珈琲の馥郁
序章 Morningと珈琲と美味しいと
とまあ、先生とは対照的に格好悪く言い訳を展開したはいいが、私が生き延びるための手段はあと一つしかない。
「あ、あの……朝ご飯にするので、離してください」
「……ああ、そうだね」
先生の悪戯っぽい声を聴いたのは、私史上初めてだった。
私は先生の腕から解放されると、彼と顔を合わせることなく、勢いよく自室を飛び出した。そして、そのままの勢いで階段を駆け下り、一階の居間を通り抜け、台所に辿り着く。するとそこには食器棚を始めとして、見慣れたものが沢山あって、そこで私は漸くまともに息を吸えた気がした。
しかし今思えば、先生の家は全てがセンスに満ち溢れている。中でも台所は私にとって特別で、立つと何とも不思議なことに、思考の冴え渡る感覚がするのだ。恐らく家事が私には心地良い仕事なのだと思う。
そろそろ気持ちも落ち着いてきた。これなら冷静に家事に取り組むことができそうだ。
一先ずこれから私がすべきことは、先生のために珈琲を淹れることだ。先生は朝食ができるまでの時間で新聞を読むのが日課で、そこに珈琲を出すのが私の日課になっていた。
珈琲づくりはスピード感が大事ということで、私はまず必要器具を棚から取り出し、次に細口のドリップポットに水を注ぎ火にかけた。そして、先生のお気に入りである珈琲豆・ブルーマウンテンの詰まった容器の蓋をパカッと開け、計量スプーンで――とはいかず、最初の関門・王者の風格を感じさせる芳醇な香気が容赦なく鼻の奥に襲い掛かる。けれどもふるふると首を振り、先生のために早く珈琲を淹れるのだと気合を入れ直すことで、私は何とかそれを追い払った。
改めて計量スプーンで容器から適量を掬い取り、ミルに投入する。そして、新鮮な状態を少しでも保つためにすぐに容器の蓋を閉め、棚に仕舞ってから、私は満を持してミルの把手を握った。ここからが第二の関門である。芳香に惑わされずに一定のリズムで把手を回すというのは、簡単なようで意外と難しい。私は気を引き締めていよいよ把手を回し始めた。
さて、何故このような関門が待ち受けているのにも関わらず私がわざわざ豆挽きから行っているかというと、それは先生に朝珈琲をより美味しく召し上がってほしいという思いがあるからだ。この、今私が使っているミルも、私の思いを先生が認めた上で買ってくれたものだ。だから私は何が何でも豆挽きから珈琲を作ると決めているのである。
そうこうしている内に把手の感覚は軽くなり、無事に豆挽きの工程は終了した。そして、遂に私は第三にして最後の関門・コーヒードリップに移る。
ここだけの話、私は抽出が最も苦手だ。というのも、とにかく手順が多いのだ。今でこそ慣れて何とかできるようになったが、一昔前はどうしても手順を覚えられないというので先生によく教えを乞うていたものだ。
まあ、何にせよ先生に
まず、私はドリッパーに正しく折ったペーパーフィルタを取り付け、そこに粉末状になった珈琲豆を入れた。その際、お湯が等しく当たるように粉を均しておくのも忘れない。そして、サーバーの上にドリッパーを置き、沸騰後少し置いた熱湯を粉全体に行き渡るように優しく淹れ、二十秒ほど蒸らす。このときドリッパーからポタポタとコーヒーが零れてくる程度の湯量が丁度いいと、先生が教えてくれた。その後、湯量やポットの角度を細かく調整しながら抽出を行い、やっとのことで珈琲が完成した。
しかし珈琲は兎にも角にも鮮度が重要。早急にサーバーからカップへと珈琲を注ぎ、それを溢さないよう慎重にお盆に乗せる。
「……よし」
やっとのことで珈琲を出す準備が整い、私は意識せずしてガッツポーズを決めた。ハッとして、誰かが見てはいなかったかと辺りを見回す。けれどもやはり周りに人影などなく、私はホッと安堵の息を吐いた。
それにしても、ただ珈琲を淹れただけなのに今日はやけに疲れてしまった気がする。まあいい。そろそろ先生も支度を終えて居間に下りてきているはずだ。私はお盆を両手で持ち、居間に向かう。するとそこには確かに先生の姿があった。先生は特等席に座って既に新聞を読み始めている。真顔なのに真剣さが伝わるその眼差しは正しく先生にしかできないもので、私は先刻の出来事なんて最早忘れて、彼に対する安心感を蘇らせてしまったのだった。
「先生、お待たせしました」
喜びの籠もった声で呼ぶと、先生はふ、と顔をこちらに向けた。そして合点がいった様に「ああ」と頷いて、新聞を一旦隣の席に置いてくれる。それを見計らって、左利きである先生が持ちやすいよう把手を左側にしてコト、と陶器製のカップを置いた。珈琲からはまだ絹糸のような湯気が立っていて、そこには王者を思わせるような完璧な香気も混じっていた。