遠くまぼろしは溶けて



屋内へと足を踏み入れると、一面は火の海と化していた。草木が激しい音を立て燃える様は、まるで悲鳴を上げているようだった。火の粉が舞い、熱風が容赦なく不死川の肌にまとわりつく。ひと息吸えば間違いなく喉が焼かれるだろう、とシャツの袖で口元を隠した。

これは早急に彼女を連れ出さなければ、手遅れになってしまいそうだ。幸い彼女が居そうなところは検討がついていた。燃え落ちる木の葉を避け、決死の思いで猛火を潜り、最小の被害で進んでいく。この際、彼女を失うことに比べたら手足の火傷などかすり傷だ。

ちょうど植物園の真ん中まで進んだところで、彼女と思わしき人影を見つける。彼女はそこでしゃがみこみ、一心不乱に花壇の土を掘り起こしていた。どうやら建物内に引かれていた水路によって、花壇の周りはまだ火が回っていないようだ。不死川は碓氷の無事を確認すると、張り詰めていた緊張の糸が漸く緩んだ。
だが、まだ安心はしていられない。すぐさま彼女へと近づくと、土を引っ掻く手を後ろから掬い上げる。

「何してやがる!早く出るぞ!」

「し、不死川さんっ!?」

振り返った彼女は頬や髪に煤を付け、熱気のためか額に脂汗を浮かべていたが、見る限り大きな外傷は無さそうだ。だが呼吸は浅く、このまま長居するには危険な状態だった。彼女が不死川を捉えると驚愕からか瞳が大きく見開かれる。そしてすぐに眉間に皺を寄せ、色を作した。

「どうして入ってきたんですか!」

「てめぇを助けにきたんだろうがァ!」

怒号に被せるように、負けじと声を張る。不死川の言葉に、彼女の瞳が戸惑ったように揺れた。

「私は大丈夫ですから、不死川さんは逃げてください」

先ほどの興奮を抑え、彼に静かに告げると彼女は再度花壇に手をかける。白魚のように綺麗な手は煤や土埃で黒く汚れていた。

「ふざけんなァ!」

逃げる気のない態度に焦った不死川はぐい、とさらに強く腕を引っ張る。彼女と負けじと踏ん張ってはいたが、やはり男女の力の差で体は大きくよろけた。

「離してください!大事な花なんです!」

それでも彼女は花壇から離れようとしなかった。その細腕を大きく振り、不死川の手から逃れようとする。

「私の全てだったの!お願い、お願いします!」

「命より大事なものがあるか!!!」

不死川が暴れる彼女を抱き寄せるように引き寄せ、腕を胴体に回す。もう一方の手は細腕をがっしりと掴んだ。どうにか抜け出そうと彼女が掴まれていない方の手で不死川の腕に触れた時、ぴたりと先ほどの様子が嘘のように大人しくなる。
ここに来るまでに負傷した火傷を目にしたのだろう、彼女は漸く肩の力を抜いた。

「早く出るぞ!」

これは好機だと思い、彼女の頭から持ってきた上着を被せ来た道を戻る。一歩一歩、慎重かつ迅速に前進し、出口へと確実に歩を進めるが、先ほどよりも勢いを増した炎は、二人の行く手を阻むように立ちはだかった。
メキメキと何かが軋むような音が聞こえたと思うと、前方にあった木が業火を纏い耳を劈くような音を立てて地面に倒れる。
その衝撃で飛び散る火の粉がかからないようにと、咄嗟に彼女を腕の中へと抱き寄せた。

「不死川さ、ん」

彼女が不安気に名前を呼んだ。絶望的な状況に唇を噛み締める。他に抜け道はないか、と周囲へと視線を巡らすが、そう何度も都合よくはいかないらしい。大きな声を出したせいで、酸素が上手く頭に回らず目眩がした。万事休すかと思われたその時、すっと上着の隙間から腕が伸びる。人差し指の示す方へと目を向けると潜って通れそうな抜け道を見つけた。

「行くぞ!」

そこからは早かった。まず彼女を通らせ、後から不死川も続く。潜り抜けた先は思いの外、出入口の付近だったらしい。彼女の手を取り、全速力で走り抜ける。気づくと、肌を焦がす熱気はそこには無く、代わりに外気の風が汗を冷やした。二人が出てきたところを待ち構えていたかのように嘴平やちょうど到着したであろう不死川の後輩、そして救助隊員が駆け寄る。

「先輩!なんて無茶を…!」

「…来るのが遅せェ」

救助隊員が毛布を肩にかけ、救急車へと誘導する傍らで不死川の後輩が焦った様子で話しかけてきた。不死川は彼に短く一喝すると、碓氷に視線を寄越す。
彼女は周りの声になど気にもとめず、ただただ崩れゆく植物園を見つめていた。
その透明な瞳は炎炎と燃える緋を宿し、鈍い光を孕んでいた。



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