珈琲の馥郁

第一章 昼下がりに居る蛹たち

熱が集まったのは、何も顔だけではない。私の、山田くんの右手にがしっと掴まれている左腕。手首に近いその部分は、きっと彼の手が大きいからだろう、やけに広い範囲で温もりを受け取っていた。かつ彼の握る力が強いからだろうか、熱気は外に発散されることなく、寧ろ内に溜まって波と化し、忽ち自身を侵食してきたのだ。
 彗星の如き熱波に、防波堤を用意していない私が抵抗することなど不可能に等しく。最早自分が何を見、何を聞き、何をし、何処にいるのか、感覚や思考の何もかもが分からなくなるほど、私の脳は自身を制御できなくなっていた。ただただ「周りに見られている」という事実による羞恥心だけが、なけなしではあるけれども、私に理性を与えてくれる。

「あ、あああの、山田くん、腕……」
「――あっ、わ、わりぃ……」

 肺や喉が詰まりそうな状態で発した私の声に、数秒置いて山田くんは反応した。彼の顔が直視できないために真偽は定かではないけれど、恐らくぼーっとしていたのだろう。
 山田くんの我に返ったような声が聞こえてすぐ、私の左腕は解放された。けれども何故だろう、左腕の解放はさることながら、正体不明の高ぶりからも解放されたが故か、私は放心せざるを得なくなってしまったのだ。

「…………」
「…………」

 ああ、何だかんだ私だって異性に慣れていないのかもしれない。まあ、女友達の存在を一度も認識したことがない山田くんに比べれば、男友達(というか、級友?)と話せるだけ私はまだましかもしれないけれど、腕を掴まれただけでこんなにも取り乱してしまうなんて、そうとしか考えられない。それにそうだ、今朝方も先生に抱き止められたり抱き締められたりした際、いつも定まっている自我の所在があやふやになってしまったではないか。故に、やはり、そういうことなのだろう。ああ、自身が恋愛慣れしていないことは、今まで恋愛に興味を持たなかった(のか持てなかったのか)ことから何となく察していたけれど、男性慣れもしていないとは。そのような人間が、女性慣れしていない山田くんと関わりを持とうとするのは、かなり無謀なことではなかろうか? そもそも私は先生や他の男友達とはどうやって関わりを持って――。

「――なあ」
「へっ?」

 自分でもよく分からない思考の渦に呑まれかけていたところを、山田くんの手が私の肩に置かれたことで強制的に引き上げられる。素っ頓狂な声を出しながら無意識に下がっていた顔を上げ、そこから更に幾分か見上げると、山田くんの二つの宝珠が心配そうに輝いているのが目に入った。

「……大丈夫、かよ」

 相変わらず強張った顔ではあるけれど、山田くんのきらきらと眩しい瞳も、少し無理して青年になろうとしているような声音も、いつものぶっきらぼうな口調にしてはどこか気遣わしげだった。そして何より、左肩に感じる重みと若干の温もり。思考に逃避していた私を逃がすまいと言わんが如く再来した少女漫画的イベントに、私は最早「あ、う、うん、大丈夫!」と受け答えするので精一杯だった。けれども何とか彼から距離を置いたのだった。
 今日の私は一体どうしてしまったのだろう。厄日――というには語弊があるが、明らかに身の回りで変化が起き過ぎている。果たしてどこかのタイミングで少女漫画の脇役にでも成り代わってしまったかなどと、こんなときでも俊敏に働く思考に、否が応でも自身の性格を知らしめられつつ、私は一つ深呼吸をして、遂に山田くんに向き合った。

「あの、急に話しかけてごめんね」

 山田くんと視線を交わらせつつ、謝罪の言葉を口にすると、彼は「いや」と僅かに首を横に振って、たまたま視線を逸らしながら、頭を掻きながら、照れ臭そうに言った。

「俺こそ悪かった。別に、怒ってた訳じゃねえんだ。ただ……何て言えばいいか、分かんなかったっつーか」

 途轍もなく山田くんが男子高校生に見えた。いや、彼の肩書きが男子高校生であることは自明の理なのだけれど、そういう意味ではなくて、男子高校生という単語の含むイメージが、そっくり彼に反映されていたのだ。それは、彼が怒っていなかったことを知れたからか、将又はたまた彼の挙動が純粋な感情によるものだと分かったからか。兎にも角にも私は安堵の息を吐きつつ、「そっか。怒ってなかったなら、よかった」と笑った。

「……あのさ。お前、何で今日あんなに俺のこと……」

 見てきたんだよ、とまで言葉を紡がずに、山田くんはどこか気不味そうに俯いて、閉口してしまった。彼の様子を不思議に思いながらも、私は「あ、そうなの。山田くんに聞きたいことがあって」と答える。すると彼はバッと顔を上げ、私に限りなく開いた瞳孔を見せつけながら「お、俺に聞きたいこと……?!」と、大仰なリアクションを取ってきた。

「えっと、駄目かな」

 その反応が困惑しているように感じた私は、やっぱり駄目か、と思いながら確認程度にそう尋ねた。しかしどうやら困惑即ち拒否という訳ではないらしく、山田くんは「いや! 全然駄目じゃねえ!」とブンブン勢いよく首を横に振り、彼の宝石よりも数百倍はきらめきを放つ笑顔を、初めて私に向けてくれた。

「何でも聞いてくれ、もう何でも!」
「いいの? ありがとう。それじゃあね――」

 五年間保ち続けていた関係がどんなものだったかなんて最早忘れてしまって、私は山田くんにつられて満面に笑みを浮かべる。そして、念願叶って一郎さんがディビジョン・ラップ・バトルに出場するのか、するなら誰とトリオを組むのか、山田くんに問うたのだった。

清流の如き青春




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