分かち合った遠くの日々よ


こんなのも避けられないの、と弟が言った。抑揚に欠けた、ともすれば内容とも相まって侮蔑にも聞こえる声色である。いつもの事だが手厳しい。ごめんね、そう言いつつ半端に眉を下げて苦笑いを浮かべると、イズナは一層面白くなさそうに眉を寄せた。
じゅうっ、と。冷やした消毒布が強く押し当てられる。血が引くような、熱さにも似た焼け付く感覚。思わず私は低く呻いた。

「っ、痛」
「そりゃあ痛いだろうね、痛くしたから」
「意地悪だね」
「本気で言ってる?」
「ううん、――」

ごめんね。また言ってしまった。イズナはこれ見よがしに溜息を吐く。先程から私は謝ってばかりである。


別に気を抜いていたわけではない。
だが、今回の戦でも、私は結果として深くもないが浅くもない手傷を負ってしまった。数人と応戦中に死角から切り付けられ、背中をばさりとやられたのだ。戦線離脱という程ではないが、そのまま捨て置くには少し辛い。幸い手の感覚は正常だったので、軽く焼灼して血を止めてやり過ごした。
一族秘伝の痛み止め、それに加えて戦場特有の高揚感で痛みはすっかり忘れていた。撤退命令により持ち場を引き上げ、兄弟と落ち合った時の表情で怪我を負ったことを思い出したのだ。
兄のマダラは少し眉を顰め、深くはないかと労う言葉をかけてくれた。今まで忘れていたくらい、と私が正直に答えると複雑そうながらも安堵したようだった。一方でイズナは一瞥し、後ろ傷だ、ほんと処置もへたくそ、とふつふつと文句を言った。そこから集落へと戻り、屋敷に着いて落ち着く間も無く小言を頂きながら手当を受けているという次第である。

手当を始めるにも一悶着あった。最初、私は自分でやると言い張ったのだが、イズナが駄目だと言って聞かなかったのだ。
確かに背中の傷なので自分一人では難しい。それなら女中にでも手伝ってもらうと食い下がったが、気を利かせて水やら包帯やらを持ってきてくれた娘をイズナは邪魔でも入ったかのように早々と追い払ってしまったのだ。
可哀想に、最近入ったばかりでイズナに淡く憧れていたらしい子だったというのに。弟はなまじ顔が柔和な優男なために度々誤解されるようだが、その実短気で苛立っている時などまるで容赦が無い。その苛烈さは強面の兄よりもだろう。真冬の時分よく見かける霜柱の如く、薄氷の幻想を見事に砕かれた彼女に内心同情していた。後で代わりに謝っておこう。

「折角気を遣ってくれたんだから、あまり強く当たったら駄目だよ。それに、可愛らしくて良い子じゃない」
「趣味が悪いな、あんな子供に媚売られたって嬉しい訳ないだろ。それにしても、どうでもいい事は一丁前に気にする頭だね。肝心な事にはいい加減なのに」

ぴしゃり、にべもなく切り捨てられる。イズナの機嫌はいよいよ悪い。ここまで酷いのは珍しいのだと、謝罪ついでに一応先の子に伝えておこうか。蛇足だろうか。
兄もだが、いい加減弟も年頃だというのに中々身を固めない。姉としては常々心配しているのだ。
私の場違いなお節介を見透かしたようにイズナが鼻を鳴らす。傷の具合を確認し終え、苛立たしげに舌打ちした。

「また適当に焼いたんだろ、少し布が張り付いてる。ほんと思い切りは良いけど雑だね。こんなんだから兄さんの誕生日の稲荷寿司も毎年駄目にするんだ」
「……それって今は関係無いよね」
「大有りだ、雑だって話なんだから。……駄目だな、面倒だから服も切るよ」
「うん、イズナがやり易いようにお願い。でも、腹掛けくらい付けたら駄目かな」
「俺に取って来いって? 呑気な上に図々しいことで恐れ入るよ、手は動くんだから隠してたら済むだろ」
「……そうだね」
「何、文句でもあるの」

私は頭を振る。

「ううん、何でも無いよ。だけど、服は少し勿体無かったね。この前仕立てたばかりだったから」
「捨てたくないなら繕ってもらったら? さっきの子にでも頼めばいい」
「あの子、裁縫は苦手なんだって」
「へえ、じゃあ良い機会だから自分でやるといいよ。きっと良い修行になる、多少雑なのもマシになるんじゃないか。まあ、どうせ襤褸雑巾が増えるだけだろうけどさ」
「そう、だけど」

何もそんな言い方をしなくても。流石に少し傷付いた。今の格好とも相まって、本当に虐められているように思えてしまう。きり、と胸の前で着物を抑える指先に力が籠ったが、私は誤魔化すように曖昧に笑った。
傷はちょうど胸の後ろ辺りなので、否応無しに背中を剥き出しにすることになる。着ていたのは戦装束だけであり、衣を切ると上半身は晒だけという格好だ。急ぎ汚れを落とす為と冷やす為の両方で水を被って粗方脱いでしまったので下半身も心許ない。
要するにほぼ裸である。仕方が無いとはいえ居た堪れない。いくら何でも辱めに近くはないかと思ったが、どうせ言っても同じだろうと諦めた。弟相手に今更ではある、それでも気まずいものは矢張り気まずかった。

「それで、仕留めたの?」
「……逃げられた」
「ほんと姉さんはしょうがないね」

普段、弟は私を名前で呼ぶ。双子であるイズナが血縁上の繋がりで呼ぶ時は、大抵甘えているか怒っているかのどちらかだ。今は当然甘えている訳がない、情けない姉に対して怒っているのだった。
何が起こるか分からない戦場での一瞬である、いくら気を付けていてもこの位の事は起こりうる。寧ろこの程度で済んだことを喜ぶべきではないだろうか、そう開き直っていたのだが、優秀な弟からすれば詰まらない傷を負ったというようにしか見えないのだろう。
半端な手傷を負わせただけで向こうも仕留め切れずに逃げてしまったのだから、確かに手強い相手ではなさそうだった。先にやられてしまった私が言ったところで、所詮は負け惜しみにしか聞こえないのだろうが。

「幻術をかけ損なったの。クナイも投げたんだけど力が入り切らなかったんだ、不甲斐ないよ」
「それって言い訳?」
「……どうだろうね、単なる反省だと思う」
「ふうん」
「ちゃんと次には活かしますよ。いい機会だから、治るまで久々に手裏剣術でも復習しようかな」
「まるで半人前じゃないか。カガミと特訓か、確かにお似合いだね」
「そうだね、イズナの言う通りだ」

正直にそう応えると、イズナは黙って此方を見返した。居心地の悪さから少し目を逸らす。咄嗟に、ごめんね、と逃げるような言葉がまた口を衝いた。

「――姉さん、」

低い声が鼓膜を炙る。肩越しに振り返った。イズナは持っていた消毒綿を手離し、両手で私の腕を掴んでいる。未だぶすぶすと熱の燻ぶった傷口を見下すように注視するその顔は、真顔に近い抑えた表情を浮かべていた。
透き通った、一切の色が失せた眼差し。イズナが、本気で怒っている時の目だ。
身を引く瞬間に片腕で抱き竦められ、無遠慮に指先で生温い火傷を辿られた。

「イズナ、痛い」
「腹が立つ」
「なにが、っ……」
「こんな詰まらない怪我をする姉さんにも、姉さんに傷を負わせた誰かにも」
「あ、こらっ何してるの、――っ、イズナ!」

湿った熱がぞろりと這う。慌ててイズナの額を押すと、ますます強く引き寄せられた。這いずり回る舌が気持ち悪い。水泡になりかけているのも構わず泥濘んだ傷口を舐められるのだから気が気ではないのだ。
それに、正直かなり痛い。あ、だの、う、だの凡そ意味のない呻き声が噤んだ唇から溢れ出る。段々と視界も潤んできた。力勝負で大の男に敵う筈もないので大人しくしているが、これが可愛い弟でなければ頭突きなり金的なり何なりして死に物狂いで暴れている。大袈裟ではなく拷問に近い。

「だから、痛いって、……う、ぁっ」
「何だよその声。姉さん、もしかしてこういうの好きなの? 随分と良い趣味だね」
「っ、何言って――、!?」

肩口を甘く噛まれる。舐め上げる感覚から啄むような唇のやわさに変わり、優しく滑る手に背が泡立つ。気紛れな弟に慣れ切っている頑強な肝でも、氷水に浸したように冷え切った。――冗談じゃない。
止めて、と語気を荒げて私が言うと、イズナも流石に我に返ったのかバツが悪そうにそっぽを向く。
少し落ち着いてからそちらを見遣ると、不満げな横顔が見えた。尖らせた唇といい、僅かに膨らませた頬といい、それは幼い頃そのままの拗ねた表情で。私は思わず気が抜けた。

「イズナ――」

向き直り、静かに名前を呼ぶ。遠慮がちにその形の良い頭を撫で、そのまま背中を叩いてやった。
大丈夫だよ、と額を付けて笑いかけると、ちゃんと前隠して、と今更のように顔を赤らめてイズナは吐き捨てる。熟れる様に、ほわりと朱がさした頬。貝殻のような薄い耳朶にも薄らと血の色が滲んでいる。先程の剣呑さは何処へやら、これではまるで頑是ない幼子だ。

「だから、さっき腹かけを付けていいか聞いたんだけどね」
「なにも隠すなとは言ってないだろ。背中はともかく大っぴらに見せるなよ、本当はしたないな。イスゞはそういう無頓着なところがあるから嫌なんだ」
「だって、気にしてないと思ったから。それに姉弟なんだから今更だよ」

だが、確かに血の繋がった弟とはいえ、胸を晒して大の大人を抱き寄せている恰好は対外的に大変よろしくない。先程の戯れもだが、いとけない乙女が見たならば卒倒しかねないだろう。
戦の昂りで時折付き合わされる悪巫山戯――どういう意図なのかは知らないが、どうにもイズナは私の生傷を治す役目と責め苛む事に執心している――は今に始まった訳では無いので本当に今更なのだが。

いや、普通に考えるのであれば弟だからこそ、だろうか。二十歳も過ぎてこれほど距離の近い姉弟など、世間的に見ればどう考えても異常だ。これが兄であればもっと抵抗を覚えただろう、私も相当毒されている。
うちはでの棣鄂之情は時に常軌を逸しているとも言われるが、否定は出来ないと私自身も感じている。

血を守る為に排他的なうちは一族では、代々近親婚が基本とされており、それは現在でも変わりない。とはいえ、近親婚といえど一族内の遠縁同士で結ばれるのが通例であり、全血半血問わず兄弟姉妹間では禁忌である。
だが、それは建前なのだ。
一族内でも一部の者にしか知らされていないが、頭領を輩出する家系においてのみ慣例的に兄弟姉妹の近親相姦が行われてきたという事実がある。だからこそ表向きは禁じられたのだ。
うちはにおいて血の濃い交りは唾棄すべき獣欲ではなく、選ばれた家系にのみ許された崇高な行為、――だったらしい。兄弟姉妹で契る事は神話の神々に習ったものであり、神に近づくための儀式だと考えられていたことに由来する。
血に執着し、力に固執する一族らしい考えといえば然もありなん。確かに、その交りの末に生まれた子は血の濃さ故か、一族特有の瞳力は稀に見るほど強大であったと聞く。

――だが、そんなものは、汚れている。

無論、今では廃れた習俗である。血の濃過ぎる子どもに不具が多い事は一族でも知られているからだった。それでも、獣にも劣るような悍しい血を私達兄弟が引いてしまっていることには変わりはない。そう思うと、足元が暗くなるような儚い心地がする。
何が崇高な血か、何が尊い一族か。畜生以下ではないか、そう世間から蔑まれるであろう忌むべき真実である。

不意に黙ってしまった私を、決まり悪そうにイズナが見ている。我に返り、もう一度背を見せた。

「続き、いいかな」
「……ん」

黙々と再度消毒され、火傷によく効く赤い膏薬を塗られる。器用に動く指先には迷いが無い。ついでとばかりに身も拭われ、膏薬の上から綿紗を当てた後に包帯で巻かれ、イズナの手当は終わりである。いつもながらの要領の良さに、頭が上がらないな、と私は苦笑した。

「ありがとう、相変わらず手際良いね」
「呑気だな。誰の所為か分かってる?」
「昔からイズナは何でも器用だったでしょ、兄様や私より」
「二人が大雑把なんだろ。父様の時代でもあるまいし、今時傷口を焼くとか信じられない」
「医療班に行くほどでも無かったからね。背中だと碌に止血出来ないから仕方ないよ」

私がそう言うと、イズナは深々と溜息を吐いた。唸り声のような叫びと清潔な襦袢、それらと共に肩口へと頭を預けられる。少し奔放な黒髪が頬を掠めた。

「ったく、イスゞの阿呆! ほんっと毎回毎回」
「ごめんって、心配かけたね」
「謝るくらいならもっと気を付けなよ。何でこう、詰まらない怪我ばっかりするかな。やっぱりそういう趣味?」
「酷いなあ。だって、イズナと私は違うよ。イズナなら見えれば大抵大丈夫だろうけど、私だと頭で分かってても身体が付いていかないんだ」
「それなら大人しく後方支援でもしてればいい。いつも言ってるだろ」
「でも、これでも一部隊の隊長なんだけどな」
「何が隊長だか、情けない。こんな様じゃ下に示しが付かないよ」
「それは流石に言い過ぎだよ、イズナ」

自惚れでも慢心でも無いのだが、一族全体で見れば私はそれほど弱い訳では無い。五つを越えてすぐに弟と共に初陣を済ませ、十を少し過ぎた頃には写輪眼も開眼した。確かに体力では多少劣るが、前線に出ている同胞内でも指折りの実力がある。指揮を下げる程の足手纏いだと言われるのは暴論だろう。

ただ、それは一族単位で考えた場合の話だ。兄と弟は別格である。実の兄弟、神代以来の双璧とも謳われるマダラとイズナに比べれば、私は明らかに忍の才で劣っている。それは紛う事なき事実なのだ。
今更どうとも思わないが、無双の両雄が側にいる境遇であると否応無く周りの目は厳しく刺さる。本来ならば畜生腹と蔑まれる双子の片割れ、そもそもが私は忌み嫌われる出生だった。それでも私が生かされたのは父である先代が下した結論であったので、表立って何事かを言う者は今ではいない。
まだいとけない子供達を相次いで失い、最愛の忘れ形見には非情になりきれなかった。夜叉とも修羅とも恐れられたうちはタジマも所詮は人の親だったのだ、というのが一族内での見方である。血統を何よりも重んじる上、身内の愛情が殊更深い我々らしい業だ、とも。

だが、恐らく父の考えは冷ややかなものだったと私は考えている。父が与えてくれた薄寒い恩情は、まるで他人事のようだった。本家の血を引く者としての一抹の期待と、優れた方の替玉にでもなればいいという打算だったのだろう。
イズナと比べれば私の境遇は真逆だった。下女の方が上等だと思われるような襤褸しか与えられず、私は初陣を済ませるまで三畳間の納戸で寝起きしていた。それでも、これはお前を疎んでいるのではなく仕方の無い事なのだと、父は始終そんな態度だった。
明確に罵倒された事もない。乳母や周りの大人に比べれば、父は厳しいながらも時に優しかった。だが、真綿で包むように祝福されて育った弟と比べれば、矢張りそう疑ってしまうのは仕方無いだろう。

私はイズナの身代わりであり、彼の出来損ないだ。今では目に見えて蔑まれる扱いを受けている訳では無いが、一族内での私の立場はそれほど居心地が良いものではない。男に混ざって前線に立っている事もあり、妬みの眼差しを肌で感じる事もある。
だが、そういう惨めな立場で構わないと私は思っている。謂わば人柱のようなものだろう。
兄と弟の力は一族内でも圧倒的であり、力が全てである一族では彼等に従う事を余儀無くされていた。それが当たり前ではあるが、必ずしも不満が無い訳でないのである。上澄みのような忠誠と献身だけの夢物語など有り得ない。激化する千手との長きに渡る戦で皆の精神がささくれていく、やり場のない焦燥には何処かの捌け口が必要なのだ。澱んだ汚泥のようなその感情を、同じ血を引く不出来な凡愚に当て付けられるというのは都合が良い。
人は誰かを下に見なければ自分を保てない脆弱な生き物だ。兄に憧れ、イズナを慈しみこそすれ、この境遇を嘆く気は微塵も無かった。寧ろ二人の役に立て誇らしくさえ思っている。

それをイズナは気に入らないらしい。というより、イズナは私が決める全てにおいて悉く気に食わないと言い捨てる。同じ兄姉であっても、兄へと向ける殊勝な態度と全く違った。
ただ、弟に嫌われているのかと言うと、恐らくそうではない。寧ろ逆なのだ。イズナは双子である私に異常なほどに執着している。戦に出て手傷を負う事も、疎まれる立場に甘んじている事も根本は同じだ。姉を傷付けられるいうのがどんな形でもイズナは許せない、らしい。例えそれが私自身であっても。
その気持ちは分からないでもない。私にとってもイズナは特別だ。目を合わせるだけで何を考えているのか大体分かり、他の誰よりも理解し合える半身である。兄とは多少の距離があるが、イズナとは離れ難いほど生まれてこの方ずっと一緒だ。それはこの先も変わらないだろう。

「で、どんな奴だったの。顔は?」
「一応見たけど、でもほとんど覚えてないな」
「ぼんやりしてるなあ。まあいいか、次の戦で殺すからさっさと教えて」
「ねえイズナ。前から言ってるけど、わざわざ探さなくても別にいいんだよ」
「いいもなにも、とんだ勘違いだね。俺が嫌なんだって」
「相変わらず穏やかじゃないね」
「そう? まあ有り得ない話だけど、イスゞだってきっと同じだろ」

確かにそうかもしれない、心の内で呟いて私は笑った。
イズナが先に死ぬ事などあれば、きっと私は狂うだろう。例えイズナが望まなくとも、救えなかった自分を恨み続けるだろう。仇を取る取らないの話ではない、その事実すら受け入れられないのだ。私達はそのように作られている。
イズナは私で、私はイズナだ。私達は二人で一つ、そして二人でずっと兄を支えて生きてきた。私には弟が、引いては兄が全てである。私は弟に一生を捧げる為に生まれ、イズナも兄の為ならば死ぬのだろう。兄にとって慈しむべきは一族であるが、きっと本心では私達二人きりだ。この泥沼のような苦海にイズナと二人一対で産み落とされて以来、ただそうやって生きてきた。他の生き方など知らない、今更出来るとも思わない。

「そんな事言って、私より先に死んだら許さないよ」
「分かってる。イスゞも兄さんも危なっかしくて、とてもじゃないけど置いていけない」
「そうだね、イズナがいないと私も兄様も大分駄目だなあ。兄様の誕生日は多分酢飯にお揚げさん乗せただけになっちゃうよ」
「それは開き直るなよ、ちゃんと反省して」

着物を整え、イズナの手を取って立ち上がる。また怪我したら頼むねと冗談めかして私が言うと、酷く嫌そうにイズナは眉を顰めた。そのまま、不機嫌な足音を響かせ早足で居間の方へと一人向かってしまう。その華奢な背中をしばし見送っていた。

濡れ縁の外に目を転じる。遠くの山並みに赤い残照が映り、気の早い秋の山々と見紛う景色だった。橙に染まった山の陰影が冴え冴えとよく見える。錦繍の波のようだ。帰ってきたのは昼過ぎだった筈だが、思いの外時間が経っていたらしい。
夕凪というのは不思議だ。明確に何かを感じる訳では無いが、特別な匂いがある。安らかに安堵するような、切なく胸をさざめかせるような、そんな優しくひそやかな空気だ。

内所の方からは飯時を伝える声が聞こえる。少し舌足らずな声は先程の娘だろう。もうそんな時間なのだ。
鼻を利かすと良い匂いがした。出汁と醤油と白米と、何かが焼ける香ばしい香り。拍子抜けする程に平和な、生き生きとした生活の匂いだった。諸々が渾然一体となって織り成す香りが、戦さ場との境界にあった精神を日常に揺り戻す。
お腹空いたな、と。昨日の夜に兵糧丸を口にしただけだと漸く気が付いた。

嗚呼、今回も生きて帰ってきてしまった。今更のように私は静寂を噛み締めた。


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