藍と嘘吐く
発端は初七日が済んだ日の夜だった。
イズナ、と兄が死んだ弟の名前を呼んだ。え、と惚けた声と共に振り返れば、兄は我に返ったように顔を引き攣らせていた。弟恋しさの余り、幽霊にでも見えたのだろうか。反応してしまった手前、今更聞こえなかったふりをするのも甚だ気まずい。どうかしましたか、と義務感を滲ませないように私が聞くと、なんでもないと言い捨て顔を背けるだけだ。踵を返して去る背中を私は黙って見つめていた。
何故貴方がそんな顔をするのか。したいのは私の方だ、――そう言えないのは相変わらず卑屈な所為だろう。
なんとなく、そんな予感はしていた。それでも知らないふりをしていたかった。すぐそこにある答えから目を瞑っていたのだ。だが、閉ざしていた目蓋を切られ、無理矢理網膜に焼き付けられたような、そんな気分だった。
二度ならば、間違いなのだと何とか流せた。私とイズナは本当によく似ていたから。最愛の弟を喪って不確かになった現で都合の良い夢に浸ることもあるだろう。
三度目で背筋が凍った。
四度と続けば流石に諦めた。
うちはマダラはどうやら可笑しくなったらしい。
兄の世界は弟の死で大きな空白が開いてしまった。その虚からさらさらと絶望が沁みていく。大きな洞が開いたものなど元の通りであり続けられる訳がない、掛かる重さに耐えかね壊れてしまう。弟がいない現実は兄が生きていける世界では無かったのだ。
「随分と散らかしたな」
「――にい、さん」
兄の声が鼓膜を刺す。我に返った。私は動転して僅かに固まったが、弟が呼んでいた呼称で咄嗟にそう応えられたのは、刷り込まれた自戒の所為だろうか。
「大した数だな。全部あの子への貢物か」
「ああ、まあ」
「取り分の報酬はほとんどを当て込んでたんだろう、お前も健気だな」
肯定とも否定とも付かない曖昧な声が喉から漏れる。兄は特段気にした風もなく、散乱した部屋に見入っていた。
矯めつ眇めつ眺めては、時折感心したように息を吐く。見かけによらず兄は綺麗なものを大層好む節がある、恐らくはこの咲き乱れる色とりどりの衣たちを気に入ったのだろう。
イズナの部屋を整理するにあたり、生前買い集めていたらしい着物の処分に取り掛かっていたのである。堅牢な桐箪笥に行儀よく積まれた帖紙は出せば出すほど湧いてきて、いつの間にか部屋中を極彩色に染めていた。思うままに散らかしてしまったものだから、城下の呉服屋を引っ掻き回しでもしたかのような具合だ。
兄につられ、私もゆるゆると周りを見渡す。
壮観だった。
金の文様、銀の文様、螺鈿の文様。
百花の王、流水、花喰鳥、宝尽くし。紫苑に棚引く金彩の雲、山吹に踊る銀彩の扇。
翡翠の綸子に菊が散り、瑠璃の縮緬には蝶が舞う。絞りの小紋が横たわり、友禅の振袖がしなを作る。金襴緞子の袋帯が衣紋掛けではらはらと揺れていた。まるで錦織り成す洪水である。
こんなにあったのか、と思わず私が呟くと、他人事かと笑われた。
「いくら俺達が言っても、ちっとも着やしなかったからなあ。こんな時節じゃなければ、もっと娘らしく着飾ってたんだろうが」
「さあ、どうかな。どうせ同じじゃないのか」
数日前から、兄は私のことを死んだ弟だと思い込むようになった。兄の中であの日死んだのはイスゞだったのだ。
当たり前のように弟の名で呼ばれ、彼の通りに振舞う事を望まれる。あからさまに拒絶する素振りは見られなかったが、私が普段通りの口調で話していると、寂しいのか、とそう悲しげに言われた。兄の中では、半身を喪った恋しさから自分に亡き最愛を重ねて振舞う哀れな弟に思えたらしい。その瞳に滲むのは何処までも深い慈しみだった。
恐らくは。今も姉の形見を愛しんでいるようにでも見えているのだろう。
――無茶苦茶である、意味が分からない。馬鹿げている、と率直に思った。
私はとうにイズナの死を受け入れていたし、そもそも悲しい訳でも無い。いくら身内の死が辛いとはいえ、都合の良い夢物語に付き合わされるのは御免被る。いい加減目を覚ませ――、とその一言を突き付ければよかったのだろうが、現実を見せたところでどうなるのだ、と思えば言葉が続かなかった。
兄はイスゞを必要としていない。今この場で求められているのはイズナだけなのだ。それに、それは何も兄のマダラに限った話ではないだろう。戦力や一族内での役割、これからの行く末を踏まえた時、求められているのは一体誰か。考えてみるまでもない事だった。
今更ではあったのだ。生まれた時からそうだった、それだけの事なのだから。本来、私は弟の身代わりとして生かされていただけであり、今までイスゞとして生きてこれたのはイズナがいたからこそだった。あの子がいなければ儚い存在価値など消えてなくなり、イズナとして生きることを望まれるのは然り。今更必要としてくれる者など誰一人としていない、とっくの昔に分かっていたことではないか。
失望と諦観、私の人生と言えばそればかりだったように思う。何かを期待することがあっても、それが満たされることなど有り得ない。怒りでも絶望でも何でもいい、沸き立つ感情を糧として発憤なりをすれば多少なりとも変わったのかもしれないが、私はいつも諦めるという逃げの道を選んでしまう。忌み子として生まれてしまったこと、弟に敵わなかったこと、女として生きられなかったこと、弟に先を越されてしまったこと。考えれば考えるほど溢れてくる。
希望を失い、そして藻掻くこともなく諾々と諦めた。人並みに怨嗟だけを募らせ、恨めしげに呪詛を重ねるだけで自ら何かをしようともしない。望もうともしない。なんと惨めな生き様であることか。
無価値というのだろうな、と自分の一生を振り返って茫漠とそう思う。
こんなどうしようもない愚物を求めたのは、たった一人の半身だけだったのだから。他の誰からも必要とされない人間だった。その弟がいなくなった今、生きている価値を見出せなくても仕方ないだろう。
ただ、ある意味で救いでもあったのだ。イズナがいない今、兄と何を話していいのか私には、イスゞには分からない。今まで辛うじて均衡を保っていた兄妹の関係は、思えばイズナを介して遠慮がちに確かめ合うぎこちないものだった。イズナとは屈託無く笑う兄は、いつも私には他人行儀に距離を置く。その真意は分からなかったが、イズナと比較されて育った私にとっては決して心地の良いものではなかったのだ。
兄のことは尊敬している、うちはの頭領として信頼も置いている。だが、きっと私はイズナほど愛されてはいないのだろう。本家の名を汚す出来損ないを心の底では厭うているに違いない。兄が向ける優しさは、同情と義務から嘯いているだけではないのか――そんな、猜疑に塗り固められた視線を向ける。
その度に卑屈な自分を嫌悪した。烏滸がましい。一体それの何がいけないのか、例え欺瞞であろうと慈悲を以て接してもらっている以上は満足すべきだろう。慈しみ深い兄に向ける感情は、終わることの無い自己嫌悪の繰り返しだった。
「この着物、どうするんだ」
「え、ああ……」
脳髄に巣食う泥海へ揺蕩うに任せて思いを巡らせていたところ、兄の声で我に返った。俯いていた顔を上げる。外から差し込む光に着物が照り、目がちかちかと眩んだ。
「どうしようもないだろ、全部燃やそうと思ってる」
「燃やすって、お前――」
「もう誰も着ないんだから、取っておいたところでね」
そう言いながら、私は手元へと視線を落とす。
花霞の薄鼠をけぶる桜吹雪が染め上げる淡い夢のような春の衣。
清流のせせらぎのような水の色に涼しげな柳葉が揺れる夏の衣。
十五夜の夜長を思わせる黒紅に、吹き寄せが静々と散る秋の衣。
新雪と紛うばかりの輝かしい白練と椿の真紅が艶やかな冬の衣。
どれもこれも見覚えがあるものばかりだった。だが、結局一度も袖を通さなかった。通せなかった。溢れ返る五彩の中で仕付け糸を解いたものなど、いつかの秋に気紛れで着付けた小袖くらいだ。
着物ばかりではない。帯に小物、簪や櫛。果ては仕立てていない反物までもが、抽斗を開ければ開けるだけ敷き詰められている。試しに一本取って見てみれば、色鮮やかな手毬が愛らしい桃花色の一反だった。
私は僅かに眉を顰める。――凡そ似合わない。それが分かり切っているのに、私が本当に好む柄といえば、元来こういった夢見がちなものなのだ。余りにも見た目とそぐわないものだから気後れしてしまい、長じてからは全くひた隠しにしてきて久しい。いくらなんでも忘れただろうと思っていたが、まだ覚えていたのか。
下らない。本当に詰まらないことまで逐一覚えているものだ。
私は弾き飛ばすように手を離した。反物は床へと転がり、新しく彩りを添えていく。兄が非難がましく声を上げた。
「勿体無いだろう。目利きなんて出来ねえからよく分からんが、随分と値が張ったんじゃないのか。そうでなくとも、あの子に似合うものをわざわざ見立てたんだろ」
「だからだよ」
どれもこれも、とんだ重荷である。これらはイズナから掛けられた呪いの集積だ。四肢に絡みつき、沈黙する沼底へと沈めていくような。堪らない、居た堪れない。全部残らず燃やしてしまえ。早く灰になるがいいのに。
――俺の我儘だから、だっただろうか。初めて着物を贈られた時の言葉は上手く思い出せない。ただ、不安を押し殺し、祈るように呟いていた事は覚えている。普段勝気に振る舞っている弟の瞳が潤うように揺れていたものだから、断ることも突き返すことも出来なかったのだ。それが、唯一袖を通した秋の着物だった。
それをずっと後悔している。あの時ちゃんと目を合わせて諭してやればよかった。返すべきだった。それは私のものじゃない、相応しくない。他の誰かに贈るべきものなのだ、と。
イズナが、私にとって分不相応な着物を捧げるようになった契機など分かり切っている。自分の身体についてあの子に打ち明けてしまったからだ。言わずにいれば良かったものを、骨になるまで抱えていくべき秘密を共に背負わせた。女として生きたいなどと言ってしまった。一人で抱えて生きていくには重過ぎたから、少しでも楽になりたかったのだ。
また、勝手な私は一つ期待をしていた。弟が間違った恋情を抱いていることに気付いていたから、それを諦めてくれればいいと思っていた。本当は女でも男でもない化け物なのだと。愛する価値すらないと蔑んでくれればいい、それで私は救われる。
行き過ぎた愛情は時として相手を残酷に拒絶するものだ。イズナの中にある私と現実の乖離から、失望してほしいと願っていた。自分で突き放すのではなく、イズナ自身から離れていってくれることを期待していたのだ。
単なる卑怯者だ。私はただ逃げるだけで、結局一番最悪な結果となってしまったのだから。イズナは行き場の無い私を愛せるのは自分だけだと思い込み、一層執着を拗らせてしまった。それでも愛していると言われた時の絶望など、言葉にするまでも無いだろう。
この着物達はイズナの覚悟だったのだと思う。女として生きることを望むなら、自分だけはそれを祝福する、と。夢の象徴のような煌びやかな祈りを贈り続けた。決してそうは生きられない私に、女であることを望んでくれた。傲慢で自分勝手な弟らしい残酷な祝福。私にとっては身に余るほど優しい呪詛だった。
ぎしり、と。掌中の着物を握り潰す。引き攣れるように皺が寄った。
「こんなものは全部燃やすべきなんだよ。兄さん、小袖の手って知ってるか。思いが籠った着物はね、化けるんだ。情念が凝り固まって祟るんだよ」
「だが、これはイスゞの為に……」
「違う――、イスゞのものなんかじゃないッ!」
――違うちがう、と思わず血を吐くような唸りが喉を裂く。頭を掻き毟る。嫌な音を立てて数本の髪が指に絡み付いた。
私のものなんかじゃない、私が欲していいものじゃない。
きちんと手折ってやるべきだった。千々に絡まった感情を解きほぐして、手放してやるべきだった。こんなに咲き溢れるほどの思いを募らさせるべきじゃなかった、全部灰にしてやるべきだったのだ。
拳ごと叩き付ければ、華美な死皮はふうわりと空気を孕み、いとも容易く打ち据えられる。まるで幽霊のように手応えなど無い。全てが空虚だ。
イズナ――、と声にならない叫びを私は噛み殺す。噛み締めた唇からは血が滲み、生温い味で口腔が染まる。
もう決して届かない名前。もう何の意味も持たない言葉。呼んだところで弟はいないのだから。
いつだって呼んで応えないのは私だった。
姉さん、と愚図ったように呼ぶのは弟で。側にいたい、イスゞと一緒がいい、と駄々を捏ねるのは決まって甘えん坊の末弟で。聞き分けの良い私は我儘なんて言わないから。俺ばっかり好きみたいで不公平だと、まるい頬を膨らませてよく拗ねていた。
冷え切った納戸で寝起きしていた私のもとに夜ごと来て、一緒に寝ると譲らなかったのはイズナだった。人一倍寒がりで、すぐに風邪を引いてしまうのに。冷えた心をあたためてくれたのは、他でもないあの小さなぬくもりだった。小さなちいさな掌だけだった。私はそれに甘えていたのだ。
だから、きっと罰が当たったんだろう。
呼んで応えてもらえないのが、こんなに辛いだなんて知らなかったよ。
――今更だ。本当にしょうがない、と弟はいつものように笑ってくれるだろうか。
「――、イスゞ」
「…………」
兄が息を飲む気配。私は睨め付けるようにそちらを見上げた。
「イスゞ、ああそうだ、違う――、イスゞじゃない、イズナだ。死んでしまったんだ、あの子はもう。すまない、許してくれイズナ、イズナっ――」
狂ったように兄は最愛の名を叫ぶ。最早私が呼ぶ事すら戸惑う名前を、いとも簡単に口ずさむ。――腹立たしい、と。その瞬間、鮮やかなまでに感じたのだ。
頭を抱えて蹲る兄は、泣き喚く幼子のようだった。なんて弱々しい。最強と誉高いうちはの軍神がこれほど取り乱す様など、恥も外聞も無いだろう。叶うなら見たくはなかったというのが本音である。酷く冷ややかな目で私は見下ろしていた。
――嗚呼、腹が立つ。
まるで無様な自分を見せられているかのような嫌悪感。恐らく、私は弟よりも兄に似たのだろう。見た目だけは弟と瓜二つだったが、中身は全く似ていなかったのだから。
なんだか、酷く五月蠅い。苛立つことすら億劫だ。狼狽した者がいると却って頭は冷えていくものだが、火の粉を上げていた火焔がしんねりと熾火へと変わるように、私はすっかり落ち着いていた。
深々と息を吐く。音も立てず立ち上がって兄の側に寄り、顔を覗き込むように座り込んだ。耳元に口を寄せ、猫撫で声で囁きかけるは死人の言葉。
「兄さん」
兄の肩が痙攣する。か細く震える肩に、私はそうっと手を添えた。
「可哀想に、優しい夢から覚めてしまったね」
「イスゞ、違うんだ。俺は正気じゃ無い、可笑しいんだ。許してくれイスゞ、俺をどうか許してくれ。ごめんな、兄さんが悪かった。お前に、俺はなんて事を――」
「いいんだ兄さん。イズナでいいよ、それでいい」
私は宥めるように続け、震える兄の背中を優しく撫でた。手のかかる弟で慣れているのだから弁えたものである。何の苦も無くこの掌は慈しみ深く振る舞うのだ。わざとらしさなど露ほども無い。ありもしない母性と嘯き、偽りの母を演じている。
何も兄を慮って吐いた甘言ではなく、真意は酷く冷静だった。偏に、一族の長がこんな狂気に取り憑かれていては困るからである。この不安定さではイズナの弔い合戦など馬鹿な事を言い出すに違いないだろう。うちはにはそんな戦力などもう残されてはいないというのに。
休戦協定の書状が改めて送られてきたと聞いている、そろそろ潮時なのだ。千手と手を結び、しめやかに生きていく。それしか我々が生き残る道は残されてはいない。
生きなければ。なんとしても生きていかなければ。死んで骨は光るまい。例え這いずり回るようでも、それでも私は生き残らなければ。
憎い弟がいなくなって、漸く息が出来るようになったのだから。今更合わせる顔すらないのだから。イズナの魂が擦り切れ、私を忘れて別の誰かに生まれ変わる終末まで、この地獄で息をする。私は此処で生きていく、そう決めたのだ。
だというのに、肝心の兄ときたら死んだ筈の妹へと謝ってばかりである。完全に現へ戻ってしまったらしい。優しいが故に最後の最後で狂い切れないのだろう、いつも迷いが生じてしまう。
今はこれ以上イズナとして振る舞ったところで無意味だろう。難儀だが仕方が無い、と。私は緩く嘆息を漏らした。
「お望みなら、夢の続きを見せて差し上げますよ。幻術での洗脳と支配は私の十八番でしょう。これだけは兄様やイズナよりも一等得意でしたからね、どうされますか」
「止めてくれイスゞ。もういい、もういいんだ……」
「そうですか。残念ですが、兄様がそう言うのなら」
あっさりと私が引いたので、兄も多少落ち着いたのだろう。訝しげな目でこちらを見返した。
「そんなに警戒しないでください。何もしませんよ」
「だが、……。いいのか、お前は俺を憎んでいるのだろう」
「私は一度も兄様を憎んでなどいませんが、何故ですか」
「……何故って、イスゞ、俺はお前をイズナの代わりとして――」
「それは正しい事です。私は元々イズナの身代わりだった、そうでしょう?」
兄の言葉に被せるように私は言葉を継ぐ。唇に仄かな笑みを含みながら続けた。
「それに、兄様はあの子が大好きでしたからね」
一瞬の間が開いた。兄が目を眇める。
「お前だって、そうだろう」
「私ですか? ええ、そうですね……、双子といえど私も姉です。いつまで経っても甘えん坊で手の掛かる、可愛いかわいい愛し子でしたよ」
「それだけなのか」
「どういうことでしょうか」
「……イズナは、お前を愛していた」
呻くように吐き出された言葉に、何も言わず兄を見返す。麗しい姉弟愛、という意味合いで言われたのではない事くらいは容易に分かる。本来ならば愛情とは尊ぶべき営みなのだろうが、血の繋がった私達にとっては所詮忌まわしく醜怪な罪でしかない。
兄は全て知っていたのだ。ならば、誰よりも弟を愛していた彼にその咎を責められるのは必然だろう。今更申し開きなどする気はなかった。続く言葉をただ待っている。
「人の道から外れようが、それすら構わないほど」
「ご存じだったのですね」
「……信じたくはなかったがな。違ってほしかった」
余りに苦しげな声だったので、私は思わず目を伏せた。
「あいつが倒れてから、最期に抱かせてやったんだろう。それが却ってイズナを苦しめたんじゃねえのか、そう思うと不憫でならん」
「それは、イズナが?」
「違う、お前だイスゞ。お前に決まってるだろ」
「……私?」
「イスゞ、お前はどうしてそんなに自罰が過ぎるんだ。イズナは、お前を犯したんだぞ」
近親相姦という罪で仮にどちらか一方だけが責められるべきならば、それは私とイズナのどちらなのか。ある側面から見れば、弟の狂気に付き合わされた哀れな姉に見えるのかもしれない。獣のように貪り尽くされ、何度も熱を注がれた。受け止める側はいつだって辱められる側である。
何もそれだけではない、生臭い欲を孕んだ視線に始終晒され続けていたのだ。生家の中ですら気が休まらない、そんな日々は考えるまでもなく地獄だろう。血の繋がった実弟から劣情を向けられるという現実に耐えかねて、自らを歪めてしまったというのは存外据わりが良い。
確かに拒もうと思えば拒めたが、精神の均衡でいえば私はイズナに逆らえないような弱い立場であったのだから、凌辱されたと考えても自然だろう。決して弟を突き放さない良い姉である事だけが、私の存在理由だったのは紛れもない事実なのだ。
――などと、冗長な言い訳を考えたが、いくらなんでも与太が過ぎる。頭を振った。流石に弟一人を鬼にする気は無い。
「力尽くではなく合意の上ですよ、何も強姦された訳ではありません。どちらか一方だけが責められる話なのでしょうか」
「だからこそだ。イズナを思ってやった事が結果的にあいつを苦しめたのだと思うと――お前が余りに報われねえ。実の姉弟同士での交わりなど、いくら可愛い弟だったとはいえ受け入れられんだろう。イスゞにそうまでさせたイズナを憎んでしまいそうで、それが怖い」
確かに、私が身体を許したことで弟は自分を責め苛んだだろう。臨終の言葉がそれを物語っている。――生まれてきて、ごめんなさい、と。自らの行動に痛々しいほど覚悟を決め、一度も謝罪を口にしなかったあのイズナが、最期に許しを乞うて死んだのだ。
なんて酷い当て付けだと、あの時感じた。どんな言葉より責められた気がした。私は一生自分を許すことが出来ない。イズナの代わりになれなかったばかりか、死ぬ間際まで苦しめた。恨めしいとは思っていたが、懊悩に泣きながら嘆き苦しんで死ね、と烈しく憎悪していた訳ではない。
確かに妬ましかった、憎んでいた。一片の後ろ暗さも無く愛そうと努力した、それが出来なかった。醜いところも真っ当でないところも全て、真っ直ぐに受け止めてやれなかったのだ。
「一族の為に、――いや俺の為にイズナは死んでいっただろう。優しい子だった、誰よりも優しい子だった筈だ。なのに、俺は今更イズナを蔑んでしまいそうになる。そんなもの耐え切れると思うか、許されると思うか?」
「……それで、あの子に向き合えなくなったのですか」
「嗚呼そうだ、認められなくなった。俺が願うイズナの理想と現実の差を受け入れられねえんだ。――本当にすまない、全て俺の弱さの所為だ。
悪い事をした、向き合うべきは生き残ったお前なのに、それなのに苦しめてばかりだ。
頼むイスゞ――、どうかこの愚かな兄を許してくれ」
そう言って弱弱しく項垂れる兄は、泣いているようでもあった。私はその背中を俯瞰している。
――嗚呼なんだ。結局同じではないか。
溢れる嘲笑は兄に向けてでもあり、単なる自嘲でもあるのだろう。瓜二つの葛藤を抱えていながら、許しを乞うなど片腹痛い。許しを乞うべき者など此処にはもういないではないか。
せめて、霊魂というものがこの世にあるのなら。今この場にいてほしいと私は思ってしまう。だが、誰よりそんな胡乱な事を信じていなかった弟が化けて出るなど、それこそ滑稽だった。
イズナは今、どこにいるのだろう。
地獄だろうか、極楽だろうか。
地獄は漠然と思い描けるが、対極にある極楽など私には縁遠過ぎて輪郭すら碌に分からない。最も安らかな場所であると考えるならば、私にとっては即ち何もない虚無なのだが、それは流石に違うのだろう。
美しいところなのだろうか。とりどりの花々が咲き溢れ、煌びやかな彩雲が空を染め上げるような。
すっかり目に入っていなかったが、周りを見渡せば余りに美しい絶景である。陽が傾き、冬の澄み切った黄昏が極彩色の洪水を燃える紅に変えていた。
黄金の文様、白銀の文様、瑠璃の文様。その全てを業火の影が彩っている。
朱い火のような、蒼い炎のような。まるで此処は火の海だ。私達が操る火遁をも想起させる、そんな美しくも悍しい。地獄の業火はかくもあらん、そう思われた。
しばしの間黙りこくっていたが、項垂れる兄を再び見遣る。兄様、と呼び掛けると兄は顔を上げた。
「何も分かっていませんね、兄様はいつもそう」
兄が何か言いかけた気がした。構う事なく私は続ける。
「都合の良い夢を捨て切れない、それに狂うことも出来ずに半端に惑ってばかりいる。その所為でものの本質が見えなくなって、いえ――、見ようとしていないのでしょう。
兄様、貴方は善人です。罪深いほど優しくて甘い方。人には善性があるものだと信じ、信じたいと願っている。この世界は美しく尊いものだと諦め切れないのです。
私達はずっとその事を憂えていた。貴方のその途方も無い甘さが仇となり、いつか身を滅ぼすのではないか。優しいからこそ悩み、果てのない辺獄に自ら堕ちるのではないか。イズナは一等それを恐れていたから、だから千手などと手を結ばせたくなかったのですよ。
イズナの眼には此処も地獄に映っていた筈です。あの子は迷いがありませんでしたからね、綺麗なだけの夢など見ませんでしたよ。どうでしょう、呪いが凝った水晶体を通して見ても変わりはありませんか。この世界は美しいままでしょうか」
「…………」
「頑なに見たいものを信じて、自分をも欺いて無知でいる事は時に楽です。ですが、そういう人をこの世では何と言うか知っていますか。それはね、兄様――愚か者と呼ぶのですよ」
「……すまない」
人の事は言えないが、兄は謝ってばかりである。言い慣れた言葉はイズナが酷く嫌っていたものだ。確かに、と今となっては私も思わずにはいられない。自らを慰めるだけの卑屈な言葉。なかなかどうして無意味である。
「困りましたね。私に謝ったところでどうにもなりません。兄様と私は所詮同じ穴の狢。不本意と思われるかもしれませんが、私はどうやらイズナではなく兄様に似ていたようです」
「イスゞ、……」
「それに、謝るべきは――、私ですから」
謝るべき相手には、もう二度と届かないけれど。
「兄様には私がいつまでも弟思いの良い姉に見えていたのでしょうか。私達は仲の良い双子、それもまた貴方にとっての事実なのでしょう。
でもね、私はあの子を恨んでいた。愛していなかったの」
瞠目した眼が私を見つめている。その眼球は弟のものだった。夜の湖のような潤んだ虹彩には弟によく似た顔が写り込んでいる。黒い水鏡を見据えながら、決して言えなかった恨み言を滔々と続ける。
「私には、イズナが許せなかった。許せる筈なんてないよね。人の道を外れるなんて、そんな悍しいこと。許せなくて、どうしても許せなくて憎くて仕方なかった。
あの子はね、血の繋がった姉を愛したりなんてしないの。抱きたいなんて思わないの。そんな穢らわしい事はしない、相応しくない。
誰よりも完璧でいてほしいのに、それを壊すのが私だった」
「なら、どうして……。どうして、あんな事を――」
「どうして? さあ……、どうしてだと思いますか」
口の端を歪めて私は笑う。嘲り、蔑み、そんな泥濘んだ感情が灰汁のように湧き上がる。
「進んで誰かに抱かれる理由なんて、女にしろ男にしろ一つしか答えは無いと、私は思いますが」
「……イスゞ」
「兄様は勘違いしている、イズナも多分そうだったのでしょう。……私が演技しているとでも思っていたのかな。あの子も存外自罰的な子だったのですね。
仕方無く抱かれたんじゃない、私が頼んだのです。イズナに、――実の弟に、抱いてくれって強請ったの」
肌を晒して跨り、血の繋がった弟を淫売のように誘ってしまった。兄が知る筈もない。あんなに乱れて善がり、浅ましく淫らに強請って。今更無理矢理だったなどとは誰が言えるだろう。
最後に耐え切れなくなったのはイズナではない、私なのだ。私があの子を狂わせた。
「同情でも義務でも何でもありませんよ。単に私が抱かれたかっただけです。だって、私は――」
愛していたから、そう言えたのなら少しは耳障り良く美しい話になったのだろうか。私は声もなく失笑する。
「堪らなくイズナを恨んでいたけど、憎み切れなかった。愛されて嬉しいと思っていたんです。矛盾しているでしょう」
――どうして生まれてきてしまったのか。
死んでしまえ。頼むから死んでくれ。
どうか、もう二度と生まれてくるな、と何度も祈っていた。
何も悪く無い弟に嫉妬ばかりを募らせ、心の底で妬んでいる。純真なイズナは誰からも愛されるような愛らしい子だったのに、私だけはずっと疎ましく思っていた。自分がそんな醜い人間なのは分かり切っていたのだから、誰からも愛してほしくなかったのだ。
私は何よりも惨めな自分が嫌いだ、心の底から厭わしい。
だから、せめて弟だけは完璧でいてほしかった。いつしか澱んだ嫉妬に移ろってしまったが、イズナに憧れていたのは本心だったから。だのに、私が焦がれ近付きたかった至高が、あろうことかこんな出来損ない一つに何よりも依存していたのだ。あまつさえ心の底から愛してしまっていた。たった一つの、それでも致命的な瑕疵である。
気付いた頃には泥沼の底、身動きひとつ取れずにいた。どうする事も出来なかった。
その瞳に宿る恋慕に気付いた瞬間、それは違う人の為のものなのだ、私のものではないのだと目を見て諭し、一緒に捨ててやるべきだった。掌の皮が焦げ、皮膚の底まで焼け爛れようと、この手でにじり消してやるべきだった。灰すら残さないように拭い去ってやるべきだったのに。それを分かっていて、私は見ないふりをしていたのだ。
種を残す為に生じる愛情が本能ならば、それが叶わぬと分かった末に残った感情は何なのだろう。例え決して報われないと、人倫に悖り許されざると分かっていても、それでも捨てきれない感情は何なのだろうか。
ただの獣欲だと人は言う。狂気なのだと道理が誹る。
愚かしい罪だろう、責められるべきなのだろう。
だが、それは余りにも直向きではないだろうか。
誰からも愛されたいなどとは思っていなかった筈なのに。思ってはいけないのに。
欲が出た。
欲しいと思ってしまった。
狂おしいまでに純粋な愛を嬉しいと思ってしまった。
私は女だ。子が産めずとも、本当は男でも、どこまでも弟とは違う一人の女でありたかった。母として生きたかった。本当はそうやって誰かに愛されたかったのに、ずっと嘘を吐いて自分を守っていた。
叶うはずもない夢を誰より望んでくれたのが、一人の女として愛してくれたのは他でもないイズナだけだったから。それに甘えて、私が地獄に引き摺り堕とした。
「自分の欲に付き合わせて、イズナを傷付けたのは他でもない私です。
――私の所為なんだ。あの子がどう思うか、あの子がどれほど悩むか考えてあげられなかった。自分の事しか考えられなかった。本当はあの時手放すべきだったのに。
それが、――それが出来なかったからッ!あんなにも苦しんで死んでいった!」
今更悔やんだところで、どうする事も叶わない。そう分かっていながら、この喉は未練がましく悔恨を絞り出す。
「最期の言葉を兄様も聞かれたでしょう。何の悔いも無く安らかに死んだんじゃない、最期の一瞬まで悶え苦しみながら死んでいった」
「……やめろ」
「兄様、貴方が一番愛していた弟を私は呪ったの。同じ地獄に落ちろって、道連れにしてしまった。こうなる事はとっくに分かっていたのに、それでもあの子を手放せなかったから。その所為で、死に際まで悩ませて苦しめ続けた。
ねえ、恨むべきは誰?あんな罪を犯した穢れた人間が、あの子の代わりに生きていていいと思う? 許される筈なんてないよね」
「もう止めろ、イスゞっ! もういい、イズナは死んだ。今更お前を恨んで何になる、イズナが返ってくる訳も――」
はたと兄が口を噤む。
「――お前、まさか」
「イズナが死んだ事を受け入れられないのは、何も兄様だけじゃない。私だってそうだよ。私だけが生きていて、どうしてイズナが死んじゃったのかな。どうして、私じゃなかったんだろう」
逆ならば良かった、そんな簡単な事ではないのだろう。生まれ落ちた事すら間違いだった私が、正しい道を歩めたとは思えない。だが、どうしてこうも間違いばかりを選んでしまうのだろう。賢い弟ならちゃんと正しく選べたのだろうか。詮無い事なのに、どこからやり直せば良かったのかと私はつい考えてしまう。
突き放せば良かったのか。生まれて来なければ良かったのか。何を正せば、どこから間違えなければ、あの時イズナは生きると言ってくれたのか。
もしも子供を宿せる身体であったのなら、今度は私が産み直したい。全てが狂うその前まで、母の胎内で出会う前まで戻って、もう一度此処に生まれてきてほしい。
弟には生きていてほしい。私よりも、ずっと大切な半身だから。
愚かな私の願いといえば、今も昔もそれだけだった筈なのに。そんな簡単な事が私には素直に願えなかった。たったそれだけの事が言えなかった。私とイズナは余りにも違い過ぎたから。嫉妬して、屈折して、遠回りして、果てはこんな終焉になってしまった。
「せめて代わりになりたかった。だからね、私がイズナになるよ。私達は双子だから、きっと上手くやれる。兄様はそれを黙って見ていてほしいんだ」
「止めろ、やめてくれイスゞ。頼むそれだけは、――止めろっ!」
「どうして?イズナの我儘は聞いていたのに、私のは聞いてくれないの? イスゞはずっと良い子だったでしょ、我儘なんて言わなかったよ。一つくらい聞いてくれてもいいのに。
兄様は一等大事な目をもらったから、残りは全部私のもの。あの子の人生を私が貰う。ね、いいでしょう?
それに、――」
――兄様だって、どうして私じゃなかったんだってずっと思っていたよね。
兄の耳元でそう囁く。青褪めた顔を私はうっそりと微笑んで見返していた。色の失せた唇を戦慄かせ、なり振り構わず兄は叫ぶ。
「違う、違う違うちがう――!違うんだイスゞ、俺は――」
「――嘘吐き、一度も私と向き合おうとしなかったくせに。今更どうしてそんな嘘を吐くのかな」
真っ暗な双眸には仄暗く光る万華鏡が映り込んでいる。その紅い光が僅かに細まった。次いで繊月のように弧を描く。弟が会敵した際に見せる笑みに、我ながらよく似ていた。
「俺達の邪魔をするくらいなら、――大人しく夢でも見ててくれ、兄さん」
散らかさなければ箪笥ごと燃やせたのだが、やってしまったものは仕方が無い。私はいつでも計画性というものが貧弱で大雑把である。
散乱した着物達を黙々と集め、庭先へと運び出す。行きつ戻りつを繰り返すこと幾度か。全て積み上げた時にはすっかり宵の口になっていた。美しかった錦も日が暮れた中では薄墨に染まってしまい、見慣れた藍の装束と何ら違いはない。ぐったりと力無く横たわり、却って見窄らしく見える程だ。
ただ、火を灯せば揺らめく火影に彩られ、身悶えするように燃えていく様はこの世のものとは思えないほど美しかった。ゆらゆらと燻る陽炎に輪郭は曖昧になり、極彩色が溶け合っていくようだ。爆ぜる火の粉は金粉よりも鮮やかに、ちらちらと輝いている。
正絹は燃やすと人が焦げるような悪臭がする。嗅ぎ慣れてはいるが、決して心地良くはないそれすらも気にならない。一度に燃やしてしまうのが惜しい気がして、粗方燃え尽きた頃に新しい着物を焚べるというのを繰り返していた。
「ああそうだ。これ、どうしようかな」
そう言いながら、陶器の蓋をつるりと撫でる。これ、とは弟の遺骨のことである。順当に行けばイスゞとして葬られるのだろうが、私の名を冠した墓へと入れられ、冷たい土の下で忘れ去られるなど嫌がる気がした。だからといって散骨というのも粗雑だろう。ずっとそのままというのも忍びない。出来ればこの着物と共に、と思っていたが、これ以上燃やしたところで灰になりはしないのだから無為である。
私は暫く考え込み、一欠片摘み上げた。指先で砕けてしまいそうなほど白々と脆い。
「随分小さくなっちゃったね」
特に何の感慨も無く、その欠片を口へと放り込む。
卵の殻のようだった。かしゅり、と貝殻が砕けるような乾いた音がする。味がどうと言うよりも、儚いというのが似合うだろうか。少し喉に引っ掛かり、軽く咳き込んでしまった。
「うーん、食べられない事もないけど」
美味しくはないかな、と落日の名残を眺めて小さく呟きながら、私はまた一つ手に取った。
prev back next