会のことを2人にきちんと謝りたくて」
 思った通りの話題で、桜斗が切り出した。
「いいんだよ、あんなの。ただの飲み会なんだからさ」
 春日は大きな手を桜斗に向けて振った。そのまま、かぶっていたキャップのせいでぺったりとした髪の毛をくしゃくしゃと掻き混ぜる。
「なぁ、……変なこと聞いていいか? 答えたくなかったらいいけど」
 草太はピン、と耳を欹て警戒する野生動物のように素早く春日に視線を送ったが、表情を変えずにいる桜斗の反応を諾と見たらしい春日は続けた。
「冬月ってさ、過去に何かあったのか?」
 一瞬の間、春日は草太の顔をチラと伺ったが、桜斗の表情から気持ちをはかろうとしていた草太はそれに気付かない。
「あの飲み会でのリアクションとか、ほら、自臭症? とかもあるって言ってたろ。それに今だって、秋山の過保護ぶりは異常だ。さっきの、エレベーターの事故があって家まで送ってくれたって人に対して、大丈夫なのか、なんて……名刺までまじまじチェックして、まるで警察だ」
 草太はカッと顔が熱くなるのを感じた。春日の勘が鋭いのは何もスピリチュアル的なものじゃない。観察眼、洞察力から来るものだとわかっていたはずなのに、見咎められるような挙動をしていたことに自覚もなかったなんて。
「俺、勝手に家庭で何かあるのかと思ってたんだけど……そういうわけじゃなさそうだし」
 ぐるりと部屋を見回す仕草は、桜斗の暮らしぶりが貧しかったり、殊更常識を欠くような様相でないことを検めているのだろう。
 頭に血が上った草太は咄嗟に口を開いていた。
「俺が警察ならお前は探偵かよ」
「え?」
「桜斗、話さなくていい。こいつには関係ないだろ」
 驚き圧倒されている春日を尻目に、草太自身は自分の語調の強さに気付かないまま、桜斗にまでそう言い募る。
「草太」 
「春日には俺だって感謝してるよ、本当に。でもこれは俺の、俺達だけの、」
「……草太、」
 ハッとして身を固くする。
 桜斗の静かな黒い目に、落ち着くようじっと見つめられていることに気づくと、草太は恥じ入って口を閉じた。
「草太、これは俺の問題だよ」
 俯く草太の隣で、今度は春日がわたわたと顔を赤らめる。
「す、すまん冬月! 俺の悪い癖だ、すぐ勝手に勘ぐって……」
 しかし、桜斗だけは顔色を変えずにふるふると首を横に振ると落ち着いた様子で対座する2人の顔を順に見て、諭すように言った。
「いいんだ。2人に来てもらったのは、俺の話を聞いてもらいたかったからなんだ。草太には少しだけ話したけど、改めて聞いて欲しい。俺が自臭症だったり、引きこもりだったこと。忘年会でパニックになった理由」

 ……桜斗がすべてを話し終えた時──時計の針の音だけが妙に響くような沈黙がしばし続いた。色の少ない部屋に西日が黄金色を掃く頃、逆光になった春日の瞳には薄らと涙が浮かんでいる。
 早くに父親を亡くし、母親と2人で暮らしてきたこと。その間、草太とその家族の存在が大きな救いになったこと。中学が草太と別々になると、担任だった男性教諭を父親のように慕っていたこと。
 桜斗は抑揚もつけずにそれらの出来事を淡々と、他人事のように語った。最初のうちは春日も、これまでの答え合わせをするように途中で相槌や茶々を入れながら聞いていた。
 しかし中学3年の冬、放課後の視聴覚室で起きたことを話す時だけは、さすがに桜斗の口も重くなり、聞き手の2人は押し黙った。
 服を脱がされ、乱暴に組み敷かれて、恐ろしくてろくに抵抗もできなかった。泣いても叫んでも「それ」が終わることはなく、助けも来ない時間はひどく長く感じられた。やっと解放されると、桜斗は恐怖と混乱と嫌悪でぐちゃぐちゃになったまま、この家に逃げ帰って来た。5年前のことだ。
 その間、桜斗は俯き、自分を励ますように自身の手首をきつく握って辿々しく言葉を探しながら話した。
 春日は、立てた膝に濡れた目元を押しつけ、草太は膝の上に置いていた拳を固めた。わかっていても、もう1度桜斗の口からはっきりと聞かされるのは堪えた。
「……ずっと、生きた心地がしなかった」
 桜斗の一言に、重い沈黙が降りる。
 男は、桜斗に行為の一部始終を写真や動画に収めたことを告げて脅していた。心も身体も踏み躙られた桜斗が、辛い現実から逃避することも許されずに、脆く恥じらいやすい思春期の心をどれほど震え上がらせたことだろう。桜斗の言葉には一片の誇張もない。
「それからしばらくの間、家から出なかった。自分の匂いが気になるようになったのはその時から。幻臭……本当はしないはずの匂いで、気分が悪くなるんだ。潔癖症みたいなのも、その……自分の身体が自分のものじゃないみたいに感じられて……今はもう、そんなにひどくないけどね」
 言って、桜斗は苦笑した。
「その……犯人が、他の生徒にも同じことをして逮捕されたって、ニュースで見たのはそれから2年経ったくらい。草太が家を訪ねてくれて、その時に少し、今の話をした」
 母さんには何も言ってない、と桜斗は続ける。どうして、とは春日も言わなかった。
「だいぶよくなってるって、自分では思ってた。けど……忘年会の時、先輩に触られて、急にあの、時のこと思い出して、取り乱してしまった。2人には迷惑をかけたし、先輩やマネージャーの人にも……本当にごめん」
 春日は鼻を啜りながらブンブンと頭を振った。
「俺の方こそ……俺、無神経なこといろいろ言ったり、聞いたりしてたよな。悪かったよ」
「いいんだ、わかりっこないんだ、こんなこと。というか、誰にでも知られたら困るし」
 顔を上げた桜斗の瞳も、少し潤んでいた。一息吐くと、意を決したように口を開いた。
「あの、……俺のこと、気持ち悪かったら無理に付き合わなくていいから。今まで黙っていてごめん」
「ばか! そんなこと言うなよ!」
 春日はその場から立ち上がったが、桜斗の表情がやや緊張したことに気付くと、すぐに膝をつき正座した。それから慎重に手を伸ばすと、桜斗の肩を優しく掴んだ。
「話してくれて俺は嬉しかったよ。だから2度とそんなこと言わないでくれよ。何で、お前がそんな……絶対にお前は悪くない。絶対に、冬月は、何も悪くない」
「春日……」
「頼むから、……これからもお前のそばにいさせてくれよ」
 辛い出来事を打ち明けた桜斗と、それを受け止め男泣きに泣く春日に、いつしか草太は羨望の眼差しを向けていた。
 桜斗の告白は、数少ない友人の1人を失う覚悟あってのものだ。
 いくら桜斗が一方的な被害者であっても、他人はくだんの事件に対してあれこれと想像を巡らすだろう。その場では哀れみや同情を抱いたとしても、桜斗のふとした挙動を見て、事件との因果を結びつけて考えないとは限らない。さらには、教師と生徒の間に特別な交感があってのことではないのか、具体的にどんな猥褻な行為をしたのかなど──自分自身にとってわかりやすい邪推を浮かべるのが人の心というものだ。
 草太自身、自分のことを言えないのは桜斗を慮ってのこともあるが、そうした誤解を受ける心理的な恐れも当然ある。
 だから、すべてを吐露した桜斗の覚悟も、何の咎もなく受け入れられる春日の度量も、そのどちらもが羨ましく、同時に嬉しかった。
「ありがとう、本当に……俺が今こうして大学にも通って何とかやれてるのも、草太と、それに春日のおかげだよ。本当にありがとう」
 桜斗は瞬きを多くしながらも涙を堪え、2人に笑いかけた。
「さっきさ、言った母さんの友達……新美さんのことだけど。俺、その人のことは信じてもいいかもって思えたんだ。そんなに覚えてるわけじゃないけど、父さんとも雰囲気が似てる気がした。だから……信じられる人を、少しずつでも増やしていけたらいいなって思ったんだ。今まで自暴自棄になったりしたこともあったけど、年も新しくなったことだしさ。気持ちを入れ替えて、やっていけたらなって」
 神に祈ることじゃなかった、と草太は思った。桜斗は桜斗の中で戦い、必死に前を向こうとしている。やっぱり、桜斗の芯は強い。
「その、教師は……犯人はどうなったんだ?」
 春日はおずおずと聞いた。彼を探偵などと言って責めた草太は、償いの気持ちもあり応じる。
「まだ服役してる。余罪もあって、あと7年は出てこないはずだ」
「あと7年……たったそれだけで塀の外に出てくるのか」
 春日の一言に、全員が神妙な面持ちになった。
 あの男のしたことで、一体何人の人生が狂わされたことだろう。少なくとも、何の罪もない少年達がこの先の人生、ともすると犯人よりも長い時間苦しむだろうことは明らかだ。桜斗が暗示したように、中には自死した者もいるかもしれない。
「これからは俺がお前らのこと守ってやるからな!」
 不意に、春日がそう言って草太と桜斗の肩を叩いた。その顔があまりに真剣で、かえって言われた2人の緊張は和らいだ。
「頼りにしてる」
 ふふ、とくすぐったそうに桜斗が笑い、草太は苦笑した。
 寒々としていた部屋はいつしか暖かく、窓から差す朱は3人を同じ色に染めあげた。

2019/11/07


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