弔いがわりに笑ってあげる
数日続いた寒波が嘘のようにあたたかい日の事だった。
するすると立ち上っていく煙を私はずっと見詰めていた。てっきり見慣れた黒煙になるものだとばかり思っていたのだが、意外なことに昇っていったのは透き通る薄絹の白煙である。余りに火勢が凄まじかった所為だろうか、と尤もらしく考えたのだが確証は得られなかった。ただ、その煙は煤けた黒い煙よりもどこか清々しく、天上に漂う雲のようだったから。まさしく空に還っていくのだ、と私は思った。
元々あるべきところに戻るというのは据わりが良い。だから、微塵も寂しくなかった。
煙が完全にかき消えた後、一体どの位そうしていただろう。気の早い西日は陰り始め、淡墨を流した煙水晶のような夕闇の気配が漂っていた。それでもまだ腰を上げる気になれず、私は縁側にずっと腰を掛けている。
周りには誰もいない。しばらくは兄が隣にいたのだが、数刻前に自室へと帰ってしまった。いい加減身体を冷やすぞ、と言われたのだが、今日は花も狂うほどにあたたかい。大丈夫だと言って私は首を傾げた。
弟が死んだのは昨日の未明である。
本当ならばもうしばらくそのままにしておく筈だった亡骸を、今朝方荼毘に付した。殯の風習が残るうちはでは七日間遺体がそのままに安置され、別れを惜んで死に寄り添い、その後に火葬されるというのが正式な習わしだ。日々激化する戦では悠長なことをしていられず、今ではすっかり衰退しつつある儀礼だが、それでも本家では未だに受け継がれてきたのである。記憶にある父の葬儀でも確かに七日待った。私は知らないが、母や他の兄もそうだったと聞く。そのため、異例の迅速だろう。
今はちょうど初冬の頃、俗に言う小春日和。余りにあたたかい晴天だったものだから、せめてこんな日に旅立つのであれば寒がりな弟も安心だろうという、幾分か感傷的な理由で執り行われたのだ。子供のように痩せ細った弟の亡骸は白木の棺に入れられ、兄の火遁によってすっかり灰となった。密葬だったので裏庭に穴を掘り、そこでひっそりと燃やされたのだ。今は骨壺に納められ、生前使っていた部屋に安置されている。
弟の躯を燃やしながら、兄は絶えず泣いていた。最期の瞬間まで折れてしまいそうな細い身体に泣き縋り、すまないすまない、と慟哭する。滂沱の涙を流す兄の眼窩にはイズナの形見がぴたりと埋まり、澄んだ柘榴石のように煌めいていた。涙の薄膜が表面に留まり、朝ぼらけの光を宿していたのだ。
私は亡骸をいつまでも離そうとしない兄を宥め、綺麗に死出の身繕いをしてやった。慣れた手つきを思い起こしながら、柘植櫛で長い髪を梳く。主を失った櫛は私の手にはちっとも馴染まず、うそ寒いような、滑稽な児戯を行っているようにも感じた。
戦場で見慣れた死体に比べると、イズナの遺骸は驚くほど静謐だった。綺麗ともいえる。私達に見守られながら息絶えた顔は真実眠っているようで、ただし、当たり前だがその眼窩は空虚である。白布が巻かれた目蓋は落ち窪み、そこだけが欠けてしまっていた。
一連の出来事が流れていく中で、私はただの一滴も涙を零さなかった。今もこの眼球は乾いたままだ。唯一身内以外で立ち会っていたヒカクには甚く心配され、感情が壊れたのかとも危ぶまれた始末である。
だが、私は元々こういう人間なのだ。感情では泣けない性質とでも言えばいいのだろうか。イズナと言い争ったあの日に泣いたのが実に数年、――否、十数年ぶりだったかもしれない。父の葬儀でも泣かなかったが、思えば誰かの死に際して泣いたことなど一切無い。自分の身体のことを医者に告げられた際も、そういうものか、と諦めた心地になっただけだった。凡そ忍らしい淡白さだろう、こんなところだけは何事にも優秀な弟よりも優れていたようだ。私は他人事のように少しだけ笑った。
今も悲しんでいるふりを取り繕っているだけなのかもしれない。いい加減馬鹿らしくなり、漸く根を張っていた腰を上げる。風も冷たくなってきた、そろそろ日も暮れるだろう。凍り付いたように同じ姿勢でいたためか、手足が酷く強張っている。もぞもぞと身体を解しながら、自室へと戻って息を吐いた。
何も無くなっていない筈の部屋が、妙に広くなったように感じる。答えは当たり前のように分かっていた。この部屋にはよくイズナがいたからなのだろう。
立派な部屋が宛がわれているというのに、イズナは手持無沙汰に暇を持て余すと必ずこの部屋に来て、何をするでもなく寝転んでいたり、見るとはなしに外を見つめて寛いでいた。一体何が楽しかったのか未だに分からない。聞いたところで答えてはくれなかったのだから。
私は大体読み物や書き物をしているのだが、時たま手元を覗き込むくらいで話しかけてくる事も少ない。思い出したようにそちらを見遣ると、あどけない寝顔を無防備に晒していることもあった。
趣味で花を活けている時や部屋をしつらえている時は大人しくそれを眺めている。私が煮詰まってうんうん唸っていると、子供のような悪戯――髪を弄んで引っ張るだとか、滑稽な替歌で笑わそうとしたり――を仕掛けてくる。器用なのだから一緒にやってみるかと聞くと、見ているだけで充分だと首を振るうだけだ。
稀に私が昼寝をしていると、気が付けば隣で眠っている。また、黙って顔を覗き込んでいることもあった。そんな時は少しだけ気恥ずかしい。多分それを知っていて、阿呆みたいに平和な寝顔、と揶揄うのだから。
特別面白そうにするわけでもなく、退屈そうにしているわけでも無かった。嬉しいという顔でもない。強いて言うならば、脆い砂糖菓子を一息で飲み込んだような、そんな甘苦い表情を浮かべていた。
長じてからは兄ほどではないがイズナも日々忙しく、暇さえあれば修行に明け暮れていたのでそう多くない一幕である。だが、積み重ねた日々の長さからか無性に違和感を覚えてしまう。不思議なものだ、と私は思った。
思えば、イズナは好んで私の側にいたのではないのかもしれない。当たり前だった、そう考える方が納得いく。兄と修業することがイズナが好む特別であれば、私と共にいることは何でもない日常だったのだ。楽しいわけでも嬉しいわけでもなく、ただそうしているのがイズナにとって自然だったのだろう。
それは私も同じである。私達はいつも一緒だった。同じ時を過ごし、同じものを見ていた。雪の日に生まれ、花を数え、長雨を憂い、夕日を追いかけ、また雪を眺めた。
いつだって、イズナが隣にいた。どんな時も共に生きていた。
周りを見渡す。がらんとした部屋。空いた一人分の空白。かつてそこにいた、というだけの気配。
矢張り、もういない。
生まれて初めて、本当に一人になったのだと私は実感した。
「嗚呼、――」
清々した。
漸く、漸くいなくなってくれた。やっと息が出来るような心地がする。息苦しかった。憎悪を腹の底に押し隠し、平気な顔をして微笑むのに心底膿み疲れ果てていた。愛しているふりはもう懲り懲りだったから。
ずっと、ずっといなくなればいいと思っていた。私は弟が疎ましくて堪らなかったのだ。
――イズナのこと、ずっと恨んでいた。愛してなんかいなかったよ。
母性が愛だと言うのなら、そんなものは刷り込まれた本能が強いるまやかしに過ぎないのだと私は思う。愛すべきだと、愛さなければいけないのだと刻み込まれた呪いに諾々と従っているだけだ。
私は弟を理性で慈しんだことなど一度も無い。
親鳥が雛に餌を与えるという行動は、黄色い嘴を見ると反射的に与えてしまう習性からだと言う。単なる本能でありそこに理性の感情など存在しないのだ。守り愛しみたいなどという慈愛を以って尽くすのではなく、そうするべきだと定められた呪縛にただ従っているだけなのである。それを思えば、血を分けた半身に向ける情に愛を見出すなど滑稽で仕方無いだろう。
いくら耳障りの良い姉弟愛で覆い隠そうと、瞋恚の毒は埋火のようにじりじりと燻っていた。本能を隠れ蓑として愛だと嘯き、本心ではずっとイズナを睨んでいたのだ。早くいなくなればいいと、どうして生まれてきたんだといつも思っていた。
何もかも不出来な出来損ないである姉に反して、弟のイズナは何事においても完璧だった。イズナは完成された私だった。忍としての才に溢れ、一族全てを慈しむ愛情深さを持っていた。何事にも惑わない芯の強さ。利発で素直、絶対的である兄を屈折することも無く尊敬し、共に信頼し合っていた。
そんなイズナに対して、幼い頃の私は純粋な憧れを抱いていた。イズナのようになりたいと、イズナになりたいと心から思っていた。忌み子として戦以外では碌に外に出してもらえなかった私の世界はイズナによって彩りを得ていったのである。弟の無垢な世界は眩しかった。その澄んだ瞳を通して見る世界は夢のように鮮やかで、私が見ているものは鏡に映る偽りの虚像なのだと感じた。
――だが、そんなものは所詮ただの綺麗ごとだ。歪んでいる、健全ではないのだ。負けたくない、悔しい、妬ましい。そう思える方が余程真っ当な精神だっただろう。余りにも似過ぎているのに、なまじ境遇や才能の一切が真逆のために然るべき劣等感を抱くことすら出来ず、私はイズナに自分を重ね合わせて愚かにも喜んでいたのだ。弟を自分と同一視し、何も満たされない現実から目を背けていた。惨めなイスゞはそこにいなかった。空虚な器に偽りの満足を徒に詰め込んで、満たされた気になっただけなのだ。
私とイズナは違う人間なのに。私がイズナになれる訳などない。
幼い頃は鏡で映していたように似ていた私達も、長じるにつれて段々と男女の差が出るようになっていった。見た目が少しずつ違っていく。服を脱いでも見分けがつかないような体付きだったものが、私の身体はどんどん女になっていった。胸は膨らみ、肩や腰に肉が付く。声も変わらないままだった。力の差も開いていった。
女としては貧相で背も高く男のように見える体躯だったが、矢張りどう見ても男の身体ではない。歪で、まるで下手な女装でもしているかのような。男のような――、不完全な女だったのだ。
イズナとは全く違っている。弟は一片の瑕疵もない、凛然たる美しい青年だった。
とっくに私達は違う生き物になっていたのだ。私はイズナの生き写しなどではなく、完璧になれなかっただけの出来損ないだった。最早非の打ち所がない傑作に自分を重ね合わせることなど到底出来る筈も無く、仄暗い劣等感と嫉妬ばかりを募らせていた。
だが、私はそのまま良い姉として振舞い続けていた。変わらず纏わり付いてくる弟を今更突き放すことが出来るほど気が強い訳でもなく、私は只管に卑屈だった。仲の良い双子として通っていた手前、弟を僻んだ嫉妬深い姉として蔑まれるのが怖かったのだ。半端に自尊心が高い私は醜怪な感情と向き合うことで自らの惨めさを自覚するのを避けていた。イズナが可愛かったわけではない、単に保身の為だった。
ちょうど、その頃からだろうか。私を見るイズナの目が変わったのは。
物心付いた時分から屈託無く人懐こい弟だったが、何故か殊更私によく懐いていた。だから、最初は思い違いをしているのだと。イズナは母を知らずに育ったので、亡き母を求める貪欲な家族愛を履き違えているのだと思った。単に、性差により別物となっていく半身に戸惑っているのか、とも。
何気なく視線を絡めた一瞬に強張る頬が。当たり前に触れ合った時に乱れる息が。変わらずに笑い合った瞬間に覗く、渇きに飢えるような表情が。
愛着が執着へ。あどけない我儘が生臭い独占欲に変わっていたのを感じた。
その意味を理解した瞬間、私は骨まで焼き尽くすような歓喜を覚えた。胸を満たしたのは薄汚い優越感だった。
知勇兼備、眉目秀麗、どんな美辞麗句でも語り尽くせないあの弟が、あろう事か実の姉に懸想していたのだ!
最初は到底信じられなかった。どんな美女であれ才女であれ、イズナが望めば誰とでも愛し合えたのであろう。それなのに。人並みに女は抱いていたらしいが、それでも煮え滾るような情欲を持て余し、必死にそれを押し隠していた。目蓋の裏にある肌だけで孤独に自分を慰めていた。健気なまでに私に焦がれていたのだ。
寝静まった頃に部屋の前にやってきて、薄く開いた襖越しに荒い息を噛み殺しているのを私は聞き流していた。行水をしている時に感じる突き刺さるような視線を敢えてそのまま放っておいた。わざと悪戯に見せつける事もあった。そうすると哀れなほどに頬に朱を散らし、それでも目を逸らせずにいるのだから笑ってしまう。
こんな身体の、性根すら醜い姉のどこが良かったのだろうか。子供も産めない、そもそも女ですらないただの紛い物だ。本当は男なのに。衆道にすら値しない出来損ないに焦がれて、――馬鹿じゃないのか、といつも思っていた。
私は絶対にイズナを異性として愛さない。愛する訳が無いのだ。そんな穢らわしい愛情など抱くなど有り得ない、許されることではないだろう。
だからこそ、真綿の母性で包んでやった。決して男女の情欲とは違う、無償の愛を惜しみなく注いだのだ。
部屋の外に気配を感じたら、悪い夢でも見たのかと声を投げかけた。褥に呼ばい、寄り添いながらその背中を撫で摩った。修行後に水浴びをしている時に傍で立ちすくんでいるイズナの身体を自分より先に拭いてやった。汗ばむ額を拭い、赤らんだ頬の具合を気遣った。
いつまでも変わらず幼子のように扱った。手のかかる赤子に接するように宥めすかし、突き放すことなく。私はお前の姉なのだと、母なのだと植え付けることで、その苦悩を一等深いものに仕立てていった。望むようには決して愛されることはないのだ、と。
本当は母にすらなれぬ偽りの情、捨て切れなかった残滓のような本能で。呪いをかけてやった。私はイズナを呪ったのだ。
「――ふふっ、」
ふふふふ。あはははは、あはははははっ。
割れるような哄笑が誰もいない部屋に響く。膨張する空白に声は吸い込まれ、どんどんと広がっていった。もう誰もいないのだから、いくらでも広がっていく。どんどん、どんどん途方も無く。
全く可笑しい。イズナの事を思うと可笑しくて堪らない。
誰からも愛される、愛されるべき子だったのに。一番求めた筈の私はお前を愛してなどいなかったよ。愚かだね、滑稽だね。どうして私なんかを愛してしまったのかな、愛すべき人は他にいくらでもいたでしょう。もっともっと、相応しい人を愛するべきだったんだよ。
こんな、――こんな獣にも劣るような、醜い罪を犯したりなんかせずに。
誰か他の、真っ当な愛で包んでくれる伴侶を見つけ、さっさと家から出ていけばよかったのだ。いなくなってしまえばいい。消えてしまえ。もう二度と私の前に現れるな。
私はこの家から出ていく事は出来ない。此処に永劫縛られたままだ。どこにも行けない、何処にも居場所なんてない。
だが、イズナは違っただろう。イズナの世界はもっと広く、伸びやかであったはずだ。私を置いて、その広大な世界へと歩んでいけばよかったんだ。
やっと勝てると思った。イズナが死に傷を負った瞬間、やっと越えられると思った。
死に損なって、戦場に立たなくなった足手纏いとして無様に生き恥を晒せば良かったものを。さぞや胸のすく思いだっただろう。所詮は無価値なのだと嘲ってやりたかった。二度と魂を削る戦いに身を投じられないのだと歯噛みして、名誉ある死を選ぶことも出来ずに老いさらばえて無為に朽ちていけば良かったのだ。
兄の目になったことも憎たらしい。私が兄の目になりたかった。憎い、本当にどこまでも憎らしい。
嗚呼憎い憎い、イズナが憎い。憎くて堪らない。
死んでも妬ましい。死んでも恨めしい。一点の陰りも無い、なんて堂々とした最期だろう。死して尚兄に尽くして。一等大事な瞳すらも捧げて。献身的な、余りに利他的な。凡愚では到底至らない自己犠牲の極地である。
イズナは完璧だった。何の瑕瑾も無かった。痛々しいまでに惑わない正しさを抱き、自分の命すら厭わない優しさを持っていた。身も心もしなやかに強かった。
私を愛したりなどしなければ、一片の歪みすらない素晴らしい一生だっただろう。
この姉さえ愛さなければ。その狂いさえなければ。
私は弟の瑕疵だ。唯一の、致命的な傷だったのだ。
私さえ、いなければ。
「どうして、――」
どうして。
どうして、疎んでくれなかったの、蔑んでくれなかったの。
憎んでいた、恨んでいた。妬ましかった、憧れていた。恨みに骨髄まで刺されながら、凍える日々を送らせてくれれば安らかだったのに。あたたかな、やわく無垢な笑みなんて身に余るものを、どうして無邪気に捧げたりなんてしたの。
一体どうして、私を掻き乱す。
残酷だ、余りにも酷い。
可愛げなんて欠片も無い、憎悪だけの存在であれば余程良かった。イズナが愛したりなどしなければ、私は透明なままでいられた。私には何も無かったのだ。何も願わず、分不相応に思い悩む事もなく、きっと全てに絶望して生きていけた。
全部イズナのせいだ、イズナのせいでこんなにも世界が美しいと知ってしまった。
――欲が出てしまったのだ、自我という欲が。イズナが私をこの奈落に産み落とした。
弟さえいなければ、弟さえ生まれて来なければ。同じ時、同じ場所、同じ世に生まれて来なければ私はきっと幸福だった。出会わなければ、それだけで幸運だったのに。
何もかもに優れた双子がいる、それだけでこの世は地獄だ。弟は私の全てを奪った。無垢な魂に途方もない強欲が息を潜め、私が持ち得たかもしれないもの全てを胎の中で喰らっていった。
それでいて、弟は何としても私を満たそうとしたのだ。決して手に入れてはならない尊いものをその両手いっぱいに包み、祈るように差し出し続けた。私が望むことすらも許されないようなものを。何もかもを食い尽くした挙げ句に自分を削って満たそうとした。奪われたものを今更無理に注がれたとて満たされる訳がない。飲み込めない、苦しい、溺れてしまう。恐ろしくて私は何度も吐き出した。嘔吐いて、口腔に残る甘ったるさに身悶えして、そして、遂には浅ましく望んでしまった。
一度味を知ってしまえば渇きに餓える。そうして、また欲が出た。
だが。もう弟はいない。やっといなくなってくれた。
嗚呼、イズナがいなければ。イズナがいない此の世はなんと安らかな、なんと平らかなことだろう! 煌めく太陽に目を灼かれる事も、届かぬ星の瞬きに焦がれる事も、清らかな空の青さを妬む事も、もう何もない。眩さも鮮やかさも毒々しく網膜を刺すだけなのだ。美しさなど毒である、危うく目が潰れてしまうところだった。鮮やかさを失った世界は寄り添うように網膜を包み込む、この瞳に映る全てが優しい。
素晴らしい、私は生きながらに極楽に辿り着いたようだ。白で塗り潰されたような、否、まるで透き通るような静謐な安息である。こんなにも世界は穏やかだ。もう、もう二度と目を灼かれる事も心を焦がされる事も何もない!私は救われた、救われたのだ!
引き攣る笑いが喉を裂く。一頻り笑い転げた末、腹を抱えるように蹲った。それでも未だ肩が痙攣していた。
笑い過ぎた所為か脇腹が引き裂かれたように痛む。喉が焼けるようだ。そもそも私はこんなにも感情を表出すことに慣れていないのだから、身体が驚いて軋むように悲鳴を上げてしまう。苦しい。荒んだ喘鳴を吐きながらも、この眼球は渇き切っていた。
涙など、流れる筈が無いだろう。
泣くという行為は対象を憐れんでいる感情の発露だ。イズナのことは愚かだと思うが、哀れだとは露ほども思えない。
凡そ同情に値しない。
「――本当に、馬鹿だね」
哀れむ事など出来ようか、同情など出来る訳があるだろうか。
憐憫とは上から下のものに向ける視線であって、出来損ないの私が完璧な弟に向けられるはずもないのだから。
私はイズナになれなかった、あの子は何もかも優れていた。何でもに満たされていた。半端だったのは私の方、満たされなかったのは成り損ないのイスゞだ。そんな私が烏滸がましくも、一点の陰りもない弟を哀れみ涙するなど出来よう筈がない。
イズナは完璧な筈だった、尊い人だった。なんて美しい輝きだっただろう、なんて眩しい煌めきだっただろう。泥沼に蹲り、灰にもなれない嫉妬を抱えて這いずるように生きてきた私には余りにも羨ましかった。
――嗚呼、私さえいなければ!
哀れむべきところなど、決してあってはならない。あっていい訳がない。弟は完璧でなければならないのだ。凡愚はただ恨み嫉妬するだけである。
だから。
止め処なく溢れる涙は、ただ身体の痛みから流れる生理的なものなのだ。持て余す激情にこの身がついていかない。
あの子の代わりになれなかった脇腹が、あの子を呼ばった喉が、あの子が好んだ髪が、あの子に触れた指先が、皮膚が骨が心臓が。半身が抉られたように痛むから。
この身体は余りにイズナを覚えている。母の中で引き裂かれてしまっただけで、この身体も元はイズナのものだったのだから。例え喰われたとて、あるべきところに帰るのだから少しも寂しくない筈なのに。無くした筈の何かが、元々なかったものまで痛むのだ。
きっと、ごく当たり前に流れているだけの無機質な体液なのだろう。
そこには何の感情も無い。何の意味も無い、ただの本能だ。
何も悲しんでなどいない。寂しくもない。
イズナがいなくなって、ちっとも悲しくなんてないよ。
結局、私にはイズナが全てだったから。何もかも無くなってしまったら、何かを思う事もない。
もう何も、感じないからね。
寒々と広いがらんどうの真ん中で、私は一人泣き崩れた。
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