壊す勇気はいらない
カガミは考えあぐねている。
先の戦で怪我を負ったという師を見舞いに来たのだが、玄関先で先程出掛けたと伝えられた。聞けば、ちょうど山向こうの薬師の所に行っていて、しばらく帰ってこないらしい。
明日出直してもいいが、摘んだ花は萎れてしまう。折角なら直接渡したかったけど、代わりに渡してもらおうかな。やっぱり渡してもらった方がいいよな。そう頭では分かっているが、幼い我が儘を持て余しているカガミには中々踏ん切りがつかないでいた。
あの人の喜ぶ顔をこの目に納め、ありがとう、と頭を撫でてもらいたい。
戻ってくるなら数刻後、しかも傷に障りないよう一人のんびり歩いて行ったとのことなので夕刻前になるかもしれない、と。上がって待たせやりたいところだが、今は家主も出払っているから自分の一存で決めていいものか、と出迎えてくれた馴染みの上女中も困っていた。勝手に族長の邸宅に上がるのはいくらなんでも無礼である。そのくらいは当たり前に幼いカガミも弁えていた。それでも、そよ風のような薄様で飾った秋草の花束に目を落とすと、どうしても残念なような、少し寂しい気持ちで満たされた。
「これ、お戻りになったら渡してください。今日は帰ります、お邪魔しました」
「ごめんね、イスゞ様もきっと喜んでくださると思うんだけど。マダラ様もイズナ様もいらっしゃらないから……」
「大丈夫です、ありがとうございました」
「あれ、カガミじゃないか。どうしたんだ、しばらく稽古は休みだろう」
頭を下げて帰路に着こうとしたところ、一つ声が投げ掛けられる。カガミが振り返ると、風呂敷を下げたイズナが立っていた。慌てて深々と頭を下げる。
「こんにちは。お久しぶりです、イズナ様」
「ああ、そういえば久しぶりだったかな。イスゞからよく話は聞いてるから割と会ってる気になってたけど。また背が伸びたなあ、お前みたいな年頃の子はすぐに大きくなるね」
思わず、と言った調子で眦を緩め、やわらかな和毛をイズナは撫で付ける。
「それで、何かあったのか。イスゞの奴、この間また怪我したから休ませてるんだけど、もしかして何も聞かされてない?」
「いいえ、お休みだとは聞いています。その……師匠の、お見舞いに」
少し戸惑いながら、そろそろと顔色を伺うようにカガミは答える。へえ、と驚いたようにイズナが応え、端正な片眉を上げた。
――怒っては、いなさそうである。
そのままイズナは女中の手元に視線を転じ、口の端を少し上げて穏やかに目を細めた。
「カガミ、この後何か用事は?」
「いえ、何もありません」
「ならイスゞが帰ってくるまで待ってればいいよ。折角だから、それはお前から渡してやって」
「いいのですか?」
「しばらく帰ってこないだろうから、お前がそれでもよければだけどね。……そうだ、俺も暇だし剣術でも見てやろうか」
何気なく言われた言葉にカガミは呆気に取られた。ぱちぱち、と一族では珍しい垂れ気味の眼を瞬いて、一瞬固まる。すぐさま泡を食らったように頭を下げ、よろしくお願いします、とそれだけ言った。カガミの胸中を知ってか知らずか、イズナは含みのある顔で口の端を薄く吊り上げている。
実のところ、カガミは以前からイズナのことが少し苦手なのである。
決して嫌いな訳ではない、マダラに次ぐ強さを誇るイズナのことをカガミはとても尊敬している。その心に嘘偽りは無かった。イズナは戦場ではマダラ以上に厳しく峻烈な忍だが、平生の物腰はしなやかで気取らない。族長相手には気後れしてしまう一族の子供たちもイズナ相手には懐いており、彼の後ろに隠れるようにしてマダラの修行風景を眺めると言うのはうちはの子であれば一度は経験することだ。
マダラには畏敬を、イズナには敬慕を。カガミとてそれは同じである。
ただ、同胞達に厳しくも優しいイズナは、彼の姉であるイスゞに対してのみ随分と棘のある物言いをする。出陣以外ではあまり表舞台に出ないイスゞとイズナが二人揃っている姿を見る機会は戦場に他ないので、既に前線に出ている年嵩の同胞から聞いただけの判断ではあるが、イズナはイスゞと不仲である。というより、一方的に嫌っている、らしい。
先の戦でも、負傷してしまったイスゞを労うでもなく、それは不機嫌に叱責し、横暴なまでに冷たく詰ったのだと聞いている。
うちは一族は戦の庭の民であるが故に、女であっても素質さえあれば戦場に立つ。だが、その多くは兵糧の補給や衛生といった後方支援であり、最前線で戦う者は矢張り珍しい。実際に敵と切り結ぶくノ一は、当代では本家の血を継ぐイスゞのみだ。女の身でありながら火線上に立つ彼女を良く思わない男達も少なからずいると聞く。だが、彼らをして時に同情と憐憫を覚えさせるほどに、実の姉に対してイズナは一貫して容赦が無いのだ。
確かに上に立つ者である以上、それ相応の実力が無ければ下に示しが付かないだろう。事もなげに打ち負かしてしまえるのであればそれに越した事はない。だが、そんなものは空理空論。別格の強さを持つマダラやイズナの二人は別として、どんな手練れであっても時には少なからず手傷を負うものだ。イズナはそれすら許さない。イスゞに対する要求はあまりに高く、側から見ると度が過ぎていた。
実弟の理不尽なまでの厳しさに反抗するでも言い返すでもなく、イスゞは笑って受け入れているらしい。家族内での立場が弱いのか、弟可愛さ故なのか。憶測ばかりが飛び交うだけで真相は誰も知らない。
あまりにも可哀想だ、とカガミはどうしても思ってしまう。他人であるカガミでは推し量れない姉弟の事情と言うのがあるのかもしれない。本来ならば立ち入るべき話ではないし、まだ碌に初陣を済ませていないような幼子如きが一端に気にすること自体も烏滸がましいのだろう。
――だけど、と矢張りカガミは思う。
カガミはイスゞの事が好きだった。ずっと世話になっている、唯一無二の敬愛する師匠であり、母のような姉のような拠り所。カガミの親は既に他界し、天涯孤独の身上である。この戦乱の世では珍しくも無い話だが、カガミの事情は他の孤児達と少々異なり、より孤独なものだった。
原因はその容姿である。カガミの両親は両名ともうちは一族の者だったが、その二人から生まれてきた赤子であるのにカガミは一瞥してうちはの血が薄いと思わざるを得ない容姿だったのだ。
綿飴のように柔らかな癖毛と、とろりと垂れた優しい眦。
それだけである。たったそれだけの違いなのに、母は父から不貞を疑われ、それを苦にしてまだ幼いカガミを置いて自害した。そんな父も程なくして戦で死んだ。カガミに残されていたのは、不義の子だと言外に仄めかす周囲からの冷たい視線だけ。
真実、母が不義理を働いたのか今となっては分からないし確かめようもない。やっていない、と。無い事を証明するのは不可能に近いのだから。
だが、真偽などは最早関係のない事だった。結局当事者たちがいない今、当て推量ばかりで生々しい痴情の縺れと面白おかしく判断されたのだ。繋がりが強固であるということは、言い換えれば酷く排他的なのである。異端として目に付くカガミに対して周囲の態度は冷淡であり、中には他族が間者となるよう仕組んだのではないかと酷い妄言を語る者さえもいる。
憤ると言うよりも、カガミはひたすら悲しかった。幼子の心はまだやわい。なまじ歳の割に聡明で分別があったからこそ思い悩み、無垢な精神は擦り切れるように傷付いてしまっていた。
その現状を族長のマダラは憂いていた。幼子一人が本人では及びもつかぬ事柄に翻弄される様は見ていて気持ちの良いものではない。カガミは幼いながらに突出した才で頭角を現しつつあり、そも愛しき同胞である。今後うちはを担っていくであろう幼気な灯を内憂で損ねるのは余りに惜しい。そこで、哀れなカガミが屈折してしまわないよう教え導く役目として、一族において最も信頼の厚い家系の者が選ばれた。それがイスゞである。
よもや外の血では、という疑り深い長老達の疑念により監視を付けるという名目もあったようだが、カガミに対してイスゞは優しかった。真面目に修行に励めば褒めてくれ、怪我をすれば心配し、無茶をすれば叱ってくれた。女だてらに戦場に立つ一人でありながら、イスゞはものやわらかで静かな人だ。感情の起伏が緩やかなので幼心に心安い。その側にいると、寒々とした気持ちが静謐な湖の底の様に落ち着いた。
慕うな、という方が無理な話である。カガミはイスゞの事が大好きだった。
だからこそ、居た堪れない。二人ともとてもいい人なのにどうして仲良く出来ないのだろう、と悲しくなってしまう。己では及ばない事なのに、不甲斐無さを責められているような気持ちになる。イスゞを慕うカガミはイズナにとっては面白くない存在なのではないだろうか、そんな根拠の無い鬼胎まで抱えてしまう。そういう気持ちを待っていると、なんだか申し訳ないような、後ろ暗いような気分になって酷く落ち込む。
その諸々の感情を想起させるイズナへの印象に名前を付けるとするならば、苦手という一言に尽きるのだ。
「カガミ、お前俺のことが苦手だろう」
「――えっ、」
先程まで宣言通りに剣術の指南を受け、そろそろ休憩しようという事で長い縁側に並んで二人座っている。出された上等なお茶をそろりと飲んでいたところに出し抜けにそう聞かれたのだから、湯呑を取り落とさないよう尚更カガミは慌てた。あからさまに動揺したカガミをイズナは笑う。
「あ、えっと」
何の忖度も無く端的に言い放たれた言葉にカガミは声を失くしてしまった。狼狽えて視線を惑わせ、いえ、その、と何の意味も無い言葉を吐く。――馬鹿、これじゃあただの肯定だ。感情を気取られぬようにと再三教え込まれているのに、初歩すら忘れた自分をカガミは呪った。まだ五つになったばかりのカガミには酷な事ではあるのだが。
「構わないよ。別に嫌われてる訳じゃなさそうだし。何か事情があるんだろう、大方イスゞの事とか」
「うっ、……」
ものの見事に当てられてしまった。これが師匠であれば、すごい洞察力だね、などと落ち着き払っているのか、そもそも気にも留めていないのか分からない平らかな態度で微笑んで流すのだろうが、カガミには到底無理な話である。観念して、すみません、と謝った。別に責めている訳じゃないとイズナは言う。
「あの、前からお聞きしたかったことがあります」
「何?」
「イズナ様は、イスゞ様がお嫌いなのですか」
相当な覚悟だったのだが、口に出してしまうと随分と呆気ない。言ってから、自分は何を馬鹿な事を聞いているのだろう、とカガミは冷静になった。そんなこと聞いてどうする。イズナがイスゞを嫌っていたとしても、それは自分には関係のない事である。
「お前はイスゞに懐いてるから、俺が嫌ってると思って後ろめたかったんだろう」
「……はい」
「イスゞも良い弟子を持ったな、あんな阿呆には惜しいくらいだ」
「あ、阿呆じゃないですよ! 師匠は立派な方です」
「なんだ、えらく息巻くね。師匠思いの出来た弟子だよ、やっぱりイスゞには勿体無い」
イズナの声色は優しげだが、矢張り棘を孕んだ言葉だ。思わずカガミは眉を下げる。
「一応建前があるからあんまり言いたくはないんだけど、お前ならいいかな。ちゃんと秘密にできるね」
「はい、誰にも言いません」
「いい返事だ、ついでに指切りでもしておくか。流石に子供染みてるかな」
「……師匠とは、お約束する時はいつもしています」
「だろうと思った。イスゞは俺がいくつになっても子供扱いするんだよ、姉って言っても歳が変わらないのにおかしい話だろう」
「はあ」
なんだかイズナは楽しげである。そうだなあ、と中空に目線を上げ、何か大切なものでも眺めるように目蓋をゆるりと弛緩させた。
「イスゞの事は嫌いじゃないよ。好き嫌いで言うなら、俺は昔から兄さんよりイスゞの方が好きだ。勿論、外聞もあるから兄さんよりは優先出来ないけど」
「えっそうなのですか?」
「そうだよ。双子だからかな、生まれた瞬間からずっと一緒にいるからお互い思い入れが強くてね。わざわざ言うのも妙な話だけど、カガミが思ってるより別に仲も悪くないよ。兄さんには姉離れしろってよく言われる、……あ、これは絶対誰かに言うなよ。
それはいいとして、さっき言ったように俺達家族には体面があるだろ。カガミはまだ戦線に出ていないから詳しくは知らないだろうけど、兄さんはイスゞに甘いんだ。あまり危険な事をさせたがらない、妹だからやっぱり心配なんだろうな。でも、女であっても忍であることには変わりない。そんな状態で俺も姉さんに手温くすると流石に面目が立たないと思わないか。だから、あれは半分はったり、出任せみたいなものだ」
確かに、族長はイスゞをいつも気に掛けていると聞いたことがあったが、てっきりイズナがイスゞを嫌っているからだと思っていた。というより、伝聞でしか知らないカガミがそうなのだから大方がそう感じているのだろう。本末は逆だったらしい。
「とはいっても、もう半分は本気だ。イスゞは昔からすぐに無茶して詰まらない怪我ばっかりするからね。自分に対して執着が無いんだろうけど、――まあ、これは俺の所為だな」
「しゅうちゃく?」
「死にたがりって事だよ。カガミ、お前はそんな馬鹿なところは学ばなくていいからな」
くしゃり、とイズナの華奢な指がカガミの髪をさらう。独り言のような言葉の意味はカガミに余り理解は出来なかったけれども、――嗚呼どうにもこの人は、師匠の事がとても好きらしい、そんな事をぼんやりと感じた。青褪めた薄明りに霞んでいく真珠の残月を眺めているような、なにか儚く美しいものを思って物思いに耽っている寂しげな目をしていたからだ。
――今のイズナ様、まるで師匠みたいだ。
イズナの面差しはイスゞによく似ている。うちはの家族は血の濃さ故に多くが移し鏡のように似ているが、この姉弟はあまりに似過ぎていた。二人並んでいれば流石に分かるのだが、同じうちはの装束でどちらか一人きりだと一瞬では見分けが難しい。カガミも正直なところ、表情と声色以外では、二人の装束の色で見分けている節があった。イズナとイスゞでは浮かべている表情がまるで違うのだ。イズナが動ならば、イスゞは静だ。だが、今のイズナのように透き通るような憂いを浮かべられると、分かっていてもどちらと相対しているのか戸惑ってしまう程に瓜二つなのである。
ふとイズナが傍らに置いていた花に目を遣る。カガミが持ってきた花束だった。見詰める瞳には揶揄うような色を浮かべている。吊り上げる様に唇を緩めた笑い方はいつものイズナだ。
「それにしても、お前も隅に置けないなあ。その年で女に花を送るなんて末恐ろしい限りだよ、しかもちゃんと飾りまでして」
「あっ、これは……。本当はお見舞いに市で何か買いたかったんですけど、お金が足りなくて」
「なんだ、お前も行ってたの」
「イズナ様も行ってらしたんですか? 初めて行きましたけど、どれも高くてびっくりしました」
半期に一度、南賀ノ神社の門前で市が開かれる。うちはと交易のある商人や行商による定期市であり、一族の者は皆誰もが楽しみにしているハレの日である。親のいないカガミには今まで縁が無かったのだが、イスゞが私的な頼み事で何かを手伝う度に律義に小遣いをくれるので、折角の機会ということもあり見舞いとして何か贈ろうと楽しみにしていたのだ。
だが、人里離れた集落で開かれる市は店で商いをするより路銀や運搬の人工を要するために割高である。多少割高であっても、客はハレの高揚感で気安く購う。商人たちも儲けの良い高価なものを揃えて売る。そうすると、都の目抜き通りのような品揃えが出来上がる。
結局、幼いカガミがこつこつと貯めた全財産では、若い女性が好みそうなもの――蝶が思わず羽を休めそうなほど精工な花の簪、品の良い色に染められた錦の飾り紐、夢の欠片のような金平糖や有平糖、繊細な落雁などの菓子に至るまで、どれも手の届かない値段だったのだ。
「はぎれの薄紙しか買えなかったんです。でも、お花を包んだら綺麗かと思って。……こんなの、喜んでもらえるか分かりませんけど」
「心配しなくても凄く喜ぶよ。確かに何か買えば用意するのは簡単だけど、どんな高価な贈り物より心を込めたものの方がずっと良い。お前は賢いね、大切なことが分かってる」
「そうだと嬉しいです。……あの、イズナ様は何か買われたんですか」
慣れない人に手放しで褒められるのは少し面映い。話題を変えるようにカガミは続けた。玄関先でイズナに会った際に風呂敷を持っていた事を思い出したのだ。
「ああ反物をね、イスゞに似合いそうな柄行のがあったから。……まあ、仕立てたところで渡すつもりは無いんだけどさ」
「えっ渡されないのですか?」
「単なる俺の趣味みたいなものなんだよ。イスゞはいつでも修行着ばかりだし、いくら言っても着やしない。まあ着飾る機会もそう無いだろうから、あっても迷惑なんだろう」
「でも、イズナ様が選んでくださったのなら、師匠もきっと喜ばれますよ」
「それがそうでもないんだって。世辞でもなんでもなくて、その花束の方がずっと喜ぶよ」
「でも、……。少し寂しい、ですよね」
「まあね。嫌がってるなら俺も止せばいいんだけどな」
いっそ俺が着ようかな、などと呟きながら、イズナが溜息を吐く。似合うだろうけれども。
確かにカガミがイスゞと会う時はうちはで好んで着られる作務衣に似た質素な修行着ばかりだが、それは単に修行に付き合っているからなのだと思っていた。
いくら質素を是とするうちはであっても、年頃の娘であれば皆多少なりとも着飾っている。先の市でも呉服の店先は特に盛況だった。常時修業着ばかりというのは確かに珍しい。何も女だからという訳ではない、イズナとて先程までは洒落た紬の着流しだった。少々度が過ぎた倹しさだろう。
清廉なイスゞは確かにあまり頓着しなさそうな気質ではあるが、前に上がらせてもらった部屋には細々した小間物が整頓され、季節の花やしつらいなどが行儀良く飾られていた。物珍しさにしげしげと眺めていると、自分で飾ったのだと少し得意げに教えてくれたのだ。イスゞという人は如何にも女性らしいという訳はないのだが、不思議と男勝りでもないのだとカガミは思っている。凛とした、という表現が似合う人だ。
俄に不安になった。そもそも風雅な着物を喜ばないのであれば、花も同じなのではないだろうか。それとはまた違うのだろうか。
「ただいま。ちょうど今は休憩中かな?」
落ち着いた中性的な声。カガミは弾かれたように振り返った。
「おかえり。思ったより早かったね、夕方近くになるかと思ってた」
「途中で面倒になってね、帰りは走って帰ってきたんだ。……そんなに怖い顔しなくても殆ど治ってるから大丈夫だよ、心配なら後で見てくれてもいいから。
ああ、カガミいらっしゃい。何か用があったみたいだけど、待たせてごめんね」
「あ、いえ……」
「どうかしたの?」
口を開けたり閉めたりを繰り返すカガミに、イスゞは首を傾げる。若干当惑したような顔で何かしたのかと問いたげに弟を見遣った。イズナといえばどこ吹く風である。
「……あれじゃないのか。カガミ、お前照れてるんだろう」
「え? ああ今日は着物だからかな、見覚えないから驚いた?」
イスゞはひらひらと袖をつまみ上げ、少し恥ずかしそうに眉を下げる。はにかむような、あどけない笑顔だ。あまり見たことがないその表情にカガミはまた気恥ずかしくなってしまった。
イスゞの言う通り、見たことのない格好に少々戸惑っていた。見慣れた藍の衣ではなく、とても綺麗な――上品な夕暮れ色の羽織と、紅葉と青もみじが流れるように散った深い葡萄色の小袖を着付けていたのだ。いつも一つに結われているだけの髪は蒔絵の簪で纏められ、輪郭の細さがやけに目立つ。カガミは思わず見惚れてしまっていた。
改めて考えてみれば、カガミはイスゞを綺麗な女性というより綺麗な人としか思っていなかった。確かにイスゞのことは好きだが、それは単純に憧れと尊敬が折り重なった無垢なものだったのだ。いつもは真っ直ぐに見詰めている目を合わせる事すら苦労する。顔を真っ赤に染めてもごもご言いながら見舞いの品を手渡したが、それだけで随分と草臥れてしまった。
顔を綻ばせながら、イスゞはゆっくりと癖の強い髪を撫で付ける。カガミの心臓はいよいよ忙しい。
「綺麗な花束だね、わざわざ摘んできてくれたの。ありがとう、すごく嬉しいよ。早く治すからまた修行しようね」
「はい、お大事になさってください」
「そう思ってるなら何で走ったんだよ、大体そんな格好してるのに」
「だから、もう治ってるってば。そうやってイズナはすぐに煩く言うね、可愛くないなあ。ねえ、久しぶりに着飾った姉さんに何か他に言うことは無いのかな? カガミはちゃんと褒めてくれたよ」
「……褒めるも何も、急にどういう心境の変化? また長老か誰かに何か言われたのか」
「ううん違うよ、なんとなく着たくなっただけだから。……駄目かな」
「駄目とは言ってないだろ。でも、イスゞそれも気に入ってなかっただろ。要らないんじゃないの」
素っ気無くイズナが言う。拗ねているようにも聞こえた。
「そんな事ないよ。だって、これもイズナが選んでくれたものだよね。忘れちゃったの?」
「いや、忘れてないけど」
「どうしたの、着物取るのに勝手に部屋入ったから怒ってる? でもね、イズナが今朝早く出掛けてたから仕方なかったんだ。兄様に一応言付けは頼んだんだけど、入れ違いになっちゃったのかな。
もしかして誰かに譲る予定だった? だったらごめんね、どうしようかな」
「違うよ、なに勝手な事言ってんの」
「ふうん、じゃあどうしてそんなに不機嫌なの? ……まあ違うならいいや。
そうだカガミ、一緒にお菓子食べない? 帰りに吹寄を買ってきたんだ、お茶を淹れてくるから皆で食べよう。イズナはどうする、いる?」
「……いる。いいよ、俺が用意してくる。疲れただろうし座ってたら」
「助かるよ。ありがとう、気が利くね」
「別に。イスゞに任せたら色の付いた白湯が出されるからね」
「イズナ様、おれもお手伝いします」
「お前もいいよ、一応お客だから。そもそもイスゞに会いに来たんだろう、折角だからなんか話してやってて」
いいのだろうか、とイスゞを見上げる。さらりと清かに笑ったイスゞが、イズナが淹れてくれるお茶は美味しいよ、と少し見当違いのことを言うのでカガミは気が抜けた。確かに先程頂いたお茶は美味しかったけれど、そう言うことではなくて。
――まあ、いいのかな。
大人しく待っている間、カガミはイズナの剣術が凄かったという話をした。剣では兄よりも強いからと、イスゞは前置きした後、実は幻術が苦手だから、幻術の筋が良いカガミならそのうち一本取れるよ。虫が大嫌いだから油虫とか芋虫の大群を見せるといい、と言ってのけた。というのも、子供の頃は全く平気で、嫌がるイスゞ相手にもよく悪戯をしていたそうだが、一度本気で怒ったマダラに幻術で説教されたらしく、それ以来一切駄目になってしまったのだとか。
カガミはふんふんと頷いた後、はてと首を傾げる。打合い稽古中に術をかけるのは卑怯だと思うのだが、いいのだろうか。内容も意外とえげつない。
「それより、イズナは凄く厳しかったでしょ。勉強にはなっただろうけど、結構大変だったんじゃないかな」
「少しだけ。でも、お優しい方ですね」
「そういえば、あんまり話した事なかったっけ。あの子は優しいよ、ちょっと素直じゃないけどね。でもそこが可愛いんだ」
「それはイズナ様が聞いたら怒られそうです」
「じゃあ秘密だね」
いつものようにイスゞが小指を出す。その華奢な指先に己のやわい小指を絡めながら、秘密というのは、共有する間の絆を強めてくれるらしい、とカガミはそんな事を思った。
またイズナに剣術を教えてもらおう、叶うなら師匠も一緒がいい。それはいい、きっとそうしよう。
途方もなく幸せな想像ばかりが膨らんで、なんだかとても嬉しくなった。
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