珈琲の馥郁

第一章 昼下がりに居る蛹たち


「れーい」

 先ほどの少女漫画的展開がよほど彼にとって精神的負担になったのだろうか。学級委員の掛け声が聞こえたため「ありがとうございました」と丁寧に礼をしながら、私はそんなことを考える。けれどもそれより気になったのは、大抵の級友たちが「あざしたー」となあなあで礼を済ませたこと。いや、何も彼らの不躾を非難したくなった訳ではない。ただ、裏を返せば「この教室にいると気を抜ける」ということであるそれに興味を惹かれ、心が温まるのを覚えたというだけである。
 その後、級友たちが自席を離れて喋り出し、騒々しくなった教室から、古典の先生は扉をガラガラと開けて静かに出ていった。私はというと、特に誰かに話しかける用事もなかったため、大人しく着席して山田くんの背を再び注視している。
 彼は既に仲のいい男友達に囲まれて、先ほどのことを揶揄われていた。そこには先刻の真っ赤な顔をした山田くんも、覇気のない彼も存在しない。さっきの山田くんは本当に山田くんだったのだろうか、とどことなく哲学的な疑問に至ってしまうほど、彼はいつも通りの、不良になり切れていない不良男子高校生に戻っていた。
 というように私がじっと山田くんを観察していると、開けっ放しにされていた扉から担任の先生が教室に入ってきた。

「おい皆ー、帰りのホームルームやるから席につけー」

 先生が呼び掛けると、やはり伊達に一年を共に過ごしていないのだ、皆は素直にぞろぞろと席に戻っていく。その間も、私はやはり山田くんの背中を見つめていた。
 思ったが、私は今、傍からしたら恋する乙女に見えているのではないだろうか。ずっと山田くんを見ているなんて、その事実だけを受け取られればストーカーと勘違いされる可能性もある。しかし、そうではないのだ。ただ、今日なら「挨拶するだけの級友」という寂しい関係を壊せる気がするんだけどどうかな、という期待の念を彼に送っていただけである。
 そして、どうやら今日は私の眼力が彼に届きやすいように設定されているらしい。彼はまた、しかも今回は確実に私を見るために、こちらを振り向いてきた。その美しきオッドアイと視線が絡むのは、本日だけでもう二度目。今までの私と彼からすれば間違いなく青天の霹靂だろう。私は内心で少なからず驚いていた。きっと山田くんも、私が見ていたことに驚いたのだろう、遂に顔全体を困惑の色に染めて「な、何でだよ……!」と心の声を漏らしたのだった。
 しかしまあ、今は当然の如くホームルーム中である訳で。

「山田、どうした?」

 山田くんの心の叫びを聞いて、先生は不思議そうに彼に問いかけた。級友たちも皆、どうかしたのかと彼の方を見遣る。そうして一斉に集まった彼への視線に、山田くんは我に返ったようだ。

「あ、いや……何でもねーよ」

 皆から見られてばつが悪くなったのだろう、山田くんは私から視線を外すと、前を向き直って不貞腐れたように呟いた。先生は「そうか。じゃあ話続けるぞ」と彼の様子を見ながら言って、彼が「おう」と頷いたのを確認すると、ディビジョン・ラップ・バトル予選日が休校になる旨を詳しく話し始めた。私はその間、山田くんと打ち解けるのは今日だ、今日しかない、と胸の内で情熱の炎を燃やしていた。





 放課後というのは、生徒にとって非常に自由な時間帯である。部活に参加することも、アルバイトに従事することも、趣味を嗜むことも、とにかく法の下であれば何だってできるからだ。実際、帰りの挨拶をしてからまだ数分しか経っていないのに、もう「部活行こうぜー!」と教室の入り口からクラスの誰かに声を掛けている他学級の男子がいたり、「ねえ、今日カラオケ行かない?」「うわー、行きたかったけど今日バイトだ、ごめん!」と会話する女子二人がいたりと、同期の皆は色々なことの為に放課後を有効活用しようとしていた。となれば私も皆に倣い、この青春の代名詞のような時間を最大限に利用しなければならないだろう。そう、遂に今日、私は山田くんと会話をするのだ。
 掃除の為に机が全て後ろに下げられてしまったから、私は今、通学鞄を肩に提げ、教室の壁に凭れている。肝心の山田くんはというと、ついさっきサッカー仲間からの「ジロー、サッカーやんぞ!」との誘いを受けていたので、恐らく更衣室に着替えに行っているのだと思う。つまるところ、私は彼が着替え終わって教室に戻ってきたタイミングで、迷惑になると分かっていながら話しかける算段なのである。しかしながら、気怠げに掃除に取り組んでいる級友たちが何だか別世界の存在に見えるほど、私は緊張してしまっていた。
 山田くんと言葉のキャッチボールをしないまま積もってしまった「五年」という年月。これを今更かき崩すのは、思ったより勇気がいることらしい。ただ彼を待っているだけなのに、いつもより心臓が細かく拍動し、呼吸が浅くなっているのが分かる。けれども彼と「挨拶するだけの級友」のままでいるよりは、今果敢に話しかけて何かしら関係に変化を起こした方が、今後の自分にとって良いというのは十二分に理解していた。故に私は覚悟を決めて、さっき二度も目が合ったことを根拠に、自分は強運の持ち主だからきっと上手くいくと自己暗示をかけることにした。

自己暗示で安心しよう




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