珈琲の馥郁

第一章 昼下がりに居る蛹たち

しかしながら山田くんは、学級人数の三分の一を占める「転寝せずに授業を受けている級友たち」から一斉に視線を向けられて笑われるという異常事態に混乱しているようだった。そんな彼に、またもや後ろの席の男子から「ジロちゃん、『残念なことだよ』」とのフォローが入る。そこで漸く山田くんは自分の今置かれている状況――先生に当てられたということ――をのみ込んだらしく「あ、えっと……『残念なことだよ』」と未だ戸惑いの色は潜んでいたけれども、先生に向けて回答するのだった。
 この一部始終が、山田くんの後ろの席の男子の左斜め後ろに座っている私にはよく見え、はっきりと聞き取れた。ただし、やはり真正面から山田くんの綺麗な瞳を眺めることは叶わなかったけれど。
 山田くんの困惑しているのが面白かったのか、再び教室中で笑い声が起こる。すると遂に、眠っていた級友たちも何だ何だと目を覚まし始めた。山田くん、恐るべしである。
 先生は段々と級友たちが起き出したのを見て、満足したように「うん、いいですね」と一つ頷いた。そして、冗談っぽい調子で私たちに向かって語りかける。

「では皆さん、『口惜しかりけるわざかな』の訳は山田くんが寝ていてとても『残念なことだよ』、で覚えましょう」
「はぁ?! おい、それはねーよ!」

 先生の誂いとも取れる教授の仕方に、山田くんは焦ったように立ち上がり、照れているような声を上げた。すると、またもや学級全体が笑いに包まれる。さっきよりも数が増えたそれは、きっと廊下に漏れてしまっているだろう。山田くんが関わるだけでこんなにクラスが明るく楽しいものに様変わりしてしまうのだから、これはもう本当に彼の才能としか言い様がなかった。
 といっても、当の本人は少々不満のようだが。

「……くそっ」

 自身が招いた結果とはいえ、もどかしそうに着席する山田くん。しかしそれ以上先生に反発しないところが、暗に山田くんが心優しい人間であることを物語っていると私は思った。きっと、山田くんがこれだけ人に優しいのだから、一郎さんは相当人間として出来上がっているのだろう――とまで考え、そういえば彼について知りたいことがあるのを私は思い出す。
 ただ、それを知るためには、どうにか彼の弟である山田くんと指しで話せるまでに仲良くなる必要があった。ただそれは、現状からして非常に難しいもので。私は彼の後ろ姿を見つめながら、どうしたものかと頭を悩ませていた。
 そんな時だった。突如として振り返った山田くんと、ばっちり目が合ってしまったのは。
 きっと情の深い彼のことだから、自分を起こし、助け船まで出してくれた後ろの席の男子に、一言くらいは感謝を伝えておかないと、とでも思ったのだろう。しかしその振り返りざまに、私が彼の背をガン見していたがために、彼の視線は私のそれとかち合ってしまったのだ。
 山田くんの双眼は、真ん丸どころではないほど大きく見開かれている。その虹彩部分は相変わらず緑と黄のコントラストを成していて、私は突然のことながらその美しさにはきちんと息をのんでいた。何とも呑気なものである。
 もしもこれが少女漫画のワンシーンだったなら、きっと二人は胸をときめかせ、以後は素敵な恋愛に没頭していくことになるのだろう。しかし私と彼が見つめ合っているここは、あくまでも現実世界だった。故に、残念ながら目と目が合ってもキュンとくることはなかった――と思ったら、山田くんは顔を真っ赤に染め、バッと前に向き直り、即座に腕を組み、ぽすっという効果音が付きそうな勢いでそこに顔を埋めたのである。これは正に、少女漫画では王道とされている、男女共に照れたときに起こすアクションだった。割と頻繁に少女漫画を読む私は、眼前で繰り広げられた青春にときめくどころか、寧ろ興奮してしまった。と同時に、一つ思う。山田くんはやはり女性慣れしていないのだ、と。
 タイミングの大変良いことに、そこで授業終了のチャイムが鳴り、私はハッと我に返った。そして今自身のいるここが現実世界であることを思い出す。瞬間、私はついさっき起きた出来事が誰かの目に留まっていないか心配になった。思わずパッと学級全体を見渡す。けれどもまあ、何とも幸いなことに、誰一人として私や山田くんに視線を寄越している人はおらず、私はホッと胸を撫で下ろした。

「それじゃあ、今日はここまで」

 先生も、私と山田くんの間に発生した少女漫画的イベントには気付いていない様子である。正直、先生に目撃されるのが最も恥ずかしいと思ったため、改めて私は、先の出来事が誰にも見られていなかったことにふう、と安堵の息を吐いた。

「きりーつ」

 学級委員が挨拶のために掛け声を出した。それはぽかぽかの教室にはやけに呑気に響く。
 私は心配で速まっていた鼓動を落ち着かせようと胸を押さえながら、静かに椅子を引いて立ち上がった。級友達も、勿論山田くんも、ぞろぞろと席を立つ。しかし不思議なことに、彼の後ろ姿からはいつもの覇気を感じなかった。

翠と黄のピノキオ




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