ひた向きな呪い


奇妙な言伝だった。
明日の昼に屋敷に来いという話だが、玄関から上がるのではなく、そのまま庭へと回ること。そこで待っているので、必ず名前を呼んでから、そして声を掛けること、という内容だった。珍妙な儀式のようだとカガミは率直に思ったが、このような時世に遊び半分で無意味なことをするはずもない。言伝を頼まれた馴染みの女中もまったく同じように首を捻っていた。
名を名乗って声を掛けるというのならばまだ納得は出来るが、名を呼ぶ、というのが不可解である。分からないでもないが、何故わざわざ。そもそも誰からの言伝かと問えば、それすらも分からないのだという。ただ、イズナかイスゞのどちらか、と胡乱な答えが返ってきた。
どちらか、とはまたよく分らない。直接頼まれたのではなく、知らない間に厨に書置きが残してあっただけだった。署名は無く、筆跡はイズナとも思えるが、使われている墨はイスゞが好む青の淡墨である。だが、二人の筆跡はよく似ている上、写輪眼を用いれば筆の癖などあってないようなものだ。念のためイスゞの自室に確認しに行ったところ、自分が書いたものに相違ない、悪いが頼まれてほしい、と告げられた。屋敷にいて何故わざわざ書置きで伝えたのかというのも妙な話だが、それに加え、何故か部屋にいたのはイスゞではなくイズナだけだったという。イズナが姉の自室に入り浸る事は珍しくも何ともないが、流石に留守中に入っているのを見たことが無かったため、始めは素直にイスゞなのだと思ったらしい。
それだけ聞いて、カガミの頭は若干混沌とした。話が妙に錯綜している。要領を得ない。

「えっと、結局師匠じゃなかったって事ですよね?」
「ええ……。あれはイズナ様のお声だったから」
「お二人って、声は似てらっしゃらないですもんね」

幼い頃の双子は声すらもそっくりだったとは以前聞いたことがあったが、今ではいくら見目が似ているとは言え、話すとすぐに分かるのだ。間違えようがないだろう。

「そうよね、御召し物もそうだったもの」
「じゃあ、やっぱりイズナ様からなんでしょうか。でも、俺に何の御用だろう」
「そう、そうよね。イズナ様よねえ……」

疲れてるのかしら、と女は溜息を吐きつつ続ける。

「最近、お二人の区別が付かないのよ。イズナ様だと思ったらイスゞ様で、イスゞ様だと思ったらイズナ様だった、みたいに。屋敷の子達、皆そう。元々よく似てらっしゃるご姉弟だけど、今までこんなことなかったのよ。幻術でも掛けられてるみたい、……なんだか少し、気味が悪くて」
「えっ、どういうことですか?」
「ああ、それはこの前の戦で――」

そう言いかけて、慌てて女中は口を噤む。カガミもあっと口に手をやって押し黙った。思えば自分も迂闊だっただろう、頭領宅の内部事情をそう軽々と噂していいものではない。好奇心で色々と聞いてしまったが、はい分かりました、と頷けばいい話だったのだ。

すみません、とカガミが小さな声で謝ると、そろそろ潮時だと思っていたからいいのよ、と寂しそうに女は言った。
この女中は下働きの任を解かれるのかもしれない。恐らくはそうなのだろう。マダラは戦場以外では下の者に甘過ぎると言われるほど寛容ではあるが、反してイズナは厳格だと言われている。折檻として罰が下される訳ではなかったが、屋敷に上げるに信用が足りないと判断されたものはすぐに解雇させられていた。他言はしないように、記憶を消されて。
タジマの代では上女中と下女中合わせて十人ほど通いの者がいたようだが、近頃では二、三人まで減ったと聞く。皆が忠義に薄いという訳ではなく、恐らく何か尋常ならざる事情があるらしい。

昨今、うちはの内情は物々しい。直接戦を知らない女中達もそれを肌で感じている。千手との戦いが劣勢の一途を辿り、遂には敵方へ亡命する者まで現れた。突き刺すような殺伐とした緊張感、四肢に纏わりつくような重い諦念。これからの事を考えると息苦しくて堪らない、そう囁く声。元々うちは一族は忍界の中でも特に矜持が高い血族である。一族を裏切るくらいならば、目を抉り首を掻き切ると言い切る者ばかりだったのが、今ではどうだ。――うちはの誇り、聞き慣れたその響きすら今ではこの無色彩の冬空のように寒々しい。
取り分け、先の戦での離反者は酷かった。マダラとイズナ、そしてイスゞとヒカク他数名の手練れしか帰ってこなかったのだ。誰かが酷い怪我を負ったという噂――イズナが腹を裂かれただの、イスゞが目を抉られただの、戦狂いの頭領を止めるべく実の弟妹を含めた手練れ達が共謀してマダラを罠に嵌めたという眉唾な流言まで飛び交う始末だ――もあったが、直接その場にいた者が皆無な中で情報が入り乱れており真偽が分からない。最前線にいた多くの者は討たれ、生き残っていた者も殆どが投降したのである。
カガミと年の近い同輩の父親も帰ってこなかった。裏切者の子供、そう蔑む余力すらもう皆には残されていない。それが良い事なのか悪い事なのか、果たしてカガミには分からないけれども。

「俺、もう行きます。伝えに来てくださって、ありがとうございました」
「ええ、引き留めてごめんね。気を付けて、いってらっしゃい」
「ありがとうございます、――さようなら」

カガミは丁寧に礼をしてその女中とは別れた。もしかしたら、今後会いはすれど話す事はもうないかもしれない。そう思うと、少しだけ寂しかったのだ。
彼女は他の大人たちに比べて優しかった。イスゞ達が目を掛けていることもあるのだろう。それに加えて、カガミとちょうど同じ年頃の子供を戦で亡くしたと言っていたことを覚えている。初陣に出るという話をした時、わざわざ出陣の朝に切火のまじないをしに来てくれたのだ。
だからといってカガミが特別何かを思うことも、同時にそれ以上の何かを言われることもなかった。そんな話は今の世では有り触れた悲劇なのだから。空いた虚を別の何かで埋めようとしても、それは決して上手くいかない。隙間風が吹き荒んでいたり、収まりきらずに欠けてしまったりする。それを皆分かっているのだ。

首筋がやけに冷たいと思えば、いつの間にか雪が降っていた。北風が白い。鈴のまたたきに似た、玻璃が擦れるような音がする。細やかな灰色が見慣れた風景を朧に隠し、水墨画の片隅に迷い込んだような風情だった。幽玄というより、茫漠と寂しい。色ひとつで世界が変わるのであれば、見える世界もなんとも儚く不確かだ。
通い慣れた道を一人歩きながら、ぼんやりとした雪空のようにカガミは取り留めもなく思いを馳せる。最後に師匠に会ったのはいつだったか、まだ薫風が清々しい頃だっただろうか。あの日の空は瞳から身体の隅々、指先まで透き通っていく心地がするほどに明るく鮮やかだった。季節が巡った今では、かつての群青はただ遠い。思えば、もう久しくカガミは己の師に会っていないのだ。今年の春に初陣を無事に済ませ、うちはの忍として独り立ちを迎えたカガミに己がもう教えることは無いとイスゞはあっさりと手を引いた。いくら建前上一人前と言われているとはいえ、カガミが七つにもなっていない幼子に変わりはない。まだ人の子にすらなっていない神のうちだ。無情とも思える潔さだったが、千手との戦が泥沼への一途を辿り、イスゞも一部隊の長として幼子一人の修行を見ている時間など流石に取れなくなっていたことが真相である。
カガミに仔細は分からないが、元来イスゞは本家の血を引く一人でありながら、戦闘以外での一族内の役割が極端に少ない。頭領であるマダラは軍議や会合だけでなく、節句などの年中行事にも駆り出されるが故に人前に立つ事が当たり前に多い。そして、その傍に実弟があらゆる時も控えているように、頭領の血縁ならば戦以外でも一族をまとめる立場に相応しい筈だ。だが、イスゞの顔すら碌に見たことが無いという同胞は意外な程に多かった。余程大規模な合戦でなければ軍議にも出ない程だという。人当たりの良いイスゞがそれほど人嫌いにも思えないのだが、頭の固い長老達が五月蠅いのだろうか。
だが、その常態が今では許されないほどに人員が逼迫している。矢張りうちはの地力は刻々と削られつつあるのだろう。

――このままでは千手に下るしか他にない。幾度と無く聞いた言葉だ。
下るとどうなるのか、千手の犬に成り下がるのだろうか。それとも、共存していく道があるのだろうか。
調和出来るのであれば越したことは無いだろう、カガミは今ならそう思える。一族そのものに執着を持てないでいるのだから。だが仮にイスゞが千手に討たれたとならばどうだろうか。
考えてみるまでもない、だからこそこれほどまで長く戦は続いているのだ。引くも地獄、引かぬも地獄。

そんなことを思うと、胸の底がまた凍えていく。思わず立ち竦んでしまっていたので身体もすっかり冷えていた。これではいけない、とカガミは慌てて手を擦り合わせる。
心が寒くなるのはいけない事だとイスゞは常々言っていた。身体が冷えると心も冷える、それはとても寂しいんだ、と。かじかむ小さな手を両手で包みながら、いつも温めてくれるのだ。こうやってイズナの手もあたためていたんだよ、と懐かしむように語るイスゞはいつもより幼く見えて、カガミは一等好きだった。
別の事を考えよう、何かあたたかい気持ちになれること。
用向きはイズナからのようだが、折角屋敷に来たのだから師匠の顔を見ることくらいは許されるだろう。ほんの一瞬、言葉を交わすだけで充分だ。そう思うと少しだけ楽しい。毛羽立っていたカガミの心は幾分か潤っていくようだった。
いらっしゃるといいな、と浮き足立つ。もし不在であっても、イズナに頼めば約束を取り付けてもらうくらいは出来るかもしれない。

頭領が住まう邸へと着く。久々に見る屋敷は白い空のせいで一層重苦しく鎮座し、黙念と異物を見下ろしていた。

「ごめんください、カガミが参りました」

念のため玄関先で呼びかけたのだが、一向に答えはない。先の通り言伝もあったので、カガミも期待はしていなかったが、矢張り妙な心地だった。静寂という圧倒的な閉塞感の中にまだやわい声は吸い込まれ、指先で拭い取るように余韻すら消えてしまう。まるで先の見えない暗い洞窟に一人呼び掛けているような、そんな気分である。酷く心許ない。
一刻も早くこの場から離れたかった。
玄関からではなく、そのまま庭へと回れということだったか。案内を待たなくて良いのは幸いだろう。

軒下に設けられた石造りの小道を進んでいく。細道を抜けると広い中庭が見えた。玉砂利、つくばい、凍てついた池泉。立ち枯れした木々は荒涼と、赤茶けた苔は閑寂である。それら全てを雪が縹渺と白く染めている。寒い。雪に雑音が吸い込まれてしまうのか、鼓膜が痛くなるような静寂だ。どこにも生き物の気配が感じられない。白川夜船で無音の白昼夢でも見ているようだった。

――閑、と鹿威しの音が響いた。

「あっ、――」

庭に面した一部屋の障子が開け放たれ、そこにもたれ掛かるように男が一人座っていた。片膝をつき、膝に乗せた反対の手で気怠げに上体を支えている。忘我のようにも見える姿だが、カガミを見据えるその双眸は嫌に鋭い。
かこん、と。竹がまた響く。
魅入られたように動けなかった。カガミが思わず身を竦めたのは、その色が赤く染まっていたからである。どこか虚ろな夢を思わせる無色彩の中で、爛々と光る目は場違いなほど鮮やかだ。水墨の山水に匂う椿が落ちたような。酷く落ち着かない。カガミは思わず手を握り締める。暑くもないのに掌が汗ばんでいた。

「さあ」

声がする。ひらりと白い手が手招きした。夜より淡い、青を秘めた宵闇の濃紺。低く掠れた声。値踏みするような表情。そこにいるのは間違いなくイズナである。
――さあ、促す声がもう一度響く。見据える目が弓形に撓んだ。

そういえば、名前を呼ばねばならないのだ。
――どうして? 名は人を縛る呪いだから。それを間違えれば喰われてしまう。両足八足大足二足横行自在両眼大差、これ如何に。名を呼べば相手を支配できる。正体を当てられた怪異はどうなるのだったか。
間違えようがない。あの人はイズナだ。頭ではそう分かっているのに、何故か別の声がする。心がそれを否定する。
なんだか酷く、悲しくなった。

カガミは消え入るような声で呟く。

「――イスゞ様?」

手招きしていた手がひたりと止まる。一切の音が絶えていた。僅かに目を見開き、その人は困ったように笑った。

「残念、カガミの勝ちだね」

――かたん。
乾いた竹の音を遠いどこかで聞いていた。


夢を見ているな、と思った。障子の外が明るいのだ。夏の空、それも秋の気配を漂わせた晩夏の蒼だ。一年で最も空が眩しく、それでいて何かが消えゆく寂しさを秘めている。夏の終わりというのはいつも切ない。何かが終わるのを眺めているのは酷く儚い気持ちになる。
蝉時雨が聞こえていた。炎天の真昼間らしい。反して座敷の中は仄暗い。
カガミは多分、畳に横たわっている。視線の先には二つの影があった。一人はカガミと同じように寝転び、もう一人は寄り添うように隣に腰を下ろしている。時折髪を梳くように頭を撫でる手は堪らなく優しい。
座しているのがイズナで、横になっているのがイスゞらしい。始め、カガミは逆なのかと思った。俯く横顔がひそやかで、胸が抉れるほど愛おしげであったから。そして、見上げる姿が余りにもあどけなかったから。
イズナ、と弟を呼ばう声がする。つい今し方まで眠っていたらしく、寝言のように覚束ない。幼子がむずかるような甘やかな響き。横になったままイスゞは腕を伸ばし、起してくれと強請っているようだった。
なあにイスゞ、それって俺の真似なの、とイズナは笑う。
相変わらずイスゞは背を向けているので、どんな表情を浮かべているかは分からない。だが、きっと屈託無く笑っている。寝ぼけているのだろうか。あのイスゞがと思えば、確かに巫山戯ているようでもあった。夢の中なのだから詮無い事なのかもしれないけれど。

――嫌な夢でも見た? イスゞが俺に甘えるなんて珍しい、お得意の幻術でも見せられてるのかな。
――イズナが、……。
――うん。俺が、どうしたの。
――ううん、なんでもないよ。ただの夢だから。

影が重なる。抱き起こされたイスゞはイズナの肩に頭を預け、夏の日差しさえ忘れたように離れようとしなかった。
あついな、と呟きながらも、結局満更でもないのだろう。イズナも抱き寄せるように腕を回し、預けられた頭に頬を寄せている。

――そう? まあ、たまの役得なんだから何だっていいか。あーあ、俺が兄さんになりたかったな。そうしたらこうやって可愛いイスゞちゃんをいつでも甘やかせたのに。
――イズナ、妹が欲しかったの? 知らなかったな。

イスゞが僅かに頭をもたげる。見下ろすイズナは額同士を付けて目を閉じた。囁くように、あやすように。酷く曖昧に微笑んでいる。

――ずっと思ってたよ。せめて逆に生まれてきたらよかったのか、って。少しでも、何か違ったかもしれない。
――きっと、何も変わらないよ。それに……、どうだろうね、私の事なんて放って兄様と修業してばかりかも。邪魔だって見向きもしないんじゃないかな。
――そうでもない、俺だって面倒見はいい方だろ。でもイスゞの言う通りか、多分俺には兄なんて向いてないね。
――そうだよ、イズナは私の弟なんだから。
――ああそうだな、……俺の、姉さん。

そう言うとイズナはイスゞを抱き竦め、寄り掛かるように首筋に顔を埋めた。応えるイスゞがその背中に手を回す。触れ合っている皮膚を伝うそれぞれの汗が流れ合わさり、涙のような一筋の雫となっていた。
境目など無いほどに混じり合い、すっかり一つの影である。イズナが支えているのか、イスゞが抱き留めているのか最早分からなかった。

例え夢とはいえ。一対の男女が抱き合っている様など、まだ幼いカガミは見慣れていない。それでも不思議と気恥ずかしさも何も感じずに寧ろ安堵さえ覚えるのは、二人の様子が余りにも自然だったからだろう。陰陽が調和し合う様が理想であるならば、まさにそれだ。離れている方が歪で不完全である。欠けているものを見るのは落ち着かない。堪らなく寂しい。

どうかそのままであってほしい、安らかでいてほしい、とカガミは半ば祈るような心地だった。

一族での立ち位置が不安定であったカガミは、調和というものが何よりも尊いと感じている。互いに釣り合いがとれ、整っている。あるべきものはあるべきところに。確かだと信じられるままに、苔生すまで盤石であってほしいと願う。その意識は一族の誰よりも強かった。

嗚呼、でも。きっともう終わってしまう、果ての空の色だもの。

――かこん、と夢が途切れる音がした。
蜃気楼が揺らめくように、空の青が仄暗い影さえ染めていく。眩暈がした。群青の闇が目蓋を覆う。ぱちり、と瞬きをした。
一つの影に二つの魂。カガミの目の前にいるのは、たった一人だけだった。

「イズナ様、――いいえイスゞ様」
「ああ、起きたんだね」

そうやって笑う顔は矢張りどう見てもイズナである。カガミは確かめる様に視線で辿る。着ている衣も確かにイズナのものだ。どうやったのか髪型も変えたらしく、頭頂の辺りでしんなりと毛先が跳ねている。声色も低く掠れたそれ。イズナと瓜二つどころか、イスゞの面影といえば口調くらいだった。
――異様だ。とても正気の沙汰ではないように思える。だが、カガミは別段居心地の悪さを覚えることも無く見つめていた。当のイスゞが余りに平然としているからだろう。
それでも、一体どうして、と聞くのは憚られた。イスゞは複雑なカガミの胸中を知ってか知らずか、何気ない調子で話を続ける。

「弱めの催眠だったから身体は何とも無いと思うけど、頭とかは痛くないかな」
「はい」

ふと、カガミは最前までの夢を思い出した。あれも幻術だったのだろうか。

「あの夢は、師匠が見せた幻術ですか」
「夢? おかしいな、眠らせただけで何も見せてない筈だけど。何か見えたの?」
「師匠とイズナ様がお二人で話しておられました。ちょうどこの部屋、今そこにおられる辺りで」
「そっか、どうしてだろうね。この部屋の記憶かな」
「あの、――」

イズナ様はどちらに、とカガミは尋ねた。多分、この言葉は核心だ。
イスゞが居住まいを正す。少し表情を緩めるだけで、最早イズナには到底見えない。少し物憂げな、それでも微笑んでいるような曖昧な表情。真っ直ぐに見つめているようで、どこか遠い彼方を眺めているような儚い眼差し。声も元の通りに戻っていた。

――かん、と再び竹が響いた。

「イズナは死んだよ」

うちはイスゞその人として、目の前の人はひそやかに言葉を続ける。

「この前の戦で大怪我をしてしまってね、可哀想に助からなかった」
「なら、そのお姿は」
「急拵えだけど、私が影武者ってことで誤魔化すことにしたんだ。私は元々イズナの代わりだからね。ほら、イズナがいないと戦以外でも色々困るでしょう」
「そんな……。師匠は、それでよろしいのですか」
「そうだね、昔から決まっていたことだし、今更特に何も思わないよ。ただ、流石に自分だけで立ち回るのは限界があるから、一人くらい事情を知ってる協力者が欲しくてね。それをカガミに頼みたいんだ。
ねえ、私を助けてくれるかな」

淡々と続けるイスゞに気圧されてしまう。状況がほとんど飲み込めない。

「あの、どうして俺に。そんな、話を――」
「カガミだから頼んでるんだよ。女中の子達は仲良くしてくれてたから難しかったけど、他の皆は、――兄様もだけど、騙せたんだ。当ててくれたのはカガミだけだった」
「マダラ様も?」
「そう、随分悩んでいたみたいだけど。でもね、これが一番いいことなんだ」

イスゞが黙ってしまれば、否応無く静寂が降り積もる。雪の降る音が聞こえるほどに。聞きたいことは山のようにあったが、どれもこれもが言葉にしようとすると喉の奥へと逃げてしまう。
聞いてしまうのが怖かった。知ってしまえば、もう後戻りが出来ない気がする。イスゞの覚悟を聞くのが怖い、知りたくない。
それはきっと、酷く悲しいものだから。
胸が圧し潰されそうだった。その重みに耐え切れず、カガミは一言呟いた。

「イズナ様、亡くなられたんですね」
「……カガミ、泣いてるの」

優しいんだね、と呟きながらイスゞが手を伸ばし、指先で払うようにカガミの目元を拭う。カガミも指摘されるまで気が付かなかったが、頬を濡らすほどに涙が溢れていた。
当惑した。悲しいわけではないのに、何故なのか。カガミはイズナの事をほとんど知らない。寂しいかと言われれば恐らくそうだが、泣くほど悲しいのかと問われれば違うだろう。
――それなのに。
流れる涙は止まらない。遂にはしゃくり上げて泣き出したカガミを咎めるでもなく宥めるでもなく、イスゞは黙って見守っていた。堪らなく切ないのは、その眼差しがどうしようもなく静かな覚悟を纏っているからなのだろうか。

「ごめんなさい、忍の子が泣いては駄目ですよね」
「そうだね。でも、カガミのそういう純粋さは少し羨ましいかな」
「俺なんかが悲しいなんて言うべきじゃ無いのかもしれないですけど、寂しいです。……イスゞ様、大丈夫ですか」
「どうして?」
「とても、ご無理をされているように見えます」
「身内が死ぬことは、このご時世だと珍しい話でもないよ」
「でも、……。でも、大切に思われていたんですよね」

何故か、縋るように言ってしまう。
思えば、イスゞがイズナをどう思っているのかカガミは知らない。いや、イズナに対してだけではない、イスゞのことを本当は何も知らないのだ。誰に対しても穏やかで、真綿のように捉え所が無い。優しいが本心が分かり辛い人ではあった。嘘吐きなのだと自ら言っていたようにも思う。
その点、イズナは意外と分かりやすい。屈折しているようで素直だった。きっと姉のことが大変に好きなのだろうというのは何となく感じていたが、イスゞは余りにも感情が出ないから。

イスゞは静かに首を傾ける。僅かに肩を竦めたので、呆れているようにも見えた。

「……さあ、どうだろう。きっとカガミの勘違いじゃないかな」
「そう、なんですか」
「そうだよ、――嫌いだったんだ」

カガミは目を見開く。

「大嫌いだった。憎くて堪らなかった。目障りで仕方無い、いっそ生まれて来なければよかったのに。今更嘘を付く必要も無いからね、気が楽になったよ」

空気が鳴動する。喉を震わすような言葉。駆け上がるように声が荒らんでいく。

「疎ましくて妬ましくて、どうして生まれてきたんだって。頼むから死んでくれ――、ずっとそう思ってた」

祈るような、許しを乞うような。そんな悲痛な叫びだった。いつ何時でも感情を表出すことなど無かったようなイスゞが、今目の前で血を吐くように呪詛を吐いている。カガミには到底信じられなかった。
――この人は誰だ?イズナ?
違う、きっと二人とも同じなのだろう。イスゞもイズナも、何も二人だけでなく、皆腹の底に激情を飼って生きている。それを隠し嘯いて、生きているだけなのだ。

誰かに向ける感情は、それが近ければ近いほど、重ければ重いほど色々なものが混ざるのだ。まだ幼いカガミとて、イスゞに抱く憧憬や慕情が一点の曇りもないものかと問われれば恐らく言い淀む。もっと構ってほしい、自分だけを見てほしい、と子供らしい我儘を覚えない訳ではない。それは恐らく、人にとって根源的な支配の欲。
愛とは押し並べて勝手なものだ。欲深い。誰かを愛すれば愛するほど、傲慢で不遜になり、疑り深くなっていく。自分の思い通りにならないと憤る。もっと愛されたい、自分だけを見てほしい。独り占めしてしまいたい。側にあるだけで満たされていたものが、飢えに耐えかね渇いていく。
慈愛と憎悪。祝福と呪詛。そのどちらか一方だけで満たされた感情など、果たしてあり得るのだろうか。近ければ近いほど、向ける感情が大きければ大きいほど、時としてそれは移ろいやすい。憧れは失意に色褪せ、愛情は憎悪にすり替わる。それが混ざり合った中庸で折り合いをつけていくものなのだから。

かん、と響いた音にすぐには気付けなかった。一拍置いてカガミは我に返る。
幾分か落ち着いたらしく、イスゞはいつものように捉え所のない表情に戻っていた。

「私はイズナがいないと生きていけないと思っていたんだ。あの子がいなければ空っぽだから。だけど、存外大丈夫みたい。心なんて身体よりずっと丈夫なものなんだね」
「そんな、そんな事ないです。心が寒くなるのはいけないって、師匠はいつも――」
「確かに今までそう思ってたんだ。でも私は生きてる。とっくの昔に心は傷付いていたのにね。イズナは身体が傷付いて死んでしまったのに、心が壊れても私は生きてるんだよ」
「イスゞ、様」

不意にイスゞが腹の上に手を重ねる。――ねえ、イズナ、と。まるで胎に宿った子に語り返るように、聞き慣れた名を呼んだ。その行為が何を意味するのかカガミには分からなかったが、背筋が泡立つような予感を覚えた。

本心でどう思っているかなど、余人に分かる筈もない。本人ですら分かり得ないものなのかもしれない。
ただ、きっと。心を占める割合が自分よりもイズナの方が大きいのだと。自分の人生よりも重かった、それだけなのだろう。

イズナを真似ているというイスゞのそれは、まるで神降ろしである。自らを依代と捧げ、霊を憑依させて代わりとなり、その意志などを語るもの。そこに自分は居なくなる、それすらも厭わない。
目の伏せ方、顔を傾ける角度。細かな表情の機微、ふとした瞬間に醸す空気。そんな何気ない一挙手一投足を、揺らぐ水面から一つひとつ丁寧に掬い上げ、ことごとく写し取ったかのような。執念すら感じさせる精密さ。
写輪眼の力なのかは分からないが、恐らくはもっと原始的な。生まれたその瞬間、それよりも以前の、母胎の深海から間がな隙がな見つめ続けていたからこそ成せる業なのだろう。イスゞが言う通りならば、瞋恚に囚われ睨み続けたから。

それを憎悪と言うのならば、愛のように悲しい憎しみだ。ひたむきで、ただそれだけに付き従わざるを得ないような。狂うほどに純粋な感情の奔流である。

これから先、例えカガミがイスゞの一番近くで共に過ごし、イズナと生きた歳月より永くの幾星霜を重ねたとて、同じ重さの感情を向けられることは決してないだろう。その激情はイズナだけに許されたものだ。たった一人の掛け替えのない半身に捧げられ、そのためだけに誂えたものだ。誰も代わりになれない。きっと、イスゞはイズナだけを睨み続けてこの先も生きていくのだろう。

竹が鳴る音はもう聞こえない。
悲しいなあ、とカガミは誰ともなしに胸の内で何度も呟く。きっと、とても悲しい。イスゞも、イズナも。こんなもの、誰も報われない。誰も救われない。

「これからは二人だけの秘密だよ。カガミは良い子だから、ちゃんと秘密は守れるね」
「……は、い」
「ほら、もう泣かないで。そうだ、いつもみたいに指切りしようか」

やんわりと微笑むイスゞが慣れたように小指を絡める。驚いたように目を開いた。

「いけないね、手がとても冷たいよ。一緒に温かい葛湯でも飲もうか。可愛いあられが散ったの、カガミはあれが好きでしょ。大丈夫、すぐにあたたかくなるよ」

――そういう師匠の方が、ずっと冷たいのに。
きっともう、その手であたためてくれることはないのだろう。心が凍えてしまったから。あの人が持っていってしまった。
もう二度とあたたまらない冷え切った手を思いながら、カガミは俯く事しか出来なかった。


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