優しい嘘に委ねて眠る


意識の向こう側で、何かが燃える音がする。
炎が揺らぐ光。爆ぜる音。立ち込める熱。
どこかで篝火が焚かれている。

昔から火焔の音色が好きだった。何故かと言えば、心が酷く落ち着くからである。
火遁を扱う者にとって何かが燃える音とは、命が焼けていく断末魔に相違ない。肉が崩れ、骨が爆ぜる。焔が揺らぐ時、決まって何かが、誰かが死んでいく。
マダラは確かに闘いを一等好むが、別段血を見るのが好きな訳ではない。武を誇り力を見せつける時に心は踊る。迷いなく鎧袖一触で相手を屠るが、それはマダラの性根が繊細だからこそだった。
少しでも苦しまないように、少しでも美しく幕が弾けるように。時には慈悲すら持って瞬きの間に首を落とす、骨まで灰にする。
仕留め損なえば苦しいだろう、半端に生き永らえれば辛いだろう。そう思いながらマダラは引導を渡すのであり、決して人が死んでいく様を見て愉悦に浸るという趣向を持ち合わせてはいないのだ。だのに、何よりも死と固く結び付いた火焔の響きが、一等落ち着く調べである。
子守の歌のような。母に抱かれ、その心音に耳を澄ませているかのような。火の奏でる音を聞き澄ましている一時だけは、腐汁で満ちたこの苦海が安寧に満たされたあたたかな海へと変わる。
――かあさま、
意識の一番深い底に押し込めた記憶が、在りし日の亡母を呼んでいる。この歳にもなり、未だにあのぬくもりが忘れられていないのか、と思うと滑稽で哀れでさえあるだろう。微睡みの淵でマダラは淡く自嘲した。

母はうちはの血を色濃く受け継いだ、類稀な麗人だった。
幼い頃に母親を喪うと、どうにもその面影が最も美しく思えるらしい。真直に流れ落ちる瀑布のような夜色の髪、冷たいまでに澄んだ白皙、性差をも超越した精緻な顔立ち。どちらかと言えば線の細かった父と似ているとも言い難い、家族の内では取り分け精悍な偉丈夫――ともすれば強面とも称される――マダラとは似ても似つかない、儚く嫋やかな人。夢のような、という形容は母の為にあるのだ、と埒もない事を思ったものだ。
幼いマダラは天人のような母が大好きだった。母はいつも甘く優しい香りで満たされていた。前線を退いた母は藍の装束を纏うことがなく、着ているのは上等な香が焚き染められた花の衣。その膝で眠ると、あたたかな体温と蕩けるような香りに包まれて、泣きたくなるほどに幸せなのだ。膨らんだ腹に耳を寄せ、母と一緒になってまだ見ぬきょうだいに語り掛ける、その一時が何よりも満ち足りた温い幸福を与えてくれた。

だが、幸せと言うのはいつだって長く続かない。
その欠片すら残さず浚われ、あっという間に消えてしまうように。
じりじりと永い時間を積み重ね、痛んで膿み腐りゆくかのように。
同じく壊れるのであれば、どちらの方がまだ救いがあるのだろう。
行き着く先は同じであるが、前者の方がまだ苦しみは少ないようにマダラは思う。美しいものが美しいままで。悲しいと心の底から惜しめる余白がある。悔恨も未練も何も感じる暇も無く、雪崩のように悲しみが何もかもを覆ってしまう。後に振り返っても、それはきっと悲しいだけの綺麗な思い出になりえるだろう。

果実が熟れて傷んでいく過程を延々と見守るような、そんな終焉だった。天人とて五衰する、いかに美しいものでもいつかは醜く衰え死んでしまう。母とのひそやかな幸せは、饐えた腐臭が漂うようにじぐじぐと壊れていったのだ。
死に際の母は、酷く醜かった。
おどろに垂れかかるみだれ髪、幽鬼のように色の失せた真白の膚、恐ろしく窶れて落ち窪んだ眼窩。元の造詣がなまじ整っているものだから、余計に鬼気迫るものがある。穏やかな声は酷く罅割れて、死んだ子達の名前をいつも叫んでいた。
元々それほど心根が丈夫な人ではなかったのだろう。いくら戦で散るのが忍として華々しい最期とはいえ、度重なる子供たちの死に堪え切れるような精神ではなかった、それに尽きる。三人目の弟が死んだとき、既に限界だった母の心はすっかり狂気に憑かれてしまったのだ。
その目には、もう決して生者は映らない。濁った眼球は亡霊ばかりを愛でている。母様、とうっかり呼ぼうものなら、己のものではない死んだ弟の名を猫撫で声で囁かれた。
それをマダラが否定すると、決まって癇癪を起して烈火のごとく喚き散らすのだ。結局は母が泣き叫ぶ度に父が幻術を掛け、無理やり意識を剥ぐように眠らせていた。

喚くだけではなく、大抵はそのまま物に当たる。酷い時はマダラ自身が折檻されることもあった。初陣を済ませ戦に出ていた身としては、元より衰弱していた女の力など大して痛くもなかったが、それでも他でも無い母親に罵られ、叩かれるなど尋常では無い。
だが、無残に痛めつけられて死んでいった弟達を思えば、多少の理不尽はマダラにとって苦ではなかった。責め苦のような日々も乗り越えられたのだ。いつの間にか流れる涙も枯れていた。

末の弟妹を産み、程なくして母は死んだ。死因は自死である。
首を吊った母を見つけたのはマダラだった。虫の知らせというものだったのだろう、その日は何かに呼ばれた気がして、普段は寄り付きもしなかった北の座敷へと足を向けたのだ。透き通る朝焼けが、東の空に音も無く滲み出す頃だったと覚えている。
ぶら下っている母を見たところで、何の感慨も湧かなかった。
――嗚呼死んでいるな。首なんて括るから死んでも汚い、と僅かに眉を顰め、嫌な気分になっただけだった。

マダラは醜い母を腹の底から嫌悪していた。憎んでさえいたのだろう。
マダラの母とは優しく美しい、在りし日の姿である。あの日の母はとっくに死んでいた。とうの昔に黄泉へと下った者が今更首を括ったところで何も思わない。のたくるような饐えた死は、悲しいとさえ思えないのだ。
葬儀で母の躯が轟々と燃えていく様を眺めていても、悲しいのか辛いのかよく分らなかった。やっと終わった、と安堵さえ覚えていたように思う。恐らくではあるが、母自身も死を望んでいたからだろう。

だが、その日の夜は久々に泣いた。いくら恐れ疎もうと、結局はあの人が自分達の母親であることには変わりなかったのだ。マダラはまだ良いとして、哀れなのは末の双子である。
こんなにも愛おしいのに、母は見向きもしなかった。
この子達さえいれば、もう一度あの頃の母に戻ってくれると思っていたのに。
叶うならば、愛されたかった。もう一度自分を見てほしかった。
何故ですか、母様。許せなかったのですか。
弟達を守れなかった、この俺を恨んでいたのですか。
母様、かあさま――。
生まれたばかりの弟妹を抱きながら、マダラは一頻り泣いていた。

所詮いくら虚勢を張ったところで、未だに折り合いを付けられている訳でもないのだろう。だからこそ、安らぎを覚えるあの音に、まるで母に抱かれているかのようだと今も思いなどする。全く、我ながら未練がましい。

ゆっくりと目蓋を開く。何かが爆ぜる音と、焦げる嫌な臭いがする。鼓膜に馴染んだ音と嗅ぎ慣れた臭気。
――人が燃える臭いだ。
思い至った瞬間、マダラは一気に覚醒した。一瞬戦場で意識を失っていたのかと肝を冷やしたが、目に映るのは見慣れた座敷である。障子に区切られた景色が赤い。そちらに視軸を転じると、めらめらと燃え盛る夕焚火の側に誰かが立っているのが見えた。
ゆらゆらと揺蕩いながら揺らぐ橙の火炎が、白い横顔を狂おしいまでに艶めかしく染めている。此処からでは障子や部屋の境界に切り取られ、一服の絵画のような眺めだった。凄絶なまでに美しい。
しばらくの間、マダラは声も出せずに魅入っていた。
傍らに置いたものを取ろうとしたのか、痩躯の影が僅かに屈む。起き上がったマダラに気付いたらしく、その細面を薄く綻ばせた。赤々とした陰影に彩られたふくらかな唇が笑う。

「ああ、やっと起きた」
「……すまん、どのくらいだ」
「半刻位かな。疲れていたんだろう、そういう事もあるよ」

軽い調子でそう続け、持っていたものを無造作に火に焚べる。ゆわりと泳ぐように燃え落ちるそれを見止め、マダラは思わず目を剥いた。

「お前、着物を燃やしてたのか。通りで酷い臭いがするわけだ」
「そうだよ、さっき言っただろう」
「……そうだったか?」
「忘れたのならそれでいい。どうする、折角だから一緒に燃やす?」

どの錦も目が覚めるほど素晴らしいものだと思ったが、マダラに着物の些細は分からない。良い色だ、高そうだ、くらいの児戯のような感慨しか浮かばないのだ。
美しいとは思う。だが、一枚としてその衣に触れることが出来ずにいた。マダラは小袖や小紋と言った多くの女が纏う着物が苦手、――有体に言ってしまえば怖いのだ。
美しい着物は母の衣だ。その衣から出るのは母上の手。枯れ木のように痩せた白い手首が袖口からぬうっと伸びて、弱いマダラを酷く折檻する。突き飛ばし、殴り付け、首を絞められる。擦り切れた筈の記憶が不意に蘇り、脊髄が軋むほどの恐怖に駆られてしまうのだ。
思わず口の端が歪む。――我ながら馬鹿げた話だ。いくら母との確執が拭い去れないものであろうと、着物に怯える道理になりはしない。現に今まで忘れていたではないか。
ただの何の変哲もない衣である。それに、これは母の遺品などではなく正しくは妹のものだ。弟が双子の姉の為に見繕った、健気な贈り物。幾らマダラとて頭ではそう分かっている。十二分に理解している筈ではあるが、――矢張り嫌なものは嫌である。

「いや……。それにしても随分だなあ、それは――」

一度マダラは口を噤んだが、何故戸惑ったのか自分でも分からない。
形見の着物。あの子の、愛しいはらからのものである。
死んでしまった、イズナの姉。マダラの妹。
弟が心から愛していた、分かち難い半身。
――イスゞ。
気の毒な娘だった。忌み子として蔑まれ、女として生きることも許されず戦に命を捧ぐ一生を強いられる。本当は恋の一つでもしたかっただろうに。
綺麗な衣を着て、淡い香りに包まれて、子を宿した胎を優しく撫でるような幸せを。

――嗚呼、でもそんなものは。
そんなことをすれば、イズナと違ってしまう。あの二人は同じでなければ。そうでないと、平等に愛することが出来ないから。

双子である弟妹は瓜二つだと誰もが言った。だが、マダラにとって、マダラにとってだけは本当は違ったのだ。
妹はイズナとそっくりだとマダラが言う時、それは自分への戒めであり呪縛である。
妹が本当に似ているのは弟なのではない、母なのだ。
イスゞは憎い母の生き写しだった。
せめて、あの子が男であってくれたなら、と。マダラは何度願っただろうか。それが叶わなかったから、――。
焼け残る罪悪感から目を瞑る。全ては、もう過ぎた事だ。

「イスゞの、大切な形見だろ」
「だからこそだ、……これも供養みたいなものだよ」
「そうか……。元はお前のものだからな、好きにするといいさ。きっとあの子も怒りはしねえよ」
「怒るも何も、人なんて死んだらそれまでだろ」

あっさりと言い切り、再び焚火へと向き直る。話はこれで終いだ、といった様子でそれ以上は話そうとしなかったので、ただ薪の爆ぜる音だけが沈黙を繕うように響き続ける。その囁きは相変わらず落ち着くが、弔いの火と思えばどこか切なく物悲しい。マダラは座敷に座り、しばらくは着物が燃える様を眺めていた。
ぱちりぱちり、と。炎の声が脳髄に渦を巻く。凝眸しているのと忘我である境目とは曖昧なものであり、一つの物事を眺め続けていると自分という枠組みが透明になった心地がする。朦朧とした自我が拡散する。
立ち竦む薄影は何も言わない。そちこちに湧き出し溜まった透明な夜の気配が輪郭を滲ませ、顔貌は酷く茫漠としている。まるで幽霊のようにかそけきもの、もしくは陰影のふちに生じる薄い影、―― 罔両もうりょうのようだ。火の影を見下ろすその横顔が立ち昇る陽炎と共に揺らいだ気がした。
不意に、言葉が口を衝く。

「俺にも、弔わせてくれ」
「……どうぞお好きに。いくらでもあるよ」

マダラは立ち上がり、裸足のまま庭先に降りる。その隣に至れば、障子に区切られて見えなかった西の空が視界に映った。燃えるような残照、透き通る宵闇、そして細い月が山の端に掛かっている。冬の静けさに満ちた、静謐で美しい眺めだ。
良い月だなとマダラが思わず呟くと、訝しむように首を傾げられた。暮れる夕陽ばかりに気を取られていたらしく、月が出ていることが分からないでいたらしい。そう言ってやると、得心した様子でどこか自嘲気味に笑う。
そして、人は見たいものしか見れないものだ、と呟いた。自らに言い聞かせるように、胸奥の水鏡と向き合っているかのような静かな声だった。

「――楽になるのは簡単だ、獣になればいい。人間であるから思い悩んで苦しいんだ、獣になってしまえばそれすらも関係無いだろう」
「それは確か……、外つ国の言葉だったか」
「そうだよ。まあ言うは易しだね、実際はそれが存外難しい。未練や葛藤、後悔、そうだな……愛憎もか、そう言うものを全部無くしてしまうんだから。
でも、俺はそうするよ、これからはそうやって生きていく。さて、――兄さんはどうする?」

嗚呼、イズナが笑っている。
自分の弟はこれほどまでに憂いを帯び、儚げに笑っただろうか。これほど美しかっただろうか。
その笑顔は、まるで――。

「……そちら側に行きたいが、中々遠いな」

囁きかける予感から目を逸らすように、マダラは一思いに焚火へと着物を投げ入れる。適当に拾い上げた一枚だったが、よく見れば妹のものではなく母の形見である艶やかな色打掛だった。これもイズナが管理していたのかと僅かに驚いたが、指先から滑り落ちた絹布はあっという間に火の粉を巻き上げながら業火に包まれていった。

燃えているのは愛憎だ。母と、そして引いては妹の。イスゞへの慈愛と、どうしても捨てられなかった一匙の厭悪。そして、全てを覆い尽くす程の烈しい自己への嫌悪感。
マダラが強ければ、弟達も死ぬ事は無かっただろう。母も今でも笑っていたかもしれない。何もかもが壊れず、美しいままで。
母への怨嗟は、弱き者に対する途方も無い怒りと憎しみ。
弱い者は嫌いだ。喪った者に囚われるばかりで彼等の生き様に向き合おうともせず、生きている者を蔑ろにする。いつまでも過去に拘泥し醜く縋り付き、何もかもを台無しにする。
母への憎悪は、弱い自分への嫌悪と表裏一体だった。
弟達も守る事が出来ず、母を救う事も出来なかった弱く醜い自分自身への。

忌み子として蔑まれる妹に、マダラは何をしてやることも出来なかった。
イスゞは何も悪くない。何の関係も無い。だが、余りに母に似過ぎていたものだから。
――か弱い女、だったから。
イスゞは母と同じ女だった為に、マダラは捨て切れなかった後悔を、救えなかった母への未練を必ず思い起こしてしまうのだ。その度に幼い日に取り残されたままの精神が咽び泣く。長じてから益々母に似た美しい女となった妹に向き合えなくなったのは、そんな手前勝手な理由だった。

嗚呼、着物が燃えていく。
菊が舞う。鶴が飛ぶ。鴛鴦達が燃え盛る焔に焼けていく。未練も後悔も何もかも、ただ灰になる。消えてしまう。
後にはもう、何も遺らない。

「どうか許さないでくれ、イスゞ」

以降、マダラはその生涯において、
妹の名を口にする事は二度と無かった。


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