珈琲の馥郁

第一章 昼下がりに居る蛹たち

けれども私の試みは、早くも山田くんが登場してしまったことで、虚しくも終わりを告げる。
 緊張で人の気配に敏感になっていた私は、誰かが左の扉から現れたのを感知し、瞬時にそちらへ顔を向けた。するとそこには自分より遥かに背の高い、運動着を着て黒髪を今どき風に流している彼、山田くんがいた。
 私はびっくりした。それは勿論、予想より早かったからというのもあるが、それよりも彼の横顔が不良少年らしい強さではなく、ルンルン気分というのか、無邪気な少年のような明るさを湛えていたことに、私は胸を突かれてしまったのだ。
 けれどもそうだ、山田くんは中学時代にサッカーの全国大会で優勝したことがあるのだった。それほどの腕前を持っているなら、不良男子であることを忘れて(という表現は果たして正しいのか)サッカーをするのが楽しみになっても不思議ではない。しかしまあ、諄いようだが、普段は割と硬い表情をしている山田くんが幼子のようなオーラを漂わせているという、このギャップに私は見事にやられてしまったのだ。それに、これまでにも今のような彼を見たことがあったはずなのにときめかず、今になってそれが起こったという事実に、私は今日がやはり特別だと思わざるを得なかった。
 ああ、駄目だ駄目だ。こんな風に惚けていたら、山田くんに話しかけるための折角の好機を逃してしまう。自分の呑気加減に辟易しつつ、私は鞄の把手をギュッと握り締め、もう今まさに教室から出ていこうとしていた彼に向かって「山田くん」と声を掛けた。その声が存外落ち着いていて、自分の内と外で乖離が始まっていることに私は気付く。
 山田くんは、まさか私に話しかけられるなんて思っていなかったのだろう、こちらに顔を向けて、声を掛けたのが私だと気付いた瞬間、あり得ないという顔をした。彼と見つめ合うのは、これで本日三度目だ。

「え……あ、こ、東風」

 彼はこちらに体を向けつつ、口を吃らせながらも私の苗字を口にしてくれた。それを耳にして、私は胸を打たれる。なぜなら、私は今まで彼に名前を、苗字ですら呼ばれたことがなかったからだ。だから彼が私の苗字を知っていてくれたことに、感動を覚えずにはいられなかったのである。

「私の名前、覚えてくれてたんだ」

 光を反射する二つの宝玉を見つめ、喜びで微笑みながらそのままの思いを零すと、彼はまたもや顔を真っ赤に染めて、私からふいと顔を背けてしまった。

「そ、そりゃあ覚えてるに決まってんだろ……ご、五年も、一緒なんだし」

 ぼそぼそと、山田くんの口から言葉がこぼれてくる。それを余すところなく拾い上げて咀嚼してみれば、彼にとって私がきちんと級友として認められていることが分かった。つまり、今まで私が山田くんとの間に感じていた距離は、全て自分の勝手な思い込みだった訳だ。そのことに安心すると同時に、呆れも湧いて出てきた。今朝もそうだったが、こういうとき、心というものは忙しいとつくづく思う。

「五年って、本当に運命みたいだよね」

 私は取り敢えず思ったことを笑顔で口にした。すれば山田くんはバッと勢いよくこちらに顔を向け、また逸らすという、意図の読めない行動を取った。
 どうしたのだろう、と不思議に思って問うと、彼は暫く間を置いてから、ぼそりと呟いた。

「そういうこと、気安く言うんじゃねーよ」

 彼が発した声は少しの怒気を孕んでいた。そこで私は察する。私は彼の地雷を踏んでしまったのだ、と。
 ついさっき、間違いなく私は何の気無しに言葉を紡いでしまった。そこに山田くんに対する遠慮は微塵もなかったといっていい。そりゃあ、彼と会話したことがないから遠慮すべきところが分からないのは当然なのだが、考えて分からないのと考え無しとでは全く以て意味が異なるのだ。そう、今朝に私が浅慮のあまり、先生に怒鳴ってしまったように。
 至らないにも程があると自身を強く戒めながら、私は素直に「ごめんね」と謝った。しかし彼は何も言葉を返してこない。私はいよいよどうしよう、と焦りを浮かべ始めた。今日が山田くんと仲良くなって一郎さんのことを尋ねる絶好の機会だったのに、ここからどう盛り返せばいいのか、私にはさっぱり分からない。
 いや、というより、こんな愚かな考えを持っている時点で、私は山田くんと仲良くなってはいけないのかもしれない。

「あの、邪魔してごめんなさい。それじゃあ」

 私は再び謝罪の言葉を口にし、どうしても自身への嫌気を拭えないまま、後ろを振り返った。そして、この場を立ち去ろう――としたが、山田くんが「あ、いや、ちげーんだ!」と叫びながら私の左腕をがっちり掴んできたことで阻まれる。何故と思いながら、私は即座に自身の腕、彼の腕、首、そして眼と流れるように見る。そこでふと、掃除をしていた級友たちが私たちの様子を窺っているのに気付いた。途端に羞恥心が煽られ、私は顔から耳にかけて熱されていくのを覚えた。

見つめあい、恋とあい




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