見えざる思慕


ほう、と。微かな吐息が聞こえたので、カガミはその声に耳を傾ける。華奢な肩がひっそりと身じろぎする。浅い夢の中で誰かを呼んでいるような気がした。
薄く開いた唇から漏れるのは、遠い洞窟の奥から時間をかけて辿ってきたような息。どこか秘密めいていて物寂しい。より耳を澄ませると、休んでいた血流がどうどうと血管を廻る音が聞こえる。洞窟の息吹がひそやかなものならば、対して血潮の奔流は騒がしいほど生きている。――が、最後のは自分のものかと思い至り、カガミは計らずも苦笑した。
師の目覚めはいつも丁寧だ。ひかえめで、用心深い。どんなに凍てつく夢を見ていても、夢から醒める時は決まって惜しむように緩やかである。見ていた夢を胸に一つひとつ仕舞い入れ、厳粛に封をする。そして、注意深く息を潜める様に現の扉を叩くのだ。夢と現を混同してしまわない為に、それは欠くことの出来ない儀式だった。

どうやら、目が覚めたらしい。鼓膜に寄り添うように、酷くささやかな声で話し掛けた。

「お目覚めですか」
「……ああカガミ、来てくれてたんだ。気付かなかったよ、起してくれてよかったのに」
「いいえ。気持ち良さそうに寝ておられたので、お邪魔にならなくて良かったです」
「気を遣わせてしまったかな。それにしても、相変わらずこれをしていても起きたってすぐに分かるんだね」
「俺の特技ですので」

カガミの師は常に目隠しの布を巻いている。人前だけではなく家の中でも勿論のこと、それは眠っている時も。そのせいで目蓋の動きが隠れてしまうのだ。
だが、カガミには師が果たして眠っているのか起きているのかがすぐに分かった。具体的に何が違うのかと聞かれれば困る気がするが、強いて言うならば呼吸だろうか。昔から夢見が余り良くないらしく、眠りが浅い時の呼吸音は穏やかではない。何かに、責め立てられているような。まるで酷く糾弾されているかのように痛々しい喘鳴を息衝く。
そういう時は、決まって何かの悲しい夢を見ているようだった。只管に許しを乞うていたり、押し殺すように啜り泣いていたりする。酷い時では慟哭することもあった。
起きている時は感情の起伏が緩やかなのに、と思うが、寧ろその所為なのだとも考えられる。圧し込めた激情が夢の中でしか現れないのであれば、それは堪らなく生き辛い。凡そ休まるどころでは無いだろう。
きっと、一時たりとも気の休まらない半生だった。細い茨の糸が張り詰め、血みどろになりながらその上を爪先で歩いているような。例え本人が望んでいたこととはいえ、せめて夢の箱庭では安らかでいてほしいとカガミは思う。

ただ、今日の夢は嫌なものではなさそうだった。時折、幼子のように笑っていることがあったから。

「毎日悪いね。私の世話なんてたまにでいいんだよ、ちゃんと新米火影殿を支えてあげなさい」
「このやり取り、もう何度目ですか。ヒルゼンのお守は俺以外でも出来ます。いい加減観念して頂けませんかね」
「往生際は悪いのが、あの時代を生き延びてしまった弊害だね」

そう悪びれずに言うのだから、全く酷いものである。こんな遣り取りをする度、カガミはいつまで経ってもこの人には敵わないと思わされるのだ。
あの時代、命がひとひらの花片よりも軽かった戦国の時代だ。八百万の忍が徒花のように散っていった。幼かったが故もう朧げにしか記憶にないが、それは酷い時代だったと口を揃えて皆が言う。

その時代が終わり、実に二十年余りの月日が流れた。
うちはと千手の終戦によって齎された戦の終焉。無双とも恐れられた両一族が手を結んだことにより、諸大名同士の争いは徐々に沈静化していく。言わずと知れた、木の葉の里の黎明である。
柱間が初代火影となった以降は弟である扉間が補佐として付き従い、またマダラも柱間に次ぐ立場として長らく里の安定に尽力し続けた。彼が一族の内憂外患を執り成し、里の重鎮としてあり続けられたのは、唯一生き残った肉親の功績が大きかったと知られている。

兄に眼球を譲ったことにより盲目となったその人は、以降戦場に立つ事は二度となかった。里が興った頃に出家し、法体として主に戦災孤児や寡婦、傷痍により行き場を失った忍など社会的弱者を庇護する役目を担っていたのだ。
未成熟な共同体において、信仰によって引き出される帰属意識とは絶大である。政治の実権を握らずとも人心を掌握出来うる、非常に理に適った立回りだっただろう。信仰と洗脳は時に紙一重だが、得意のそれが遺憾なく発揮された結果である。決して腹の底を見せず、大いなる愛を嘯く。合理の鬼とも囁かれる扉間以上に抜け目が無く強かな人だと、カガミは常々感じていた。
だが、隠された意図はどうあれ、その滅私の慈悲は揺るぎないものだった。所詮は御為ごかしだ。袈裟など便利な隠れ蓑だと悪びれずに言っていたが、真実救われた衆生がいる以上、それは本物の救世ぐぜなのだ。排他的なうちはに向きやすい悪感情が薄れた一端は、かの人の分け隔てない姿勢だったとも言われている。

――うちはイズナ。今の木の葉において、その人の名を知らぬ者は誰一人としていない。無比の献身は武の伝説であるマダラとはまた違った意味でのうちはの生ける伝説である。
カガミはそのイズナ・・・に里以前から側仕えとして付き従ってきた。後年マダラは所帯を持った事もあり、息子同然として長年過ごしてきたカガミは実の身内以上に近しい間柄である。そしてイズナが病に臥せるようになって以降は、身の回りの世話や看病の一切を率先して受け持った。イズナの事情を知るカガミにしか許されない役回りでもあったのだから必定だが、それが何よりのカガミ自身の望みでもあったからである。二人だけの秘密というのは、時に狂おしいほどの陶酔を灯し続けてきたのだ。

「仰る通りですよ、猊下は本当に往生際が悪くていらっしゃる。そろそろ諦めて俺の家に住んで頂きたいですね」
「何言っているんだ、もうすぐ結婚するんだろ。カガミはとてもいい子だけど、こんな邪魔者を抱えていたら相手の方も流石に逃げてしまうよ」
「彼女と出会う前からずっと思っていましたよ」
「それこそ諦めが悪い。可惜若い燕を囲い込んだと笑われるのは御免被るね」
「どうでしょうか、囲い損ねてしまったのは俺かもしれません」

カガミが冗談めかして言えば、愉快そうに師は笑う。近頃では痛みに耐える表情ばかりになってしまったので最早どこか懐かしく感じられる、蕾が綻ぶような軽やかな微笑。今日は随分と調子がいいらしい。念の為、痛み止めはいるかと聞くと、大丈夫だという答えが返ってきた。

カガミは立ち上がり、縁側の硝子戸を開け空気を入れ替える。浮き足立つような麗かな風が澱みを浚った。あわあわと眠気を誘う春の風だ。萌える息吹から生まれた光風は僅かに薄桜色に染まっている心地がする。胸いっぱいに息を吸えば、ほのかに色付くような花の薫りがした。
――だが、開けたままでは流石に冷えるだろうか。心配したカガミは戸を閉めようとしたが、そのままにしておいてほしいと言われたのでそれに従う。そのおかげか、蒲団の側にも淡い春の気配がさらさらと満ちていた。
とても、あたたかな日である。縁側に座って陽に当たってもらうのもいいかもしれない。後でそう言おう。

身を起こした師に白湯を渡しながら、カガミは思うままに続けた。

「そういえば、今日は夢見も良かったようで。楽しそうに笑っておられましたよ」
「そうだね、珍しく良い夢だったかな」
「どんなものでした?」
「……昔の夢をね、見ていたんだ。うんと昔だ、まだ子どもだった頃だね」

さらり、と風が往く。
春の海のように静かな声だった。どんなに激しい悔恨も未練も、愛憎や寂寥も全て捨て去られた末の静謐である。若き日のように激情を覆い隠した仮初の静けさではない。いつからか全ての感情が透明になったような、まさに浮世離れした人に変わってしまった。それに至るまでの長きにわたる道果をカガミはずっと見ていたのだ。

今までの日々を振り返り、幸せでなかったと言えばきっと罰が当たるのだろう。カガミはそう弁えている。最も敬愛すべき人の一番近くで共に歩み、時には支え。隣で積み重ねた日々の全て、その思い出の数が即ちカガミにとっての幸福の数である。
だが、かの人との半生はいつも胸の底に一掬いの涙が溜まっているかのような、切なく薄甘いものだった。イズナ様、と呼ぶ度にその切なさが身体の隅々、――指の先に至るまで滔々と溢れ返り、肺は溺れてしまいそうになる。二人きりの時だけは他でも無いその名前で呼ばせてくれとも強請ったこともあったが、慎重な師は決して譲らなかった。
最早その名を最後に呼んだ日など霞んで久しい。だが、それは今でもこの世で最も美しいと思う言葉だ。結局いつしか敬称で呼ぶようになり今まで折合いを付けてきたが、忘れた時など終ぞ無い。
もしも言葉に手触りがあり、触れることが出来たのなら、それはどんな感覚なのだろうか。埒も無い空想をカガミは不意に巡らせる。その言葉はきっと光を閉じ込めた淡雪のような儚さだろう。触れれば、すう、と呆気なく溶けてしまうような、そんな脆く尊いもの。
呼んではいけないのだ。あの日約束したのだから、だからこそ一番近くに置いてもらえた。触れてはいけない、呼んではいけないのに。それでも、カガミにはどうしても諦めきれなかった。
気付けば。その名前を胸の底から手繰り寄せ、祈るように呟いていた。

「――イスゞ様」

手を伸ばし、固く結ばれた目隠しの結び目を解く。乱雑さなど欠片もない、ただ髪を撫でる春風のように静かだったので。前触れなく暴かれた事に彼女は一瞬気付いていないようだった。
ふる、と。透き通る薄い目蓋が怯えたように打ち震える。にわかに声を強張らせた。

「カガミ、」
「もう、いいでしょう。マダラ様も、貴方を知る人はもう誰も此処にはいません」

これは今や無用な枷でしかない。元より何の意味も成していなかった布切れをカガミは放り投げた。こんなにも軽いのに何と重い呪縛だったことだろうか。
本当は、イスゞは盲いてなどいない。半永久的な記憶の書換という彼女固有の瞳力を過去に用いた事により視力は低下していたが、日常生活に支障がない程度には見えているのだ。それでも、兄と一族の為に眼球すら捧げたという実弟の献身を損なわせない為だけに。その名誉を守る為だけに、ただ只管ひねもす光を阻む布を巻いて虚構の盲目を演じ続けていた。
花の綻びを待つことも、
長雨の向こうに青い空を仰ぐことも、
冴えた月花を湛えることも、
雪のまたたきを惜しむことも、その目には訪れなかった。どれだけ世界が美しくても、その網膜は一面のつつ闇に染まっている。
イズナの生き様がそれを阻むから。何よりもイスゞがそうある事を望んだのだから。
哀れむべきではないのだとは承知の上だ。だからこそ、これはカガミの我儘でしかない。上目で見遣り、態とらしい程に甘えた声でカガミは続ける。

「ねえ、イスゞ姉様。いけませんか」
「ふむ……。私はどうにも、その手のおねだりに昔から弱いんだよね」
「先刻ご承知です、分かっていて言いました」
「可笑しいね、そんなに悪い子だったの?」

揶揄うような言葉にカガミは肩を竦めた。

「ですが、俺が言うのは珍しいでしょう?」
「そうだね、カガミは良い子だから」

イスゞは零れるように息を吐き、そろりと目蓋を持ち上げる。長い睫毛が幽かに揺れていた。虹彩は余りにも透き通り、光の粒が底に沈んでいるかのようだった。彫飾のようにうっすらと刻まれた皺すら狂おしい。カガミでさえその顔を間近で見るのは久方ぶりであるが、矢張り美しい人だと改めて思った。
それを知ってか知らずか、イスゞはカガミを一瞥した後、居心地悪そうに目を伏せる。面映いのか、困ったように眉を下げていた。

「うーん、……。あまり見ないでほしいな。こんな皺だらけになった顔、今更見られるのは恥ずかしいよ」
「何を仰るんですか、少しも変わらずお綺麗でいらっしゃる。あんまりお美しいから、そうやって顔を隠して下さっていて実は安心していたんです。きっと気が気じゃなかった」
「そんな物好きなのは、流石にカガミだけじゃないかな」
「そうでもないですよ。十年くらい前にはダンゾウも言ってましたから」
「え?」

イスゞは素っ頓狂な声を上げる。流石に驚いたらしい。

「ダンゾウが? ヒルゼンではなく?」
「ヒルゼンも、です。あいつは未だにですね」
「……変わった子が多いね」

呆れたように言うイスゞにカガミは苦笑する。目病みの何とやらという言葉も思い出したが、結局言わずにおいた。

いい天気なので日向ぼっこでもしましょう、とカガミが提案すると、意外なほどあっさりとイスゞは了承する。嬉しそうに微笑を湛えた顔が酷く甘やかに見えた。先程見たという夢の所為なのだろうか、どことなく今日のイスゞは儚くあどけない。ほんの少し目を離すと、けぶる光の中にうっかり迷い込んでしまいそうだった。
花風に攫われそうだと言えば、流石に笑われるだろうか。首を傾げられるのが関の山かもしれない。
随分と軽くなってしまった身体をカガミは抱き上げる。腕に伝わる重みとぬるい体温。この人は確かに此処にいるのだと、そう思うと何故か酷く安心した。

「このくらいなら歩けるよ」
「まあまあ」
「そうやって、最近すぐに人を年寄り扱いするね」
「まさか、違いますよ。それにどちらかと言えば逆です」
「逆?」

怪訝そうな声で問われたが、カガミは笑って答えなかった。子供扱いしていると言えば流石に叱られると思ったからである。
それに加え、本当は貴方が消えてしまいそうで不安なんだ、などと。そんな歯の浮くような台詞は気恥ずかしく、いくらなんでも言う気になれない。婚約者にすら言ったことが無いのだから。代わりという訳ではないが、抱き留める指先に少しだけ力を込めた。

縁側に座ると霞の空はいよいよ明るく、春風は淡い。庇から滴り落ちる陽光は、はらはらと眩しい。
あの陽光のゆらめきは気の早い陽炎なのだろうか。風がある所為か光の筋が揺蕩うように揺らいで見える。カガミは思わず目を眇めた。
うちはの者が住む家の軒は通常より深く作られているが、今日は余りに天気が良く日差しも強い。――迂闊だったか、無明に慣れたイスゞの目には辛いだろう。

「昼間に取ることなんて殆ど無かったから、目が驚いているね。色んなものがちかちか光ってる」
「痛みますか?」
「大丈夫だよ。空も明るくて、なんだか夢でも見てるみたい」

そう呟くイスゞは、ほんのりと淡い目付きで外を眺めていた。

「もうすっかり春爛漫だね」
「ええ」
「良い季節だけど春はいつも寂しくなる、……桜が散るからかな」
「そうですね、別れの季節でもありますから」

そんな取り留めの無い話をした。話した側から記憶の水面に溶けていくような、なんということはない話だった。カガミがつらつらと話し、時折イスゞが口を挟む。カガミが話し終えると、イスゞがとつとつと閑話を紡ぐ。毎日顔を合わせているのだから大して目新しい話題など無い筈なのだが、何故か後からあとから雪消の水のように溢れてきた。

時間が止まったような、ひそやかな白昼である。のたりのたりと眠気を誘う昼時というのは、どうしてこうも時の流れが円かなのだろう。時間が滔々と振り返りもせず流れているというよりも、一枚いちまい丁寧に折り重なっていくような深さがある。カガミはいつも不思議に思う。
ちょうど下らない世間話を終えた頃――うちはせんべいの堅焼きで前歯が折れた何某の話だった――、イスゞの目蓋が控えめに弛んでいる事に気が付いた。流石に話し疲れたのだろうか。イスゞは心地良さそうに小さく伸びをし、隣にある柱へと身体を預けた。

「風が気持ちいいと、どうしても眠くなるね。少し寝ようかな」
「では、中に入りましょうか」
「ううん、此処でいい」
「流石にまだ寒いでしょう、冷えてしまいますよ」
「少しだけだよ、こんなにあったかい日だから大丈夫。それに、手が冷たかったら、――」

微睡みながら夢の淵で何事かを言いかけ、イスゞは我に返ったように口を噤む。
花弁が零れる音さえ聞こえるような、ひとときの静寂が降りた。続く言葉をカガミはただ待っている。こちらから聞き返す気には生憎となれない、別段カガミはそれほど人が良い訳ではないのだから。
結局イスゞは目を伏せるだけで、それきり話を続けようとはしなかった。静かに頭を振った後、南賀ノ川の桜並木は見頃かな、と話題を変えた。

「今日は本当に気分が良いから、起きたら散歩に行きたいんだ。カガミ、付き合ってくれる?」
「勿論喜んで。それなら折角なのでお花見もしましょうか」
「お団子も欲しいな、三色の。私はあれを分けて食べるのが好き。弟がね、桃は女っぽくて嫌だ、緑も味が嫌いって言うから皆で交換して食べるの。蓬は魔除けにもなるから兄様が一等好きなんだけど、そうすると一色団子になっちゃう」
「随分変わった食べ方ですね」
「そうだよね。でも、私は桃色が可愛くて好きだったから。なんだか嬉しかった」

――その弟は貴方の願いを聞かずに置いて逝って、その兄は貴方ではなく弟を選んだのに。
カガミは思わずそう言ってしまいそうになる。あの二人が此処にいるのであれば、幾度詰っても足りないだろう。どれ程責めても満たされないだろう。今までどれ程思ったか知れない恨み言が腹の底で深々と凝っている。
それでも、イスゞが狂おしいほど懐かし気に言うものだから、結局カガミには何も言えない。いつものように握り締めた掌の中に押し殺し、何でもない風を装って笑うしかないのだ。

「お休みになってらっしゃる間に買ってきます。甘栗甘でよろしいですよね、あそこの団子が一等お好きでしょう」
「遠いのにわざわざ行ってくれるの? ありがとう、……ふふ、お花見楽しみだね」

そう言ってイスゞは眦を綻ばせる。言の葉もほつれるように蕩けていた。もう大分眠いのだろう。カガミは何故かすぐに立ち去る気になれず、暫しの間その傍らで微睡む姿を見つめていた。別段理由がある訳ではなかったが、敢えて言うならばその時風が止んでいたからなのだろう。
留まっていた春風が駘蕩と過ぎてゆく。慎重にイスゞの羽織を掛け直した後、カガミはようよう立ち上がった。陽だまりでうつらうつらと和む彼女は、なんだか子供のようだった。

――待って、と。カガミが薄暗い廊下を曲がろうとしたところで、明らかに響く声に肩を叩かれた。
振り返る。静かだが切ない気迫に満ちた声である。カガミは慌てて踵を返し、その顔を覗き込んだ。

「いかないで、――」
「イスゞ様?」

返事は無い。いつもの寝言なのだろうか、イスゞはもう目蓋を閉ざしている。耳を澄ますとひそやかな寝息が聞こえた。
その目尻からは一粒の涙が零れていた。光を受けてきらきらと瞬く様は、春の庭に取り残された一掬いの雪の果てのようだった。
カガミは涙の跡を拭い取り、窓の外に視線を送る。
白い日差しは眩しい。余りに陽光が明るいので、眩んだ視界で遠い誰かの幻影を見た気がしたのだ。
真昼間の白んだ月のような、そんな儚い夢まぼろしを。

だが、そこにはもう誰もいない。
よく見れば、それは散り敷いた桜の吹き溜まりだった。雲を霞と。ひとたび春風が吹けば呆気なく過ぎ去ってしまう。
名残りの雪に似た淡い花筵は、風に浚われてすぐに消えた。


(了)


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